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12月 11, 2020の投稿を表示しています

聖 林 寺

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  難波より近鉄大阪線の特急に乗り、大和八木で乗り換えて櫻井の駅に着く。駅でタクシーを拾って聖林寺に向かう。聖林寺は、山の麓の少し小高いところにある。この辺りまで来る観光客は少ないようであるが、その日は修学旅行の高校生達のバスが、二台止まっていた。駐車場でタクシーを降りて、なだらかな坂道を登る。道からは石段で山門に上がる。聖林寺は藤原鎌足の長男定慧(じょうえ)が、父鎌足の菩提を弔うために、和銅五年(七一二年)に庵を結んだのが始まりと言われている。その後大神(おおみわ)神社の神宮寺である大御輪(おおみわ)寺の慶円上人が、鎌倉時代に阿弥陀三尊を祀って再興したという。本尊は丈六の子安延命地蔵尊で、僧文春が享保二〇年(一七三五)に本堂を新築して安置したもので、以来寺号を聖林寺とした。その本尊は、現在も安産祈願の信仰を集めている。 修学旅行生と一緒に、本堂で説明を聞き、今度も学生達と一緒に本堂左の階段を上って、コンクリート製の収蔵庫に入る。そこにはガラスで仕切られた向こうに、有名な十一面観音が安置されている。この十一面観音は、日本仏像彫刻の最高傑作の一つと言われ、天平時代の木心乾漆像である。住職と思われる方の説明では、「永遠の凝視」と言われる表情で、じっと静かな瞑想を続けられている。この観音様は、国宝の仏像百体の中で、第一次に選考された二十五体の中の一つであるとのことである。そうして蓮台の蓮弁が厳しく反り上がっているのが、特長であるとのことだ。この観音様は何度か写真で見たことがあるが、今日始めてお堂の外側から拝観したときに、先ずその均整の取れたお姿に見とれた。中に入って、修学旅行生に混じって、住職の説明を聞きながら、お姿を鑑賞する。お顔は薄く目を開けており、為に「永遠の凝視」と呼ばれているのだろう。遥か遠くを見つめておられるようだ。眉毛は山なりとなっており、鼻筋は日本的であるが、口許はインド風にやや分厚い。下膨れのふっくらとした顔立ちで、乾漆の金箔に亀裂が入っているためか、少し泣き顔となっているように感じられる。耳朶は長く、下部には大きな穴が開いている。肩幅は広く、その肩には優婉な天衣が掛けられている。胸部は普賢寺の十一面観音より盛り上がっている感じで、やや斜め横から拝すると、女人の豊かな胸のようにも見える。胸よりすぐ下は、きゅっと腰にかけて引き締まっており、お腹はまたふっく

薬 師 寺

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志貴山から降りて、薬師寺に回る。この薬師寺は興福寺とともに法相宗の大本山である。法相宗は唯識法相の学を尊ぶ宗派で、その基本は「森羅万象すべては己の心より識る」というところにあるという。かの有名な玄奘三蔵法師もこの唯識の教学を求めて、印度へ求法の旅に出たという。 薬師寺に着いた頃には、やや小降りの雨になっていた。これまで当寺を訪れたときはいつも近鉄の駅から歩いて北側から入山していたが、今回は南側の大きな駐車場より入山する。参道などよく整備されており、駐車場の傍らには料亭もある。その庭先には様々な種類の灯籠が、並べられていた。八幡神社とお稲荷さんも境内にあり、その横を通って中門に出る。中門は前回西塔復興後の昭和五十六年秋に、本店営業部の仲間と社内旅行で訪れたときには、まだ出来上がっていなかった。中門を潜って入る。 薬師寺は天武天皇により六八〇年に発願され、六九七年持統天皇の御代に本尊開眼をみている。ついで文武天皇の御代に、堂宇の完成をみた。しかし当時はまだ藤原京の地にあり、その後平城京への遷都に伴って現在地に移されたという。その当時は南都七大寺のひとつとして、その大伽藍は壮麗華美を誇ったとされている。華麗な堂塔は龍宮造りと呼ばれて、有縁の衆の眼を奪ったという。その後室町時代の一五二八年に、兵火に罹って東塔を除く悉くが灰燼に帰してしまった。 伽藍の復興は当寺の中興の祖とも言える高田光胤師の尽力によるところが大きい。昭和四十三年の般若心経百万巻写経開始により、昭和五十一年に金堂復興。写経二百万巻達成の昭和五十六年四月に、西塔が復興されている。昭和五十九年十月には写経も三百万巻になり、中門が復興されたという。写経運動の理想は「発菩提心、荘厳国土」にあると書かれている。すなわち清らかな心を持って、美しい世界を作り成すことであるという。中門の後には、玄奘三蔵院と回廊の再興が計画されている。 東塔と西塔とを見比べる。新しい西塔の方が、屋根の傾斜が反って見えるように思われる。二十年以上前に訪れたときには、西塔跡にその礎石のみが置かれてあったのを思い出す。再度東塔をみる。三重塔に裳階(もこし)をつけたこの塔は、「凍れる音楽」という名で呼ばれている。頂上の相輪に付けられた水煙は四方四枚からなり、そこには三十四体の飛天が透かし彫りとなっている。 金堂に入って、薬師三尊像

志貴山朝護孫子寺

  義弟の車で、志貴山へと登る。志貴山は敏達天皇の時代(五八二年)に、聖徳太子がここで毘沙門天を感得されたとして有名である。聖徳太子はこの山で物部守屋を討伐すべく、戦勝祈願をされた。そして寅の年、寅の日、寅の刻に、初めて毘沙門天を感得されたと言う。聖徳太子はその後用明天皇五八七年に毘沙門天の御加護で物部守屋を滅亡させ、自ら毘沙門天を刻んで当山の本尊として祀られた。そのために当山は信ずべき、貴ぶべき山として、信貴山と名付けられ、爾来毘沙門天王の総本山となっている。醍醐天皇の時代(九一〇年)に、当山は中興開山の命運上人が堂塔を建立、天皇重病の折りに毘沙門天の御加護で全快されたため、朝護孫子寺の勅号を賜ったと言う。 入門して坂道を登り、玉蔵院・浴油堂を経て日本一大地蔵尊・阿シュク如来・縁結び観音を拝する。石燈篭のある参道を歩いて行くと、宝物庫がある。中には信貴山縁起絵巻のコピーが展示されている。本絵巻は中興・命運上人に関する物語を鳥羽僧正が描いたもので、日本四大絵巻きの一つと言われる。楠木正成・筒井順昭・武田信玄などが、当山に信仰篤かったと言われる。また松永久秀が城を築く。織田信長の攻略に遭い一山堂塔すべて灰燼に帰したが、豊臣秀頼が再建したと言われる。 本堂に登る。この建物も長谷寺や清水寺と同じく、舞台造りである。本堂下の、戒壇巡りをする。暗黒の世界を手探りで進むと、途中に守り本尊を拝むことが出来るように小さな明かりが一個所のみ点いていた。ゆっくりとお参りすれば半日はかかるほど、様々な堂塔に満ち満ちた志貴山であった。

 慈 光 院

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法起寺より自転車に乗って、二山を越える。サイクル・ショップの主人が自転車で大和小泉の慈光院まで行くには、途中に二山あるので少しきついだろうと言っていたが、その通りであった。慈光院は小高い丘の上にある。丸石の敷かれた登り道を、自転車を押して上る。山門を潜り「あられこぼしの道」を進むと、萱葺の立派な楼門がある。この楼門は、片桐且元の居た茨木城より移築されたものであると言う。なかなかに風情のある門である。楼門を入ると、入母屋造りの書院がある。書院前庭には、下り松がある。 当院は寛文三年(一六六三年)に片桐且元の甥であり、石州流茶道の始祖である片桐石州により、父貞隆公の菩提寺として建立された、臨済宗大徳寺派のお寺である。書院に入り、赤い毛氈の敷かれた座敷に坐って、抹茶を頂く。お菓子は片桐家の紋様の形をした餡入りのお干菓子で、なかなかに美味である。書院正面には大和青垣の連峰を借景として、生け垣が低く植え込まれている。右方には手前に下り松、その向こうに躑躅の大刈り込み、その向こうには柘植を配置している。書院の角に当たる方向は、低い刈込を配し、その後ろには松が林立している。正面の借景にはゴルフの練習場・ビル・電線の鉄塔などがあって風情が薄れているが、風景の広がりの素晴らしさは今でも味わうことが出来る。右手の白砂と大刈込を配したのみの簡素な庭と、正面の展望の開けた借景を目にしつつ茶を喫すれば、心は自ら落着いてゆくようだ。書院に坐して見える広がりは、実際には九十度くらいの展望であるのに、印象としては百八十度もしくはそれ以上の広がりを鑑賞者が覚えるのも、石州の空間の処理の見事さからくるものなのであろう。庭に置いてある石州作の手水鉢および蹲四個は、いずれも味わい深いものであった。この慈光院の借景庭園は、見るものの心を静謐にさせる名庭園であると思う。              慈光院八景( 大和八景 )                                   金閣寺鳳林和尚 詠         三   笠   新   月           松   間   双   塔    渓   橋   帰   客           三   輪   滴   翠    雲   海   残   剰           高   鳥   夕   陽  

法 起 寺

  次に法起寺(ほうきじ)に向かう。法起寺は聖徳太子が法華経を講話されたという岡本宮を寺に改めたものと伝えられ、岡本寺とも呼ばれる。法隆寺・四天王寺・中宮寺等とともに、聖徳太子御建立七ヶ寺の一つに数えられている。当寺の三重塔 ( 国宝 ) は七〇六年に建立されたとされ、高さに十三・九メートルの現存する我が国最古の三重塔として有名である。ほかには収蔵庫に収められた木造十一面観音菩薩立像があるが、収蔵庫は閉まっており、その仏を拝観することは出来なかった。写真撮影は全面禁止となっており、建物をも写すことが出来ないようである。遺産保護や環境問題等の理由からであろうが、少しガードが堅すぎる感じがする。境内には池もあり木立も立派であるが、何とはなく風情に欠ける気持ちがする。このお寺のガードの堅さが、当方の情緒をも殺してしまったのであろうか。

法 輪 寺

中宮寺より法輪寺へは、自転車で十五分くらいである。法輪寺は三井という地名にあることから、三井寺とも呼ばれている。三井という名称の由来は、聖徳太子が飛鳥の里より三つの井戸をこの地に移したことによるとされている。 法輪寺の創建は聖徳太子の皇子である山背王(やましろのおおきみ)によるものと伝えられ、当初は法隆寺・西伽藍の三分の二くらいの規模を持っていたことが、発掘調査で解っている。現在の伽藍は江戸時代・元文二年 ( 一七三七年 ) に復興されたもので、三重塔のみは二重の層まで当初のものが残っていたが、昭和十九年に雷火により焼失。その後昭和五十年に再建されている。したがって私が始めてこのお寺を訪れた昭和四十七年頃には、まだこの三重塔は再建されていなかったのである。 伽藍配置は法隆寺式であるが小ぢんまりしており、阪神・淡路大震災の揺れのためか、瓦が一部ずれている所が見られた。講堂内には薬師如来座像・虚空蔵菩薩立像 ( ともに飛鳥時代の作 ) ・十一面観音菩薩立像 ( 平安前期 ) などが立ち並んでいる。残念ながらこれらの仏像の中には、印象に深く残るものはない。  

中 宮 寺

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中宮寺を訪れる。このお寺を初めて訪れたのは、昭和四十四年に広島支店の入行同期の仲間と、白浜・高野山・奈良の旅行をしたときである。それから大阪外国事務課時代に一人で来たのと、広島の高校以来の友人達と来たことがある。その後名古屋の柳橋支店にいたときに、義理の弟のいる大和小泉に遊びに来たときにまた訪れている。そう考えてみると、十一年振りに五度目の拝観ということになる。 この寺は表門の入り口を入ったところの小さな庭が、和やかで懐かしい感じがして好きである。本堂は鉄筋コンクリート造りとなっており、やや冷たい感じがあるのに対して、入り口付近は暖かみを感じる。中宮寺は聖徳太子の御母・穴穂部間人皇后の御願により、太子の宮居・斑鳩宮を中央に西の法隆寺と対照的な位置(現在地の五百メートル東)に創建された寺であり、南に塔、北に金堂を配した四天王寺式伽藍であったことが確認されている。法隆寺は僧寺、中宮寺は尼寺として、当初より計画されたと見られている。しかしその後平安時代に衰退し、宝物は法隆寺に移され、草堂一宇に弥勒菩薩のみが残った。鎌倉時代に信如比丘尼の尽力で、天寿国曼荼羅を法隆寺宝蔵中に発見して、中宮寺に取り戻すなどしたが、戦国時代に戦火に遭い法隆寺の東院堂内に避難、そのまま現在地に残ることとなった。慶長年間に後伏見天皇八世の皇孫・尊智女王が住職となり、以来門跡尼寺として大和三門跡尼寺の一つとされる。新本堂は高松宮御発願により昭和四十三年に落慶、耐火・耐震の御堂が完成している。宗派は鎌倉時代は法相宗であったが、その後真言宗泉涌寺派に属し、戦後法隆寺が聖徳宗を創設したのに合流し、現在は聖徳宗に属している。 山吹を配した砂利道の参道を廻ると、新本堂正面に来る。新本堂は三方を池で囲まれており、やや冷たい感じはするがその形姿は優美である。真冬の曇り日であるためか参拝者が少なく、前の人達がちょうど退出したので、御堂内は案内の人のみであり私一人の借り切りとなる。 本尊弥勒菩薩半跏思惟像との初めての逢瀬は中宮寺の新本堂建設中であった。京都の大学に行っていた友人とその知り合いの双子の姉妹と共に、京都・奈良をレンタカーで廻ったときのことと思う。確か大学一年か二年の時であるので、昭和三十九年か四十年のことである。その時の弥勒菩薩像は、興福寺の宝物館に間借りをされていた。その時以来この中宮寺に四回

夢 殿

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  夢殿は東院伽藍の中にあり、六〇一年に造営された聖徳太子の斑鳩宮趾と伝えられている。天平十一年(七三九年)に行信僧都が太子の遺徳を偲び冥福を祈るため、八葉の蓮華に擬して造営したと言われ、我が国最大の八角円堂である。堂内の厨子には聖徳太子等身の秘仏・救世観音が安置されているが、特別公開時にしか拝観は出来ない。四隅の一方に枝垂れ桜の古木あり。花の時期にはこの夢殿をさぞや彩るものとなるのであろう。 夢殿

法 隆 寺 大 宝 蔵 殿

大宝蔵院に入る。ここには多数の宝物が展示されているが、とりわけ高さ六十センチ余りと思われる夢違観音像(国宝・白鳳時代)の美しさ、崇高さに心惹かれた。この観音像に詣れば、よく悪夢を変じて吉夢と為すことが出来ると信じられ、ために夢違観音と呼ばれているようである。微笑を帯びた御面相、胸からお腹にかけての張りのある曲線を有する体躯、流麗な衣の線などに白鳳時代の優れた特色を発揮しているとある。優しい微笑みを帯びた慈愛のあるお顔、切れ長の目と眉毛、微笑みを含んだ口許、長い耳朶、頭冠は正面が化仏、左右は水滴のような形をした飾りがあり、それを冠帯で止めている。胸飾り、右上膊部の腕飾り、右手は中指を前に折って挙げ、左手は下げて薬壺を持っている。側面から見るとややせり出した柔らかなお腹と、安定感のある腰回りをしており、衣の線が誠に美しい。       Yumechigai Kannon --- who turns nightmare into happydream   次は百済観音像(飛鳥時代)である。二メートル強の長身であり、かつては彩色鮮やかであったのだろうか、色彩が剥落して赤みがかった色のみ残っており、ためにお顔が爛れた感じで無惨な印象である。透かし彫りの頭冠は、こめかみより左右に長く垂れ下がっており優雅である。お顔は剥げているため御面相ははっきりしないが、仏のお顔というよりは人物を写したように感ずる。眉毛と目の間が広く、お口は小さく引き締まっている。鼻も後代の仏と比すと、より人間的である。目で測る感じでは八頭身かと思えるが、案内の人の話では十頭身とのことである。右手は掌を上にして曲げて差し出されており、左手は香壺を持っている。両腕に懸かった天衣(てんね)の線が下に流線を描いて巾広となっており、流麗である。光背を支えている竹と思われるものも、木彫であるとのことである。百済観音堂建立のためのお賽銭を入れる。 百済観音を見たのち、その前に展示してあった文殊菩薩像(飛鳥時代)をもう一度見直す。これも百済観音と同じく瞼が巾広で、鼻もすっきりとして小さくお口も引き締まっている。これが飛鳥時代の仏像の特徴なのかもしれない。腕に懸かった天衣の流麗さもよく似ている。同じところに展示されている観世音菩薩、普賢菩薩と比べると、文殊菩薩のお顔が最も柔和であり品がある。そのお顔は中宮寺の弥勒

法 隆 寺

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  JR大和路線の快速で、大阪駅より法隆寺へと向かう。天王寺から法隆寺までは、二十分くらいで到着する。思っていたより早い。大和路線は天王寺より平野・八尾を南東へ下り、高井田あたりで大和川沿いとなり、山を越えて王寺に至る。王寺の次の駅が法隆寺である。法隆寺駅の南口のサイクルセンターで、自転車を借りる。自転車で十分くらい走ったところに法隆寺がある。参道も長く広くて、さすが法隆寺である。南大門の前の喫茶店で、ぜんざいを頂く。 南大門より入山。西院伽藍へ向かう道も、美しい景観を持っている。法隆寺は聖徳宗大本山であるが、もともと推古天皇と聖徳太子が、用明天皇のために発願、推古十五年(六〇七年)に開基されたと伝わっている。しかしこのもともとの建物は、天智天皇九年(六七〇年)に焼失したと日本書紀には書かれている。その後発掘調査の結果、旧若草伽藍は四天王寺方式であったらしい。そして現在の法隆寺式伽藍は、和銅元年(七〇八年)に再建されたものである。 仏教伝来は古墳時代の宣化天皇の御代で、五三八年に百済の聖明王が仏教経綸を献じたのが、仏教の日本における始まりである。推古天皇は五九三年に即位、五九三年には聖徳太子が摂政となり難波の四天王寺を創建、五九六年には蘇我馬子が飛鳥に法興寺(飛鳥寺)を創建している。また六〇一年には推古天皇が、豊浦宮より斑鳩宮に移っている。いずれにしても仏教伝来より七十年にして、かくも壮大な伽藍を創り上げたというところに、日本における天皇家の仏教への傾注と、日本の文明吸収力のたくましさが現れていると思う。 法隆寺は五重塔・金堂を中心とする西院伽藍と、夢殿を中心とする東院伽藍に分かれており、西院伽藍の世界最古の木造建築郡は、一九九三年にユネスコの「世界文化遺産」に指定されている。南大門より中門に向かう。境内図によれば、西院伽藍の手前左に弁天池、右に鏡池が配されている。中門は仁王門とも呼ばれ、左右に立つ金剛力士蔵(重文)は和銅四年(七一一年)の作である由。回廊左手の入り口より入る。回廊内は白砂青松の中に、左に五重塔、右に金堂が整然と立っている。この斑鳩の地は偶々戦火に見舞われることがなかった為、こうして千四百年も昔の伽藍が聳えているわけであるが、それほどの古さを感じないのはどうしてであろう。建築様式そのものも徳川時代に建てられたものと大差はないし、また瓦など