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11月 10, 2020の投稿を表示しています

高 台 寺

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小さな門を潜って、開山堂への道を進む。右手には臥龍池がある。この池の畔には、石組みはまったくない。そして池のまわりは楓樹などが植えられている。この池を跨いで、開山堂と霊屋(おたまや)を結ぶ臥龍廊があり、その廊下は竜骨のように急勾配で撓って一段と高いところにある霊屋へと繋がっている。ライトアップはこの臥龍廊あたりを照らし出しており、その渡廊とまわりの紅葉した楓が池に映じているのが、また何とも言えず風流である。開山堂自体はわりとこぢんまりとしている。開山堂を出て、坂道を登って行くと霊屋がある。秀吉と北政所を祀っており、屋内の厨子も開帳されている。右に秀吉、左に北政所の木像が安置されており、中心に須彌壇と厨子があり、その一面に華麗な蒔絵が施されている。その蒔絵の模様としては、草花や楽器が繊細に描かれており、高台寺蒔絵として重文となっている。光沢のある漆黒の上に描かれた金色の草花や楽器の絵は、実に豪華絢爛である。家康はこうして北政所の歓心を買って、秀吉が籐吉郎と呼ばれていた時代からの家来である加藤清正、福島政則などの北政所と近しい武将を味方に付けた上で、豊臣家を滅ぼしてしまうのである。しかしこうして、一方で禰々を大切にして秀吉の霊屋にこれだけの財政支援をすると言うこと、そうしてまた北政所亡き後もこのお寺を取り壊しもせずにそのまま残したということ、この辺りが家康の懐の深さなのかもしれない。しかしながら、他方加藤家、福島家は後に徳川秀忠によって見事にお家取りつぶしにあっているのだ。 高台寺 臥龍廊 お霊屋を出たところで、臥龍廊の急勾配の階段を見る。それから傘亭、時雨亭のある方へと登って行くが、この著名な茶室は残念ながら拝観できなかった。そこで竹林を通って、また方丈へと戻る。方丈に入って、正面より方丈前庭の光の芸術をゆっくりと鑑賞する。これはまさに庭の中心にある勅使門を主人公とする光の劇とも思われる。方丈内の部屋に、龍の絵が襖に描かれてある。「大宇遊龍」の文字が書き添えられている。唐門の方から出口に向かう途中に、霊山観音のお姿がこれもまたライトアップされているのが垣間見える。帰り道の高台寺の参道も、フットライトで照らされていて、また風情がある。参道の出口近くの白壁に、「高台寺夢あかり」のスライドが映し出されていた。これまたライトアップされている八坂の塔のそばを通り、東大路へと出る

高 台 寺

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銀閣を出て次の目的地である清水寺に向かおうと思ったが、タクシーの運転手さんに高台寺行きを勧められる。今回の夜間拝観は、銀閣寺・高台寺・清水寺の他に、圓光寺もライトアップをやっているそうである。 高台寺の参道を登って、庫裡の左手より入山する。この寺は東山霊山の山麓、八坂法観寺の東北にあり、正しくは鷲峰山(じゅぶざん)高台聖寿禅寺という。この寺は秀吉の菩提を弔うために、北政所(禰々)が慶長十年(一六〇五年)に建仁寺の三江和尚を開山として開創したお寺である。徳川家康は淀君、秀頼と対抗する北政所を政治的配慮より支援し、この高台寺の造営に多大の財政的援助を行ったので、寺観は壮麗を極めたという。一六〇〇年の関ヶ原の戦いの後、一六〇三年には家康は江戸幕府を開いており、一六〇五年に高台寺が完成、それから一六一四年が大阪冬の陣、そして一六一五年の大阪夏の陣で豊臣氏は滅亡している。しかし一方禰々は出家して後陽成天皇より高台院の号を賜って、このお寺にて七十六歳の生涯を終えている。 裏手から廻って山内に入ると、そこに開山堂が見える。ライトアップされている開山堂の前は池となっており、東が臥龍池、西が偃月池と言う。偃月池の真ん中に、方丈と開山堂を結ぶ渡廊、楼船廊が架けられてあり、その中ほどに観月台がある。この観月台は柿葺きであり、秀吉遺愛のものという。偃月池には、北に亀島、南の岬に鶴島を造っており、桃山時代を代表する庭園と言われている。作庭はかの小堀遠州である。開山堂より、方丈庭園へ廻る。こちらも唐門を真ん中に据えた枯山水庭園であり、白沙の部分が極めて広い。壁に沿って左右に楓樹、枝垂れ桜などの樹木を植えている。中央手前には三角錐の砂盛りが二つある。ライトアップは、唐門にまず照明が当てられ、そしてその左右が照らされ、それから白沙の中央に置かれた二つのライトが唐門を中心にして照らし出し、そのあと白沙と苔の陸地に沿って置かれたイルミネーションの小さな光が転じ、それから庭の手前に設置されたライトより、三本のレーザー光線が右手と左手に各々放射される。庭を舞台とした光の芸術とも言えるこのライトアップが、時間の経過と共に一つずつ点滅してゆく様をしばらく眺め入る。 高台寺 ライトアップ