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12月 4, 2020の投稿を表示しています

東 福 寺

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  寺務所より方丈に入る。当日は映画のロケを行っており、武士や僧侶の格好をした人たちが沢山居た。方丈庭園は重森三玲氏の作で、南庭は禅院式枯山水である。南庭は左方に巨石を縦横に用いて四仙島を表現し、右方に苔に覆われた五山を配している。四仙島の方は、長い巨石を横にして白沙に沈めているものがあり、これは存在感があるが、その他の立てて置いてある巨石が尖っており、その為か石組に今一つ落ち着きがない、との感じを受けた。石組を見る者の心に、統一感や調和感を与えるものとなっていないのが残念である。方丈の裏手には、井田市松の庭、小市松の庭、北斗七星とあるので、八相の庭と呼ばれており、近代禅宗庭園の白眉と言われているようであるが、全体から受ける印象はさほど高雅なものではなかった。 方丈より通天橋を渡って、開山堂へ行く。通天橋の中程に立って、渓谷・川・山の緑そして開山堂を眺望する。ここは楓が多いせいか、景色がとても柔らかである。開山堂常楽庵は聖一国師入定の地に建てられたもので、横に広がりのある一層の建物の上に、正方形の上層・伝衣閣(でんやかく)が乗っており、建物としては珍しい造りである。伝衣閣には布袋和尚を祀っているとのことである。庭園は池泉式と枯山水の折衷式で池のむこうが築山となっており、その手前が白沙で市松模様が砂に描かれている。白沙、刈り込み、岩組、築山そうしてその向こうの山の中腹からまっすぐに伸びた木立と、色々と揃っている。特に感銘を受ける庭ではないが、なにか身近な安心感のある庭である。普門院の広縁に腰掛けて、少しばかり常楽庵と庭園を写生する。 開山堂から出て、通天橋に下る道から眺める愛染堂付近の風景は、しっとりと落ち着いていて風情あり。秋の紅葉の頃に、また訪れたいところである。 普門院 庭園

東 福 寺

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  東福寺は、摂政九条道家が鎌倉時代、建長七年(一二五五年)に十九年の歳月を費やして完成させた、臨済宗東福寺派の大本山である。栄西が臨済宗を広め始めたのが一一九一年、鎌倉幕府の開幕一年前であるから、それから数えると六十四年後となる。九条道家はこの寺を奈良の最大の寺院である東大寺、そして奈良で最も盛大を極めた興福寺の二つよりその名を取り東福寺とすることで、その二つの大寺院になぞらえようと念願したと言われる。開山は聖一国師であり、当初は天台、真言、禅の各宗兼学の堂塔を完備し、京都五山のひとつに列せられていたが、火災により相次いで焼失してしまい、一三四六年に関白一条経通により再建され、それ以降は完全な禅宗寺院となった。 東福寺 方丈庭園

< 洛 南 > 東 福 寺

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  今回の京都行きは、JRの快速を利用する。東福寺はJR京都駅のほうからが、便利なためである。JRの快速は新型車両で、シートも座り心地がよい。京都駅よりバスで東福寺に向かう。バス停より東福寺へ行くのに、少し迷う。臥雲橋を通って、山門へと向かう。臥雲橋は屋根のある橋で、マディソン郡の橋のようであるが、その手前から見える東福寺の堂宇の屋根を望む景色がよい。日下門より境内へ入る。右手に禅堂、左手に経蔵があり、正面に雄大な屋根を持つ本堂が建っている。 東福寺 本堂

宝 篋 院

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  苔の上の落ち葉を撮そうと思って、その落ち葉に触っていると、僧侶に注意を受ける。素人カメラマンはマナーに注意しなければ、と反省しきりである。 宝篋院を出て、車を求めて清涼寺の前まで来ると、境内の銀杏の木が見事であった。これもカメラに収める。それからタクシーを捕まえて、鷹ヶ峰光悦寺に向かう。 宝 篋 院

宝 篋 院

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  お庭への入り口である柴戸には三脚・大型カメラ厳禁との大きな張り紙がある。お庭に入る。今日は絶好の行楽日和の為か、大変な人で混み合っている。紅葉は昨年と比べると、やや色付きが悪いように感じる。しかし庭の全てが紅と黄色の紅葉で埋め尽くさされている景観は、やはり見事である。園内をぐるりと一周してまた中央の径に戻り、何葉かの写真を撮す。 宝 篋 院

宝 篋 院

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  常寂光寺を辞して、今度は宝篋院に向かう。その途中で落柿舎の庵に、柿の実が垂れ下がっているところも風情あり。しかし柿の木がやや高すぎる感あり。落柿舎の中には入らずに、そのまま宝篋院へ行く。 当院は平安時代に白河天皇(一〇五三―一一二九年)の勅願寺として建てられ、当寺は善入寺と名付けられた。南北朝時代になって(一三五〇年頃)夢想国師の高弟の黙庵周諭禅師が衰退したこの寺を再興し、以来臨済宗の寺となっている。それからすぐあとに室町幕府の二代将軍足利義詮が黙庵に帰依し、寺の再興に力を尽くしたという。生前に小楠公楠木正行と親交のあった黙庵から正行の話を聞いた義詮は、正行の人柄に信服し正行の墓の傍らに自らを葬るようにしたという。したがってこの寺にはお互いに敵味方であった足利と楠木の両者が眠ることになったのである。 宝篋院