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11月 20, 2020の投稿を表示しています

詩 仙 堂

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  丈山はこの詩仙堂に凹凸カ十境を見立てている。入口に立つ(一)小有洞の門、参道を上り詰めたところに立つ(二)老梅関の門、建物の中に入り(三)詩仙堂、読書室である(四)猟芸巣(至楽巣)、堂上の(五)嘯月楼、至楽巣の脇の井戸(六)膏盲泉(コウコウセン)、侍童の間(七)躍淵軒、庭に下りて蒙昧を洗い去る滝という意の(八)洗蒙瀑、その滝の流れこむ浅い池(九)流葉泊、下の庭に百花を配したという(十)百花塢(ヒャッカノウ)がそれら十境である。そのほかに名高いものとしては、丈山考案の「僧都」(添水、一般には鹿おどしとも言う)も園内に配されている。 小有洞から老梅関に至る鬱蒼と茂った竹林の趣が、俗界からこの聖賢の住まいに入るための導入部として、誠に良くできていると前回も思ったが、もう一度訪れてみてその思いを強くした。やや薄暗い篁より老梅関を潜ると、そこには清閑な庭と建物の佇まいが現れる。そして詩仙の間を見て、書院の畳に座して刈り込みとその左手の庭を観賞する。この庭には洗蒙瀑から流れ込む流葉泊があるが、そこには手水鉢、石塔などがあり、刈り込みのみの庭よりは、こちらのほうが風趣があると思う。先程の圓光寺を見ていたころからの雨足が、やや強くなり樹木の葉に当たって音を立て始めた。それでしばらくゆっくりと座り込む。やがて雨足も小降りになってきた。そこでいったん入口から出て、残月軒のそばより庭にはいる。中段の庭から下段の庭に下りるところに、背の高い紫苑が二三本花を開いている。薄紫の清楚な色がこの庭に良く写る。下段に下りるその途中には芙蓉の花も咲いていた。十方明峰閣と呼ばれる座禅堂は、その建物も庭もやや詩仙堂の風趣とはあわない感あり。 いまの庭は丈山没後、百年して改修されたと書かれてあるが、いずれにしてもこのような山畔を利用して、趣のある庭を造り上げた丈山の創意はなかなかのものである。景色としては中段の池のあたりから、斜面正面の篁を望むところがよいと思われた。 詩仙堂 庭園

詩 仙 堂

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   圓光寺より詩仙堂に廻る。現在詩仙堂と呼ばれているのは、正しくは凹凸カ(穴+果)であり、詩仙堂はその一室である。凹凸カとは、でこぼこした土地に建てた住居という意である。詩仙堂の名前の由来は、中国の漢晋唐宋の詩家三十六人の肖像を狩野探幽に描かせ、その画に石川丈山自らが各詩人の詩を書いて、四方の壁に掲げた「詩仙の間」より取られている。  石川丈山は天正十一年(一五八三年)に三河の国(安城市)の徳川譜代の臣の家に生まれ、丈山も十六歳で家康に使えた。松平家、本多家はその縁戚である。三十三歳の時大阪夏の陣で功名を立てるべく病を押して奮戦したが、軍律違反を咎められ蟄居の命を受けてしまった。為にこの役を最後に徳川家を離れ、京都にて文人として藤原惺窩(セイカ)に朱子学を学んだが、老母に孝養を尽くすため、広島の浅野公に十数年使えた。そうして母の没後五十四歳で京に戻り、相国寺のそばに棲んだが、五十九歳で詩仙堂を造営した。爾来清貧の中に聖賢の教えを自分の勤めとして、九十歳の天寿を全うした。丈山は隷書、漢詩の大家であり、また煎茶(文人茶)は日本における開祖である。 詩仙堂

圓 光 寺

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  曼殊院より詩仙堂の近くにある圓光寺に向かう。この寺の正式名称は瑞厳山圓光寺と言い、もとは徳川家康の建立になるもので、開山は三要閑室禅師である。一六〇一年、徳川家康は国内教学の発展を図るため、下野足利学校の学頭閑室禅師を招いて伏見に圓光寺を開いて学校とした。 この学校は僧俗を問わず入学を許し、また多くの書籍を刊行したことで有名である。当寺には出版に使用された木活字が現存しており、宝物館に展示してある。当寺はその後伏見より相国寺山内に移り、さらに一六六七年に現在の一乗寺小谷町に移転された。 山内に入りまず庭園を一巡りする。小雨が降っており山内には若い一組の男女がいるのみである。庭園内には洛北で最も古いと言われている栖龍池というのがある。庭の奥には山裾に石段で登ったところに、徳川家康を祀った東照宮がある。その右手のほうは竹林となっており、規模は小さいが高台寺の造りに似ていると思った。また墓地ないには花の生涯のヒロインである村山たか女の墓もあるようだ。明治以降はつい最近まで臨済宗南禅寺派の尼寺であった、とパンフレットにはあるが、現在はどの宗に属しているのか、はたまた独立しているのかの記載がないのも不思議である。方丈に入り縁側より庭を眺める。正面に臥牛石と大きな灯籠があり、その向こうは楓樹の林となっている。栖龍池は残念ながらそこからは見えない。庭そのもののみならず、庭を囲む建物の位置も栖龍地の造られたころよりは随分と異なっ てきているのではないか、との感じがする庭である。ただ写真によれば紅葉のころは見事な景観を見せる庭となるようである。 圓光寺 庭園

曼 殊 院

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  次に小書院の方に廻り、庭園の左側を見る。正面の滝口は二つの立てた石の下部に、薄い平石を橋に見立てて架けてある。立てた石の右側は左のそれよりかなり高い石で、蓬莱山を思わせる。滝の流れはそこから手前に流れてきて、水分石に当たって川は大きな流れとなり、その右側の流れは大きく右奥に迂回して、右方に配されている石橋の下を通って、鶴島の右に広がる白沙の海へと流れ込んでいる。滝口の左には築山があり、そこには三重の石灯籠が置かれており、滝口付近の構図をより立体感のあるものとしている。一三五ミリの望遠を使って、その風趣ある構図の写真を何枚か撮す。折しもちょうど細かい雨が、庭にさらに潤いを与えようとするかのように、樹木の葉にあたり小さな雨音を立てながら、降り始めてきた。 小書院の入り口の手水鉢は梟の手水鉢と呼ばれており、下の台石は亀、傍らの石は鶴を形取っていると言われる。小書院内の狩野探幽筆の襖のある富士の間、玉座のある黄昏の間と小庭を見て、黄不動の絵の掛かつている部屋を見る。良尚親王(一六二九―一六九三年)は二十五歳より二十九歳まで天台宗の座主(管長)として一宗を司り、黄不動を祀って密教を極めたという。また下山しては御所において後水尾天皇を始め、親王、皇子の方々に茶華道を指導されたという。そして三十五歳の時、現在の曼殊院堂宇の完成をみて永住、以来四十年間、茶道、華道、香道、書道、画道を仏道修業の具現と悟達、それを通じて人間性の完成に精進されたとのことである。中庭には一文字の手水鉢と井戸があり、これも風情あり。曼殊院門前の茶店で鰊蕎麦と炊き込みご飯を食べる。 曼殊院 中庭 一文字 手水鉢

曼 殊 院

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  今日は曇り空であり、昼からは雨模様になりそうな日である。阪急で四条河原町に出て、そこからタクシーで曼殊院へ向かう。四条大橋を渡ってすぐ左折し、鴨川沿いに川端通りを北上する。出町柳の賀茂川と高野川の合流しているところから今度は高野川に沿って曼殊院通りに出る。この道を通るのは初めてであるが、特に高野川沿いの道に風情がある。小さな曲がりくねった道を通って曼殊院前の情緒ある参道に出る。  曼殊院はもともと傳教大師最澄の草創に始まっており、(八世紀)当時は比叡山西塔北谷にあって東尾坊と称した。その後平安初期に曼殊院と改名され、現在地に移されたのは江戸初期である。桂の離宮を造営した桂宮智仁親王の次男良尚親王が十三歳で出家されると、父君桂宮は御所の北から当地に移ってきた曼殊院の造営に苦心された。建築、作庭の基本理念は細川幽斎から伝授された古今和歌集、古今伝授、源氏物語、伊勢物語、白氏文集などの詩情を形象化する事であったという。  山門の石段を登って院内にはいる。受付で荷物は預けて下さい、と言われる。特に肩からぶら下げるバッグは、途中で襖等に当たるので中には持ち込めないようになっているみたいである。カメラのみバッグから取り出して大書院に向かう。大書院から小書院の前に、名勝庭園として指定されている枯山水の庭が広がっている。 大書院の縁側の右端に座って、庭を眺める。白沙の向こうには霧島躑躅が並んでいる。そして左手には鶴島の五葉の松(樹齢四百年)が見える。今度は大書院の左端にある縁側の角に座す。正面に鶴島があり、その島の松の根元にキリシタン灯籠(クルス灯籠、または曼殊院灯籠とも呼ばれる)が見える。この灯籠は下の部分が十字架の形を表していることから、キリシタン灯籠と命名されている。左手には亀島と庭園の左隅には滝口の石組みが見える。この庭はこのコーナーよりのみ全貌を見渡すことが出来る。当院のパンフレットには遠州好みの枯山水と記してあるが、小堀遠州その人が作庭したという説もある。時代的には遠州の時代に作庭されており、当時は遠州の使った庭師が活躍した時代であったので、遠州の作庭手法が盛り込まれていることは間違いのないところである。庭の構成そのものは異なっていても、鶴島、亀島を大規模に造り上げ、滝口の石組みを配して、その手前は白砂としている点では、金地院の庭園とかなりの類似点があると考