投稿

11月 27, 2020の投稿を表示しています

大 河 内 山 荘

イメージ
  夕闇の迫る中、大河内山荘に入る。最初にお休み処に行き、抹茶を頂く。お休み処より、大乗閣のあるに登る。茅葺きのなかなか立派な建物で、その前庭は見晴らし台となっており、京の町並みが見下ろせる。そこから茶室滴水庵へと行く。      庵には赤い毛氈が敷いてある。そこに坐って露地を眺める。左手前には蹲いもある。順路には所々に枯れ滝の石組みもあるが、これは雨が降ると実際の滝となるように造られているようだ。さらに山道を登ると、嵐峡の展望台へと着く。嵐山が紅葉の錦となっている。そして遥か保津川の峡谷が見下ろせる。展望台から降りて順路を進むと、今度は京洛の町を見渡すことの出来る四阿がある。東山の山並みと京の町が、薄い夕靄に霞み始めている。 順路を降って行くと、大河内伝次郎の記念館がある。大河内伝次郎は三十四歳の時よりこの山荘を建て始め、六十五歳で亡くなるまでこの山荘の造築に生涯をかけたと記してある。昭和の名優が一生をかけて造り上げた見事な芸術品である。想像していたよりは遥かに規模が大きく、又造築に様々な趣向を凝らしているのに驚かされた。記念館を出るころはもう足下も暗く、ライトが順路に点けられていた。この園内にある静雲亭で、一度食事をしてみたいものだと思った。 大河内山荘より出て、嵐峡の方へと向かう。途中に亀山公園があり、散歩道としても整備されていると感じた。この公園には平安時代前期の嵯峨天皇、鎌倉時代中期の亀山天皇、鎌倉時代後期の後伏見天皇の火葬塚がある。夕闇の中に紅葉の紅が、儚げに浮かんでいる様も幽玄である。 保津川の畔に出ると、渡月橋あたりは灯が点り、家並みも橋もシルエットになっている。カメラを夜間モードにセットして、渡月橋付近の夕景を撮る。 大河内山荘の四阿

常 寂 光 寺

イメージ
  落柿舎への道を横に見ながら、常寂光寺へ向かう。この寺の開山は、究竟院日シン(示+真)上人(一五九五年頃)である。上人はもともと日蓮総本山本圀寺の法灯を継いでいたが、秀吉建立の東山方光寺の大仏殿供養のおり出仕に応ぜず、本圀寺を出てこの地で当寺を開創したのである。上人は歌人としても著名で、歌枕の名勝小倉山を隠栖地として提供したのは、角倉栄可、了以でのち了以の保津川事業を支援している。 山内には定家を祀る謌遷祠(歌仙祠)と時雨亭趾がある。嵯峨には時雨亭趾が当寺、二尊院、厭離庵と三ヶ所あり、いずれも定家山荘趾と言われているが、考証によれば当寺仁王門北、二尊院南が小倉山荘趾と見られ、厭離庵近辺は定家の子為家の山荘趾と見られている。これは定家の日記「明月記」を基本にした考証であるようだ。 仁王門から本堂へは石段で登る。左右の紅葉が見事である。本堂前の境内よりは、京都市内が望める。本堂裏に小さな庭あり。本堂からは左手にある坂道を降る。燈明のある下り坂が絵となる構図である。やや盛りは過ぎてはいたが、全山紅葉のお寺であった。    結びおきし 秋の嵯峨野の 庵より             床は草葉の 露になれつつ     小倉山 しぐるるころの 朝な朝な             昨日はうすき 四方のもみじ葉    吹きはらふ もみじの上の 露はれて             嶺たしかなる 嵐山かな                          藤原 定家 常寂光寺の紅葉

二 尊 院

イメージ
本堂前庭は、「龍神遊行の庭」と呼ばれている。その昔この地に龍女が棲みついていたが、正信上人によって解脱・昇天した故事に倣って、そう呼ばれているようである。竹の半円に折り曲げたもので、三つの円形の島が造られており、樹木と刈り込みを配している。右端の島には枝垂れ桜がある。柿葺きの勅使門には紫の幕が掛けられており、その向こうの黄葉が幕の紫色と見事なコントラストを造り上げている。本堂に上がり、南面の小さな石庭を見る。小倉山の山稜を借景とした石庭で、浄土の世界を表すものとして「寂光園」と名付けられている。 本堂の本尊は釈迦如来と阿弥陀如来の両如来をお祀りしている。釈迦如来は真如の世界から迷界に現れ、現世と来世を繋ぐ「白道」を絶えず見守り励ましてくれる仏である。そして阿弥陀如来は人生の目的に辿り着いた衆生に、死への恐怖を越える勇気を与え、大慈の懐へ招き入れてくれる仏であり、この二尊仏が並んでいるところに、当寺の深い意味があるとされている。勅使門より出たところの紅葉も、見事であった。 二尊院の庭園  

二 尊 院

イメージ
  二尊院の総門より入る。紅葉の馬場と呼ばれる巾広い参道が開けているが、紅葉はやはり盛りを既に過ぎている。入り口左手に、西行庵の碑がある。このお寺は正式には小倉山二尊院尊教院華台寺と言い、天台宗に属している。平安前期の八四〇年に嵯峨天皇の勅願により慈覚大師が開山、鎌倉初期には法然上人もここに居を定めていた。のちに上御門・後嵯峨・亀山三天皇の分骨も境内に納めており、三帝陵のある由緒あるお寺である。又黒戸四ヶ寺の一つとして、御所の仏事も務めていた。総門は慶長十三年(一六一三年)に、豪商角倉家の寄進によるものである。又山中の時雨亭趾は、藤原定家が百人一首を選定した場所として名高く、茶室御園亭もあるとのことだ。 二尊院の紅葉