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12月 10, 2020の投稿を表示しています

法 華 寺

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本堂内陣の桃山様式の須彌壇上には、本尊十一面観音立像が祀られている。興福寺濫觴記には、印度の健陀羅国王が観音菩薩生身のお姿と言われる光明皇后を写すべく、同国第一等の彫刻家を日本へ送り、三体の観音像を刻み、うち一体を日本に残したものがこの観音立像であると記されているとのことだ。そのような言い伝えのあるこの十一面観音像は、唐の檀像様式を受け継いだ素木の一木彫成で、蓮華の光背を持つ一メートルの高さの仏像である。二十数年前に見たときの記憶よりは小さいと感じる。これは初めて拝観したときの印象が強く、その後写真等でなんどか見るにしたがって、記憶のなかの観音像が大きくなっていったものと思われる。印度的なお顔立ちの表情が時に厳しく見える印象があったが、実際に御堂の中の薄明かりの中で拝するお顔は、崇高でかつ上品であり肢体のバランスも絶妙である。左足を軽く曲げてその足首を少し上げておられるのは、蓮の橋の上で立ち止まっているお姿と言われる。右手が異常に長いのは、衆生に救いの手を伸ばすためとのことである。そのやや赤みがかった木目の色調と相俟って、誠に見事な観音様である。光背は蓮の蕾と葉が、一本毎に造形されているのも珍しい。御仏の御前に坐して、御仏を静かに拝していると、急に御仏が光明を放つがごとく明るく見えてきた。目が慣れたせいか、それとも屋外の陽が急に照り始めたためかは判らないが、御仏が私のほうに向けて光芒を放たれたのかと思ったほどであった。      ふちはらの おおききさきを うつしみに           あひみることく あかきくちひる    秋艸道人   法華寺よりタクシーを拾って、平城京左京三条二坊宮跡庭園へ行く。この庭は史跡文化センターの裏にあり、板塀で仕切られている。約五十五メートルの南北に長い曲水の庭で、北端の沈殿池より水が龍池に流れるようになっている。池底と護岸は敷石が施され、汀に松、池中に菖蒲を配している。この庭の北側には長屋王や、藤原鎌足の子・不比等の邸が、また南には藤原仲麻呂の邸があった由。庭と言うよりは曲水の流れを眺めて楽しんだ、と言う感じである。 帰りは西大寺までバスで出て、西宮へ帰る。 法華寺 本堂  

法 華 寺

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  不退寺よりウワナベ、コナベ古墳を経由して、法華寺に行くこととする。JR関西本線の踏切を超えて国道二四号線を渡ると、ウワナベ古墳に出る。思っていたより大きな古墳で、傾いて行く陽の下でそこだけが現在より隔離されているかのように、ひっそりと横たわっている。ウワナベ古墳とコナベ古墳の間に陸上自衛隊の基地があり、そこからバスに乗って法華寺に行く。 法華寺は聖武天皇御願の日本総国分寺である東大寺に対して、その妃光明皇后御願の日本総国分尼寺として草創された。正式名称は法華滅罪之寺という。もとは藤原不比等の邸宅であったとのことである。現在の南大門、本堂、鐘楼は、いずれも桃山時代に豊臣秀頼が淀君と共に、片桐且元を奉行として再建したものである。他に光明皇后縁のから風呂、滝口入道との恋に破れて出家入門した横笛の横笛堂がある。 法華寺 入山

不 退 寺

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  近鉄奈良駅よりバスで不退寺へ行く。一条高校前でバスを降りて、細い道を行く。途中JR関西本線の踏切がある。踏切を渡って行くと、不退寺の門が見えてくる。奈良のお寺に関して一般的に言えることであるが、京都のお寺と比べると概して鄙びて古めかしいお寺が多い。山門を入る。寺伝によれば、当寺は八〇九年に平城天皇が譲位ののち、当地に萱葺きの御殿を造営し入御、萱の御所と呼ばれていた。のちにその皇子の阿保親王及びその第五子・在原業平朝臣が、相承してここに住んだ。仁明天皇の勅願により、近衛中将兼美濃権守であった在原業平朝臣が、不退寺として建立したものという。業平朝臣が伊勢神宮参宮の砌(みぎり)に、天照大神より御神鏡を賜りそれを霊宝とし、八四七年に自ら聖観音像を造り、これを本尊として父親王の菩提を弔うと共に、衆生済度のために「法輪を転じて退かず」と発願し、不退転法輪寺を起こしたという。 入門するとすぐに本堂が正面に見える。受付は左手の庫裏にある。若い坊さんが出てくる。まず庫裏の裏にある石棺を見て欲しいとの由。これは近くの古墳に置かれてあった石棺を運び込んだもので、五世紀のものだという。本堂はこの若いお坊さんが案内してくれる。本尊の聖観音菩薩立像(重要文化財)は一米九十糎の高さで、木彫一刀彫りである。全身に胡粉地の上に極彩色の花紋装飾を施した、豊満端厳な仏像である。今もまだその白い胡粉が斑に残っている。やや女性らしさを感じさせる、美青年のキリリとしたかんばせをしている。頭上の頭髪の前の冠に、仏が一体置かれてある。冠帯の両脇の結び目が蝶結びで、極めて大きく優雅なのが特徴的である。また左手には蓮華を一本持っているのも、聖観音としては独特であるとのことである。平安初期の作であるが、優美であり且つ森厳さを持つ仏様である。 本堂右手には伊勢の天照大神も祀られてあり、お寺の堂内に区分はあるというものの、仏様と神様が同居しているのも極めて珍しいことである。お堂を出て園内を巡る。池の前の石碑には次の和歌が、刻まれていた。      於ほ可たは 津きをもめで新 古礼曽己能              徒裳れは人の お伊登奈る毛乃       おほかたは 月をもめでし これぞこの               つもれば人の 老いとなるもの                       

旧 大 乗 院 庭 園

  興福寺大乗院の庭園趾である旧大乗院庭園へ行く。場所は奈良ホテルのちょうど南側である。今庭園はJRの所有になっているらしく、庭園に面してJR奈良保養所大乗苑の建物が建っている。そして庭園の周囲は鉄線で囲まれている。この庭園は寝殿造り庭園の遺構であり、池泉舟遊式のものと思われる。西岸から北側に浮かぶ島へ、朱塗りの勾欄橋が架けられているのが唯一、庭としての雰囲気を醸している。しかし池の周囲の整備も悪く、南側にはすぐそばに人家もあり、その保存は極めて悪いと思う。保養所の人に断って、庭園内に入り池の周囲を一周する。

寧 楽 美 術 館

  依水園の庭園を辞して、園内にある寧楽美術館を見る。ここでは「三島を中心とした唐物茶陶」の展示会を開いている。三島は高麗青磁から転化した粉青砂器で、李朝初期の十五世紀に南部方面で作陶された。忠南公州郡の鶏龍山窯が最も名高いそうである。手法的には中国磁州窯の作法と似通っているが、李朝特有の素朴な美しさを持つ。三島の分類には次のようなものがある。     三島 --------- 器面の一部または全体に、細い花文や渦文などを印花の手法で              びっしりと押し、白土を塗り込んでから透明釉をかけて焼き上                 げるもの。   彫三島 ------ やや大柄の白黒の象嵌文のあるもの。象嵌三島とも言われる。   刷毛目 ------ 白土を刷毛で塗って透明釉をかけたもので、これに線彫りと掻         き落としで文様を表したものを彫り刷毛目と呼び、鉄絵文様を         絵刷毛目と読んでいる。   粉引 --------- 全体に白土をかけてから施釉したもの。これに鉄絵文様を加え         たものを、絵粉引きという。   つぎに高麗青磁であるが、これは元来中国の越州窯の影響の下に始まっており、北方青磁や定窯の作風も取り入れて、十一 ~ 十二世紀の頃には中国の青磁に勝るとも劣らない見事なものに成長した。秘色青磁に倣って翡色青磁の名で呼ばれる最盛期の高麗青磁は、明るく静かな美しさを持ち、丁寧な彫り文様や浮き彫り文様によって飾られて、高麗青磁の粋とも言うべきものであると言われている。 高麗青磁独特の象嵌青磁は十二世紀中葉に始まったと考えられるが、十三世紀から十四世紀にかけて元の支配下に置かれたため、十四世紀後半には作風も荒れて三島に移行したとされている。   ( 技法について )   陰花 ---------- 青磁の素地に鋭い針や櫛状のもので、細い線彫り文様を彫り         つけたもの   陽花 ---------- 青磁の素地に僅かあるいは強く立体感をつけながら、文様を         彫りつけたもの   印花 ---------- 陶製の型を使って型押しし、文様を表したもの   彫花 ---------- 植物や動物な

依 水 園

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  地下鉄で難波まで行き、そこから急行で鶴橋に出る。鶴橋から快速急行に乗り換えて奈良に向かう。途中布施そしてトンネルを抜けて生駒、それから学園前、西大寺を経て終着駅の近鉄奈良駅に着く。登大路をまっすぐに、若草山の方へ向かって歩いて行く。右手の興福寺がある。国立博物館手前を左折して、すぐ右に曲がった突き当たりが依水園である。東大寺南大門の西、万葉集に詠われた吉宜川(よしきかわ)の北に位置する。   依水園には前園と後園があり、前園は元興寺(興福寺)摩尼殊院(まにしゅいん)の別業があったところとされている。一六七〇年代(四代将軍徳川家綱の時代)に奈良の晒し業者・清須美道清が別邸を設け、萱葺の建物を造って黄檗山の木庵禅師を招き、禅師より「三秀亭」(春日三山の秀れた眺望に因む)と名付けられた。これが前園にある建物である。一方後園は明治三十三年(一九〇〇年)に奈良の豪商関藤太郎の気宇のもと、裏千家十二世叉ゲン(玄+少)斎玄室の設計指導により完成された。「依水園」の命名は関藤太郎によるもので、水に依って家業が成り立ち、今また清流によって余生を愉しむことが出来るという意味合いを持っているとのことである。庭の遠景に若草山・春日山・御蓋山(みかさやま)、中景に東大寺南大門の甍と参道の松並木を取り入れて借景とし、池・築山・清流・伽藍石・銘木・珍木を配した名園である。作庭は京都の茶人前田瑞雪が設計指導し、林源兵衛が施工したとも言われる。柳生堂、氷心亭などの建物がある。まず前園から見る。池泉回遊式のこぢんまりとした庭であり、中之島を渡って、三秀亭に至る。この庭は取り立てて興趣湧かず。そこから茶室を経て後園へと廻る。氷心亭の前に立つと、堂々たる構成の庭の景観が広がる。池には右方に島を配し、そこには左岸より円形の飛び石で渡れるように造ってある。右奥には吉宜川の清流を引き込んでくる、小さな滝口も見える。池の正面から左手にかけては築山となっており、刈り込みが配されている。その向こうに南大門の上層部が見え、その遥か向こうに左の若草山、右に春日山が遠望できる。見事な中景、遠景の借景庭園である。右側より園内を周遊。清流を上手く使った趣のある庭で、銘木を配して趣向を凝らしている。 依水園 庭園