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11月, 2020の投稿を表示しています

龍安寺

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  そこからまた鏡容地のほうへと下る。秋の京都は何処に行っても美しい紅葉を愛でることが出来るが、この龍安寺でこれほどまでに見事な紅葉を楽しむことが出来るとは思わなかった。 龍安寺 紅葉

龍 安 寺

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  地蔵院より国道九号線に入り、五条通りから一六二号線で天神川沿いに上って、花園から御室に出て、龍安寺に着く。門前の茶店でお団子を食べ、それから運転手さんお薦めの鏡容池奥の紅葉を見るために、山門より入る。山門前の拝観受付は方丈の石庭の拝観券であり、その他は無料であることも運転手さんより聞いていたため、拝観券を求めずに境内に入る。そして鏡容池沿いに、参道を進む。ちょうど弁天島の前の辺りにある楓の紅葉が、紅色がかつていて見事である。 弁天島や、屋形船をバックにして何枚かの写真を撮る。真田幸村のお墓のある大珠院や西源院の前を通って、庭園の奥に向かう。方丈本坊の前の参道あたりは、運転手さんの言葉の通り、紅葉がしっとりと色づいており、その色もやや淡い朱色、紅色、黄色をこき混ぜた感じで実に美しい。その参道を奥に進むと、石段の上に石碑の置かれているところがある。その辺りの紅葉もしっとりと落ち着いた色合いで、見事な錦繍を見せてくれている。 龍安寺 鏡容池

地蔵院

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  地蔵院は清閑な住宅街の真ん中に、ひっそりと佇んでいる。当山は正式名称を衣笠山地蔵院といい、夢窓国師を開山とする臨済禅宗の寺である。本尊は傳教大師最澄の作と言われる延命安産の地蔵菩薩を祀っているとのことである。 もともとこの地は鎌倉時代に歌人であった衣笠内大臣藤原家良が山荘を営んだ処で、南北朝時代になって、室町管領細川頼之が夢窓国師の高弟であった宗鏡禅師を招請して、伽藍を建立した。細川家の略系図によれば、初代細川公頼は足利よりの出となっており、頼之は三代目で一三二九年に三河の国に生まれ、将軍足利義満を補佐して管領職となっている。のちに頼之は武蔵守となって、南北両朝の和合に尽力したとある。日本外史にも細川頼之の海南行と言う詩が残っている。     人生五十功なきを愧ず     花木春過ぎて夏巳に中なり   満室の蒼蠅掃えども去り難し  起ちて禅榻を尋ねて清風に臥せん    また龍安寺の開基である細川勝元は頼之の四代後であり、細川幽斎藤孝は頼之の弟である頼有より八代後に出ている。山門を入ると、境内は紅葉につつまれている。紅葉の色合いは、秋雨が少なかったためかやや褐色に近いのが残念である。 堂前を右に折れて、方丈に入る。方丈入口の黄緑と薄紅色の混ざり合った、背の低い楓の木が風情あり。方丈に上がって、名勝庭園、十六羅漢の庭を見る。この庭は宗鏡禅師の作と言われるが、苔庭に十六羅漢の修行の姿を表す石組みが並べられ、正面中央に刈り込みが配してあるだけの、あまり造作のない庭である。しかしあまり特長はないが、落ち着きが感じられ、いわば長く見ても飽きの来ない顔をした庭であると感じた。羅漢とは、智恵の力を持って悩みを無くし正覚に達すること、または智恵を得、悟りを開いて世人から供養を受けるに足る聖者を言うとされている。方丈内には、細川三斎忠興の妻、ガラシャ夫人の詠んだ和歌が表示されていた。      散りぬべき 時知りてこそ 世の中の           花は花なれ 人は人なれ    細川ガラシャ  当院はまた一休禅師とも縁があり、禅師は後小松天皇の皇子として、一三九四年に子の地蔵院の近くの民家で生まれ、幼少のころ当院で修養されたといわれている。その後六歳で、安国寺に移って本格的な修行をしている。 地蔵院

粟生光明寺

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大阪駅より新快速で高槻まで行く。高槻で普通に乗り換えて、長岡京駅(旧神足駅)に着く。駅前には予約していた弥栄自動車のタクシーが止まっているが、運転手さんの姿がない。少しして運転手さんが駅から下りてくる。タクシーに乗って、今日の予定としては西山の寺社仏閣を廻りたい旨話す。そして先ずはじめは長岡天満宮に向かう。 天満宮に着いて錦水亭の方へと歩いて行く。この辺りの紅葉も、もはや盛りに近くなっている。これでは山の中のお寺の紅葉は、もう盛りを過ぎているなと思う。錦水亭の面している池は、工事中であり景色に風情無し。時間の関係でお宮そのものは見ないで、長岡天満宮より粟生光明寺に行く。 秋雨が少なかったせいか、ここの参道の紅葉も盛りを迎える前に枯れて縮れているものがある。写真などでこの参道の紅葉の見事さを印象づけられているだけに、大変に残念である。この寺は、法然上人が最初に念仏を説いた旧跡に、出家した熊谷直実(蓮生坊)が、念仏三昧院を建立したのが草創である。現在は西山浄土宗総本山になっている。参道を上がり、本坊前でまた脇道より引き返す。当初はこの寺より、三鈷寺、善峰寺、十輪寺、金蔵寺、正法寺、勝持寺(花の寺)と廻り、西山大原野のお寺を全て廻ろうと考えていたが、この様子では山中の寺の紅葉は全て終わっていそうである。 そこで方針を変更して、圓光寺、源光庵を見て、その後嵯峨野に行くこととする。その旨運転手さんに話すと、彼はこれから行く道筋に地蔵院というのがあるのでそこを見て、その後運転手仲間から今龍安寺の庭の紅葉が良いと聞いているので、そちらも廻ったらどうかとの話あり。それでその二つのお寺も廻ることとして、先ず地蔵院に向かう。 粟生光明寺  

天 龍 寺

  二尊院より南下して、小倉池のそばを通り大河内山荘の前を左に折れて、竹林の中を進むと、そこが天竜寺の北門である。こちらから天龍寺にはいるのは、始めてである。裏山の紅葉を見つつ、曹源池に出る。この庭の紅葉は未だ紅葉しているのが少なく、やや風情がない。 以前ここを訪れたときは、夕刻に近かったが、今回はお昼である。太陽の光は庭の正面に向かつて左手上から射しており、庭一面に十分な陽光が行き渡っているが、趣に欠けるのはなぜであろうか。やはり朝一番か、もしくはやや薄曇りの日の方が、庭の風情は高まるものなのかもしれない。  嵐峡に面した料理屋で、湯豆腐を食して嵯峨野を辞す。

宝 篋 院

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化野念仏寺より参道を戻る。このあたりは道の左右が、全て土産物屋となっておりこの奥嵯峨の地域まで、観光化の波が押し寄せてきているのがよく判る。瀬戸内寂聴の棲む寂庵はこの近くにあるようだ。いっぷく処・つれづれの店先に、緋色の和傘が立てられており、その後ろにあるもみじの紅葉と調和して、見事である。カメラを向ける。さらに下って、宝篋院に入る。昨年の秋に始めてこの寺に来たが、嵯峨野の紅葉の中ではこの寺がベストと感じた寺である。取り立ててこれという造作のない庭であるが、平庭一面の紅葉が美しい。しかし最盛期と言うにはやや早かった感がある。 宝篋院  

化 野 念 仏 寺

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  本日は嵯峨野巡りでの紅葉狩の日とする。京都に来てもう何度も嵯峨野には来ているが、この化野念仏寺に来たのは、二十三年ぶりである。化野は古くより、鳥辺野、蓮台野とともに葬送を行う野辺の地であった。あだし野の名の起こりは、「あだし」がはかない・悲しみの意味を持つことから、「あだしなる野辺」そして「あだし野」となったようである。他に「仇野」「阿陀志野」とも書くようである。兼好法師の「徒然草」にも   「あだし野の露消ゆる時なく鳥辺野の烟立ちさらでのみ住果つる習ならば如何に物の哀もなからん世は定めなきこそいみじけれ」   と記されている。寺伝によれば、当寺は約千百年前に弘法大師により、五智山如来寺として開創され、後に法然上人の常念仏道場となり、現在は華西山東漸院念仏寺と称して浄土宗に属している。本尊阿弥陀仏座像は湛慶の作である。山門への坂道を登る。この道にはもみじが紅葉して垂れ下がっており、朝の陽を透かして美しい。山内にはいると夥しい無縁石佛や石塔が、西院(さい)の河原に立ち並んでいる。地蔵盆の夕刻の千燈供養は、光と闇と石仏の織りなす荘厳浄土具現の光景として有名である。そこからインドのストゥーバを模したと言われる仏舎利塔を見て、本尊阿弥陀仏座像を拝す。境内には楓はまばらであり、やはり参道付近の楓の紅葉が最も印象的であった。     暮るる間も 待つべき世かは あだし野の            末葉の露に 嵐たつなり     式子内親王   誰とても 留るべきかは あだし野の            草の葉ごとに すがる白露    西行法師

龍 安 寺

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  龍安寺よりさらに欲張って仁和寺まで行くが、残念ながら四時を回っていたため庭園は既に閉まっていた。それで五重塔を写真に収めて帰路に就いた。 桜の時季の鏡容池

龍 安 寺

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  石庭の石についての感想) 左端の大きな石は獅子の頭のようであり、又拡大した写真で見ると一角の鬼の頭が左を向いているように、目と鼻が浮き出て見える。次の横に細長い石は、その左の石と共に獅子の背が川の中より出ているようにも見える。又瀬戸内海に浮かぶ島のようでもある。三番目の石組みは、獅子の頭と右手前が子獅子の頭、その向こうが 子獅子の背のように見える。大の立石と中の横石と小の石と並び、この三つの石のバランスも良い。大きな石は須彌山のようにも思える。その右手の四番目の石組みは、左が横幅広く段層が入っており、石が正方形をやや潰したような四角で、この二つの石組みがとても造形的に見て面白い。五番目の右端の石組みは肌色が強く花崗岩の山のようである。小さな石が左と右に埋め込まれており、海原に浮かぶ島のイメージである。各々の石組みがそれぞれの特徴を持って、しっかりとその慥かな位置に自らの形姿を決めているかのようだ。そしてまるで石そのものが舞台での俳優のように、見られていることを意識しているかのように、拝観客に思わせるのも不思議なものである。細川政元の指図により、山水河原者が造り上げた庭であろうが、これほどまでに石に個性と存在感を与え、配置の絶妙さにより我々の精神を落ち着かせる力を持たせたことに、感嘆の声をあげざるを得ない。 龍安寺 糸桜

龍 安 寺

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  又この石組みは人の世の移り変わりの中にあっても、ただ厳然としてそうして寂としてここに存在し続けてきたという事実。時間の重みの前にあっては、自らの一時の心の迷いなどは如何ほどのものかという感が強くなるものである。石組は自然はそして宇宙は、何も変わることがない。そこに存在するのは、無常感のみである。その事実がかえって、人の悩みを慰めることになるのだ。この世の中における自己は孤独であることが当たり前であり、人の輪の中にあって一時期喜びに浸ったとしても、根元的には人間はこれらのひとつひとつの石と同じように、ひとり孤独に存在しているのだ。そう言った人間存在の宇宙の中における孤独を、この庭は我々に教えてくれるかのようだ。傷ついた人間が、さらにその傷口を大きくすることで蘇生して行こうとするように、人間は根源的に孤独な存在なのだという厳然たる事実が、かえって心に迷いや悩みを持つ人間にとって救いとなり慰めとなるというこの逆説。悲しみに打ちひしがれている人間にとって、悲しみの極みの音楽がかえって深い慰めとなるという不思議さと、いかに似通っていることか。人間という存在の不可思議さを覚えないではいられない。井上靖も「石庭」という散文詩に、同じような思いを開陳している。   「ここ龍安寺の庭を美しいとは、そも誰が言い始めたのであろう。人は  いつもここに来て、ただ自己の苦悩の余りに小いさきを思わされ慰め  られ、そして美しいと錯覚して帰るだけだ」   龍安寺のパンフレットには、次のように英文で説明が付いている。     [ The  Rock  Garden ] This simple yet remarkable garden measures only thirty meters from east to west and ten meters from south to north. The rectangular ZEN garden is completely different from the gorgeous gardens of court nobles constructed in the Middle Ages. No trees are to be seen; only fifteen rocks and white grave

龍 安 寺

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  歩いて十五分くらいで龍安寺に着く。茶店でうどんを食べる。龍安寺は大雲山龍安寺といい、臨済宗妙心寺派に属しているお寺である。 ここはもともと徳大寺家の別荘であったものを、一四五〇年(室町中期第八代将軍足利義政の頃)管領細川勝元が譲り受けて寺地とし、妙心寺の義天玄承を開山として創建されたものである。応仁の乱(一四六七 ~ 七七年)で消失したが、勝元の子政元が再興した。石庭は政元が母の三回忌の時に、方丈と共に造築したと言われている。その後江戸時代後期の寛政九年に、火災で方丈・仏殿などを消失している。従って現在の方丈は、そののちの再建なのであろう。 山門より入り、鏡容池を見る。昔訪れたときはこんなに大きな池にも拘わらず、全くその存在の記憶も無い。ただ石庭のみが記憶に残っている。この池は徳大寺家により築かれたもので、藤原時代の名残を留めているものとのことである。今は池の中央に弁天島があるが、平安時代の貴族達が舟を浮かべて詩歌・管弦を愉しんだ頃は、蓬莱島を中心に、瀛州・方丈・壺梁の三島が浮かぶ、神仙蓬莱の池であった。池の北側の大珠院には、真田幸村の墓があるそうだ。鏡容池を一周する。大珠院の後ろに、山々がなだらかにうねっており、平安時代より景勝の地であったことがよく判る。この鏡容池は金閣寺の鏡湖池、銀閣寺の錦鏡池と共に、京の三つの鏡と呼ばれている。鏡とは建物や庭や周囲の景観を映すことから、そのように名付けられたようである。 涅槃堂を経て方丈前を通り、庫裏への石段を登る。方丈に登り、石庭を見る。流石に日本一の石庭と言われるだけあって、石の形姿、石組みそして石の配置には実に慥かなものがあると思う。方丈左手の縁側に座して鑑賞。ここよりのみ石組みの全景が全てカメラに収めうる。しかし、十五全ての石を見渡せる位置は無いとのことだ。石組みは左側の中央に五つ、次いで左三分の一の後方に二つ、それから中央よりやや右手かつ前後の中央よりやや後方に三つ、そして四つ目の石組みは三つ目の石組み右手後方に二つ、そして最後の石組みは四つ目の石組のやや右前方に三つという風に置かれている。基本的には正面中央に坐して見るときのバランスを考えて、五つの石組みが配置されているのであろうが、実に絶妙な均衡の上に一つ一つに石組みが置かれている。中国の寓話をモチーフとした「虎の子渡し」とか、大海に浮かぶ島々あ

金 閣 寺

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  参道より総門を入ると、鏡湖池の南東に出る。葦原島を手前にして、金閣の秀麗華美な形姿が池面に映えている。この場所にはかつて釣殿があったようであり、瓢箪の形をした池が左手奥にも深く入り込んでいたようである。釣殿があったということは、ここからの景観がそれだけ見所であったということになる。池に沿って紅葉山に至る柴戸のところまで来る。その柴戸の向こうは、立入禁止となっている。ここからは金閣が殆ど正面に見える。本来この庭は舟遊式であり、舟で景観を愉しむべきであるが、それが叶わないのであれば、せめて池の周囲を一巡できるようにすればよいのにと思う。 金閣は三層から成っているが、金箔を張っているのは上二層であり、二層と一層の間には屋根がないため、遠望すると二層のイメージが強くなるようだ。一層は法水院(寝殿造り)、二層目が潮音洞(武家造り)そして三層目が究竟頂(くっきょうちょう)(禅宗仏殿造り)となっており、三つの様式を見事に調和させた室町時代の代表的な建造物である。この正面からの構図もなかなか良いので、何枚かの写真を撮る。 本堂の前庭は枯山水となっている。書院の前には陸舟の松という見事な松がある。舟の舳先のように下から上へと競り上がった枝と、帆のように刈り込まれた垂直の枝とでなる松である。これは義満の盆栽を、帆掛け船の姿に似せて造り上げたものと言われている。書院の前より又島々を見る。鶴島・亀島・出亀島・入亀島・向こうに淡路島とあるようだが、一ヶ所からは全ての島は見えない。ただ各々の島は、案内図で見るよりは大きく見える。各大名から贈られた赤松石・畠山石・そして葦原島には細川石もあるようである。又葦原島(これは豊葦原瑞穂の国、すなわち日本を示すもの)には、西芳寺の三尊石組を模したものもあるようだ。将軍義満が、いかに夢窓国師の造った西芳寺に惹かれていたかという証左であろう。金閣の側には夜泊まり石もある。右手の出島には、灯籠が一基置かれてある。全体としてみるとこの庭には松が多いが、これは金色に対応するものとして、常緑の松をその配色を考慮して多用したのかもしれない。池に舟を浮かべて島々を巡りながら、この蓬莱神仙様式を踏まえた池泉舟遊式庭園を、思う存分愉しんでみたいものである。舟の中からの目線では、又違った角度からの景観が開けるのであろう。金閣の北側に廻る。かつて金閣は池中にあり、そ

大 河 内 山 荘

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  夕闇の迫る中、大河内山荘に入る。最初にお休み処に行き、抹茶を頂く。お休み処より、大乗閣のあるに登る。茅葺きのなかなか立派な建物で、その前庭は見晴らし台となっており、京の町並みが見下ろせる。そこから茶室滴水庵へと行く。      庵には赤い毛氈が敷いてある。そこに坐って露地を眺める。左手前には蹲いもある。順路には所々に枯れ滝の石組みもあるが、これは雨が降ると実際の滝となるように造られているようだ。さらに山道を登ると、嵐峡の展望台へと着く。嵐山が紅葉の錦となっている。そして遥か保津川の峡谷が見下ろせる。展望台から降りて順路を進むと、今度は京洛の町を見渡すことの出来る四阿がある。東山の山並みと京の町が、薄い夕靄に霞み始めている。 順路を降って行くと、大河内伝次郎の記念館がある。大河内伝次郎は三十四歳の時よりこの山荘を建て始め、六十五歳で亡くなるまでこの山荘の造築に生涯をかけたと記してある。昭和の名優が一生をかけて造り上げた見事な芸術品である。想像していたよりは遥かに規模が大きく、又造築に様々な趣向を凝らしているのに驚かされた。記念館を出るころはもう足下も暗く、ライトが順路に点けられていた。この園内にある静雲亭で、一度食事をしてみたいものだと思った。 大河内山荘より出て、嵐峡の方へと向かう。途中に亀山公園があり、散歩道としても整備されていると感じた。この公園には平安時代前期の嵯峨天皇、鎌倉時代中期の亀山天皇、鎌倉時代後期の後伏見天皇の火葬塚がある。夕闇の中に紅葉の紅が、儚げに浮かんでいる様も幽玄である。 保津川の畔に出ると、渡月橋あたりは灯が点り、家並みも橋もシルエットになっている。カメラを夜間モードにセットして、渡月橋付近の夕景を撮る。 大河内山荘の四阿

常 寂 光 寺

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  落柿舎への道を横に見ながら、常寂光寺へ向かう。この寺の開山は、究竟院日シン(示+真)上人(一五九五年頃)である。上人はもともと日蓮総本山本圀寺の法灯を継いでいたが、秀吉建立の東山方光寺の大仏殿供養のおり出仕に応ぜず、本圀寺を出てこの地で当寺を開創したのである。上人は歌人としても著名で、歌枕の名勝小倉山を隠栖地として提供したのは、角倉栄可、了以でのち了以の保津川事業を支援している。 山内には定家を祀る謌遷祠(歌仙祠)と時雨亭趾がある。嵯峨には時雨亭趾が当寺、二尊院、厭離庵と三ヶ所あり、いずれも定家山荘趾と言われているが、考証によれば当寺仁王門北、二尊院南が小倉山荘趾と見られ、厭離庵近辺は定家の子為家の山荘趾と見られている。これは定家の日記「明月記」を基本にした考証であるようだ。 仁王門から本堂へは石段で登る。左右の紅葉が見事である。本堂前の境内よりは、京都市内が望める。本堂裏に小さな庭あり。本堂からは左手にある坂道を降る。燈明のある下り坂が絵となる構図である。やや盛りは過ぎてはいたが、全山紅葉のお寺であった。    結びおきし 秋の嵯峨野の 庵より             床は草葉の 露になれつつ     小倉山 しぐるるころの 朝な朝な             昨日はうすき 四方のもみじ葉    吹きはらふ もみじの上の 露はれて             嶺たしかなる 嵐山かな                          藤原 定家 常寂光寺の紅葉

二 尊 院

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本堂前庭は、「龍神遊行の庭」と呼ばれている。その昔この地に龍女が棲みついていたが、正信上人によって解脱・昇天した故事に倣って、そう呼ばれているようである。竹の半円に折り曲げたもので、三つの円形の島が造られており、樹木と刈り込みを配している。右端の島には枝垂れ桜がある。柿葺きの勅使門には紫の幕が掛けられており、その向こうの黄葉が幕の紫色と見事なコントラストを造り上げている。本堂に上がり、南面の小さな石庭を見る。小倉山の山稜を借景とした石庭で、浄土の世界を表すものとして「寂光園」と名付けられている。 本堂の本尊は釈迦如来と阿弥陀如来の両如来をお祀りしている。釈迦如来は真如の世界から迷界に現れ、現世と来世を繋ぐ「白道」を絶えず見守り励ましてくれる仏である。そして阿弥陀如来は人生の目的に辿り着いた衆生に、死への恐怖を越える勇気を与え、大慈の懐へ招き入れてくれる仏であり、この二尊仏が並んでいるところに、当寺の深い意味があるとされている。勅使門より出たところの紅葉も、見事であった。 二尊院の庭園  

二 尊 院

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  二尊院の総門より入る。紅葉の馬場と呼ばれる巾広い参道が開けているが、紅葉はやはり盛りを既に過ぎている。入り口左手に、西行庵の碑がある。このお寺は正式には小倉山二尊院尊教院華台寺と言い、天台宗に属している。平安前期の八四〇年に嵯峨天皇の勅願により慈覚大師が開山、鎌倉初期には法然上人もここに居を定めていた。のちに上御門・後嵯峨・亀山三天皇の分骨も境内に納めており、三帝陵のある由緒あるお寺である。又黒戸四ヶ寺の一つとして、御所の仏事も務めていた。総門は慶長十三年(一六一三年)に、豪商角倉家の寄進によるものである。又山中の時雨亭趾は、藤原定家が百人一首を選定した場所として名高く、茶室御園亭もあるとのことだ。 二尊院の紅葉

祇 王 寺

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  パンフレットによれば、この祇王寺は大覚寺の塔頭で真言宗のお寺である。有名な祇王の物語は次の通りである。   「祇王は近江の国江辺生の庄司の娘であったが、父が罪に問われ北陸に流されたため、母・妹の祇女と共に京に出て白拍子となる。そののち祇王は清盛の寵を得て、安隠に暮らしていた。しかし加賀の国の仏御前という白拍子が、清盛の西八条の館を訪れ、舞を見せたいと申し出た清盛は門前払いをしたが、祇王の取りなしで仏御前を呼び入れて、今様を謡わせた。声も節もすこぶる上手で、清盛は忽ちにして仏御前に惹かれてしまい、ついに祇王から仏御前に心を移してしまった。そして祇王は      萌え出ずるも 枯るるも同じ 野辺の草             いずれか秋に あはで果つべき  祇王   と障子に書き残して、館を追い出されてしまった。かくて祇王二十一、祇女十九、母刀自四十五の三人は尼となり、祇王寺の土地で仏門に入った。そこへまもなく仏御前も剃髪して尼の姿で加わったのは、十七の歳であった」    春  まつられて 百敷き春や 祇王祇女    夏  短夜の 夢うばふもの ほととぎす    秋  いざよいの 月かくれにし 露の冷え    冬  五十年の 夢とりどりの 落葉かな   智照尼 祇王寺の吉野窓

祇 王 寺

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  祇王寺に入る。陽が傾いていたこともあろうが、紅葉そのものもここではピークを過ぎており、二十数年前の秋に広島の友達と訪れたときの優美な印象は再確認出来なかった。 新緑の祇王寺

時 雨 亭 趾

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  宝篋院から祇王寺へと向かうその途中の厭離庵近くに、定家に因んだ立て札がある。それを見て定家は嵯峨野近くに時雨亭を有していたことを思い出す。 中里恒子の「時雨の記」では、二尊院の時雨亭趾が出てくるが、嵯峨野にはこれ以外に二つの時雨亭趾があるようである。又嵯峨野はその地形より、時雨の多い土地として有名であることも思いだし、先ほどの小雨はまさにその嵯峨時雨だったのだなと思う。 二尊院 時雨亭跡

宝 篋 院

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  庭園は受付横の折戸を押して入るようになっている。中に入ると同時に、「照る花紅葉」の世界が開ける。期待していた以上の素晴らしい紅葉の世界を愛でながら苑路を進み、本堂のほうへと入って行く。 本堂から眺めると苔と石組みで構成された部分はあるが、その他は楓樹と苔に覆われた回遊式枯山水庭園である。本堂の裏手の書院前には、坐鑑式の枯山水庭園と露地がある。そこより苑内を周遊。裏手には竹林もある。しかしこのお寺はやはり、何と言っても本堂南面の紅葉の庭が圧巻である。黄・橙・赤橙・赤・紅・真紅と、色とりどりの紅葉が庭全面に拡がっており、まさに錦繍の世界であった。 宝 篋 院

宝 篋 院

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嵐電の嵐山駅を降りて清涼寺に向かつて北上して行く。もうかなりの人々が紅葉を見終えて、駅のほうへと戻って来ている。途中JR嵯峨野線を渡ったあたりで、小雨が降り始める。傘も帽子も持っていないので、少し雨宿りをするも雨は降り止まない。小雨なのでそのまま歩いて行くと、お店で帽子を売っているところがある。冬になれば帽子も必要かと思い購入して外に出ると、もう小雨は上がっていた。 清涼寺前を左折して突き当たったところが、宝篋院である。この寺は平安後期の白河天皇の勅願寺として建てられ、当初は善入寺と命名された。 その後南北朝時代に夢窓国師の高弟黙庵が再興し、爾来臨済宗となっている。そして室町幕府二代将軍の足利義詮の帰依を受け、没後その菩提寺となっている。そして義詮の院号に因み、寺名も宝篋院となったのである。黙庵は又南朝の楠木正行と相識り、正行に没後を託されていた。正行は四条畷での高師直との合戦で討ち死にをし、黙庵は生前の交誼によりその首級を善入寺に葬った。義詮は黙庵より正行の話を聞き、その人柄を褒め称えて自らもその墓の傍らに葬るべく黙庵に頼んだとのことである。 宝 篋 院  

 天 球 院

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 天 球院は一六三一年に、姫路城主・池田輝政の妹である天久院により創建された。この折りに地中より瑞宝が出たので、天球院と命名されたようである。 方丈内部は狩野山楽・山雪の筆による襖絵で飾られている。やや装飾過多な感じで、狩野永楽の筆致との差があるように思う。金碧画であることも、また風情がない。風韻と言うものが感じられないのは、魂を込めて描いてないからであろうか。 庭は苔庭の中央に大木の松を配している。その松の根の張り方は面白い。そして松の周囲に石を配置し、右手に宝篋院塔がある。遺憾ながら、特別拝観料の千円の値打ちがないのは残念である。

大 法 院

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  大法院に寄る。当院は一六一二年真田幸村の兄・信幸の孫である千種大納言有能の側室・長姫を開祖とするお寺である。真田家とその縁戚の千種、久我、内藤四家の香華寺である。信幸の院号が大法院と言うそうである。またこのお寺には、佐久間祥山の墓もあるようである。  庭は苔庭であり、右手に待合い席その手前に灯籠、正面は背の低い竹があり左手に茶室を配している。木立があるため、庭はやや薄暗い。この庭は露地庭で、飛び石・垣門・灯籠・蹲い・袖摺りの石・腰掛待合などがある。庭の構成は外露地、中露地、内露地の三段構成になっている由。露地庭に面したところに坐して、抹茶を頂く。

退 蔵 院

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  退蔵院は正面の庫裏が立派なお寺である。袴越しの大玄関より、方丈へと入る。方丈前庭は庭らしい作意のない庭で、趣なし。方丈の西側に枯山水がある。 これは狩野元信作庭の庭である。石組みの滝口から流れる白沙は、石橋を潜り中之島を巡って、左手の海へと出て行く。その左端にもまた石橋が架かつている。枯れ滝には玉石を配し、蓬莱島の石が割れているのも風情あり。小さな庭ではあるが、凝縮感あり。石組みや石そのものの形も面白く、眺めていて飽きのこない庭である。  余香苑へと廻る。入り口に新しい石庭がある。そこから下って行くと、水琴窟もある庭となっている。池の手前から、庭を観賞する。この庭はややなだらかな斜面に造られた庭である。右手奥に石組みで滝を造っており、そこからの流れが池に注ぎ込んでいる。左手には躑躅の大刈り込みがあり、その上に傘亭がある。右手の滝の名は龍王滝といい、藤棚の下からの眺めは優しく女性的で落ち着きがある眺めである。調和感と安らぎを感じさせる名園と思う。

大 心 院

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  大心院は応仁の乱が終わった義尚の時代(一四七九年)に、管領の細川政元が上京に建立したものを、細川幽斎(藤孝)が妙心寺に移築したものである。その子三斎(忠興)もこのお寺を外護したと言う。  方丈前庭は、花壇のようなものが造られており風情に欠ける。書院の前庭を阿吽庭と言い、白沙を流水風に流してやや赤目がかった味わいのある石を配した枯山水である。その他にも五色十七個の石を庭の各所に置いている。苔の陸地と州浜形の曲線も面白く、なかなか興趣のある庭となっている。 大心院の庭園

桂 春 院

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  最初に桂春院を訪れる。当院は織田信長の長男信忠の、そのまた次男である津田秀則により当初見性院として創建された。その後美濃の豪族であった石河(いしこ)貞政により、現在の建物が造られている。石河貞政は幼少より豊臣秀吉に仕えて重臣となり、江州長浜城主となっている。しかし後の関ヶ原の戦いでは徳川家康に従い、爾来直参旗本となった武将である。そしてこの石河貞政の法名が、桂春院と言う。 当院の栞によれば「禅宗とは、坐禅の修行によりて単刀直入内に向かつて自己何者ぞ、人生とは、存在とは畢竟何か、と真っ向に追求し、直下に分別意識の極限を飛び超えて真理を体験し、只仏に直参することを生命とする。人間がその存在の根底より呼び起こす魂の郷愁として(絶対成るもの、永遠なるもの)に全人格を投げ出し、そこに新しい自己を発見し、人生の意義に目覚め、一種の安心性、安住性、千万人といえども我行かんという心の悟りを得るもので、それは多くの宗教中最も根源的な、最も純粋な宗教である」とのことである。言わんとするところは何となく判るが、この文章は相当に読みにくいものであると思う。 庭園に関しての記載は、次の通りである。「庭園には遊楽の場を目的とした相対的な美意識の立場にある山荘池泉回遊式鑑賞庭園と、真実の自己を究明する場を目的とした禅精神の影響による知性を超越した絶対的な美の立場である枯山水庭園がある。枯山水の庭は(三万里程を寸尺に縮む)筆法であり、それは石も樹木も白沙も青苔も無限の広さ大きさを持ち、大自然に帰一する禅精神の極高・静寂・脱落・有限性の表徴であり、高度の芸術である」と書かれている。  まず清浄の庭を見る。これは坪庭に井筒を利用して紀州の奇石を配した枯れ滝の庭で、大仙院と同じく渡ろう・宋風窓あり。次ぎに侘びの庭である。これは青苔と石組のみで、余り風情はない。次いで方丈に廻って真如の庭を見る。方丈南側の崖を躑躅の大刈り込みで覆い、その向こうの一段と低いところに石組みを七・五・三に配して、十五夜の満月を表現している庭であるという。そしてそのまた向こうにある生け垣が、背景との境を為している。庭の向こうに二階建ての日本家屋があるのが、残念である。 桂春院の庭園

妙 心 寺

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  花園の妙心寺へは北門より入る。花園天皇の離宮があったとされる妙心寺は、本坊を中心に四十七の塔頭が境内に犇めいている。本山は大徳寺開山の大燈国師の弟子・夢窓大師(関山慧玄一二七七―一三六〇年)が花園上皇の帰依を受けて、建武四年(一三三七年)の南北朝時代に創建されたものである。応仁の乱後、後土御門天皇の勅により雪江宗深禅師が中興している。 法金剛院の蓮

<洛 西> 等 持 院

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  大徳寺より等持院へと行く。当院は一三四一年に足利尊氏が夢窓国師に帰依して創建したお寺で、その後室町幕府の近くにあった等持寺もこちらに移建されて、足利家の菩提寺となった。応仁の乱などで火災にあったが、豊太閤も秀頼に命じて当院を再建し、この寺の保存に努めている。 現在の方丈は一八九八年に妙心寺山内より福島正則造営の方丈が移されたものである。方丈庭園は門を背景にした白砂と苔の陸地の上に、石や刈り込み、樹木が配置された枯山水の庭で、左側には松の植え込みの島もある。凝縮感は乏しいが、簡素で親しみやすいお庭である。その隣にある霊光殿は弘法大師作と言われる地蔵尊を本尊として、足利家代々の将軍達の木造を祀り、また徳川家康の木造も安置している。禅宗十刹の筆頭持院でありながら、弘法大師作の地蔵尊を祀っていることも面白い。 方丈北庭は芙蓉池の庭として有名であるが、池の中心に島がありそれが蓮の形となっていることから芙蓉池と名付けられたようである。中之島は蓬莱島であり、球形に近い横紋の石を中心に据え刈り込みで覆われている。池の左手の奥に小川が小さな滝となって流れ込んでいる。中之島へはこちらより石橋が架かつており、池の右方奥には枯れ滝風の石組みが築山の上にある。左側は山畔式で茶亭までの間を刈り込みで埋め、その間に石を配している。茶亭は村田珠光や相阿彌などと茶道を興した義政好みの清漣亭であり、上段一畳を貴人床とする武家風の二畳台目の席である。池の清漣に心を静めることを悦ぶと言うところから、清漣亭と命名されたようである。  清漣亭から降りて、池の向こう側を巡る。この庭はもともと心字形となっており、尊氏の家臣であった高師直が夢窓疎石の勧めにより開いた真如寺の庭園であったという。東庭は最近になって整備されてきたようであるが、それでもまだ管理が行き届いていない。大きな池の中央に大小二つの島がある。こちらが方丈島と瀛州島である。現在は樹木がやや茂りすぎているが、この造りは苔寺と類似性があると言われている。 等持院 庭園

蓮 華 寺

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  妙満寺より、高野八幡の蓮華寺に行く。この寺は加賀前田家の家臣が再興したお寺である。その最高の折には、石川丈山・狩野探幽・木下順庵・黄檗の隠元禅師・木庵禅師などが協力している。お堂に入って、お庭を拝観する。今日はあまりに天気が良すぎて、かえって庭の景色が露出過多になってしまう。やはり庭というものは、どちらかと言えば曇りか雨の日のほうが風情があるようである。門内の庭の紅葉が、逆光で見事なので写真に収める。

妙 満 寺

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  妙満寺は日蓮宗の一派の顕本法華宗の総本山である。そしてこの寺の開基日什上人は、もともと天台宗の人で比叡山三千の学頭にまでなった玄妙能化である。彼は六十七歳の時に日蓮上人の教えに帰依して改宗し、自解仏乗して名を日什と改めて日蓮門下になったという。日蓮上人は釈迦牟尼仏に帰一することを説いており、日什上人はこの日蓮の教えを時の帝、御円融天皇に上奏し「洛中弘法の綸旨」を得ている。そして室町初期の一三八九年に京都の室町に草庵を造り、「妙塔山妙満寺」の号を立てて根本道場とした。その後妙満寺は洛中に寺域を変えながら興隆してきたが、室町後期の一五三六年に二十一坊を誇る大伽藍は天台宗比叡山の僧徒によって焼き打ちに合い、一時泉州堺に逃れた。その後また元の地に復興したが、秀吉の時代に寺町二条に移転された。明治維新の蛤御問の変に端を発した「どんどん焼け」の大火によって、長州屋敷のすぐ側にあった妙満寺は、塔頭十四ヶ院と共に七堂伽藍悉く烏有に帰したという。明治以降徐々に復興したが、今次大戦による強制疎開で塔頭全部を失ってしまった。そして昭和四十三年に現在の岩倉の地に移ってきたのである。 入山すると正面に大本堂があり、その左手に仏舎利大塔が建っている。これはインドのブッダガヤ大塔を模したものである。ブッダガヤ大塔は、釈迦牟尼仏が覚りを開いた地に、紀元前二百年頃にアショカ王が建てた供養塔で、仏教の最高の聖跡と言われている。日本のお寺としては珍しい建造物であり、一階正面には釈尊の座像を安置している。そして最上階には、当時が古来格護してきた仏舎利が安置されているという。 堂内に上がる。この寺は実際にまだ活動しているお寺だとの印象を受ける。最初に「雪月花三名園」の内の一つと言われる「雪の庭」を見る。この庭の築庭は、俳句の祖と仰がれる松永貞徳によるものと言われている。松永貞徳(一五七一―一六五三年)は、連歌から発生した俳諧を完成させ、後の俳聖松尾芭蕉にも多大の影響を及ぼしたと言われる。貞徳は寛永六年に当山を会場として始めて正式な俳諧大興行を執り行い、爾来俳諧は公式の文芸として世に登場することになったという。貞徳はこの庭のほかに清水の成就院の月の庭、北野の成就院の花の庭を造っており、「三成就院の雪月花の庭」として並び称されたが、今は「花の庭」は残っていない。比叡の霊峰を借景とした枯山水の庭である

実 相 院

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  実相院門跡は、当初紫野にて鎌倉時代の初期に開創されたお寺である。開基は鷹司兼基の子、静基(じょうき)僧正と言う。ご当地に移ってきたのは、室町時代の足利義満の頃である。その後兵火で伽藍の多くを消失したが、江戸初期の第十七世義尊僧正の時に、皇室と徳川家光の支援により再建・復興した。義尊僧正のあとには、後西天皇の皇子義延親王が入室され、以後法灯は代々皇孫を持って継承されるようになった。明治になって皇族の入室は廃止され、昭和に入ってからは天台宗から独立して単立寺院となっている。 門構えは流石門跡寺院だけ合って、立派である。東山天皇(在位一六八七―一七一〇年)から四脚門・御車寄せ・客殿を賜ったという。御車寄せに上がると、右手に使者の間がありそこに狩野永敬筆の「七仙人の図」および「四季の草花」「紅梅下の鶏」などが展示されている。最初に客殿に行き、「一仏八僧の庭」を見る。往時は蹴鞠の庭であったのを、明治時代に現在のように作庭し直したようである。釈迦が伽邪園において八大弟子に華厳経を説いた構図を表しているとのことである。左手奥の楓の紅葉が、暮れなずむ気配に沈潜していくような印象を受けた。客殿の裏に回ると、そこには池泉回遊式庭園がある。善阿弥の孫の庭師又四郎が作庭したものという。まず無難な庭であるが、印象に残るものは少ない。離れ書院等を廻るが、夕方なので部屋の中は暗くなってきており、足早に見終わる。

源 光 庵

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  山門の上に銀杏の木が垂れ下がっており、これが逆光となってまぶしいほどの金色の光景を作り出している。Oさんが見つけ出したアングルで、何枚か撮す。それから本堂に上がって、お庭や「迷いの窓」「悟りの窓」を見る。角窓の「迷いの窓」は人間の一生を象徴して「生老病死四苦八苦」を表し、丸窓の「悟りの窓」は大宇宙を意味する円形の中に「禅と円通」の心を表すという。ここへ来たのは今回で三度目であるが、その中で前二回は薄曇りであったが、今回はまさに晴天である。しかしあまりに天気が良すぎると、光が強すぎて景色がトんでしまいそうである。 源光庵 紅葉

源 光 庵

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  そこから歩いて、源光庵に立ち寄る。このお寺の正式名称は鷹峰山樹林源光庵と言い、もともとは臨済宗大徳寺派のお寺として一三四六年に創建されたが、元禄時代(一六九四年)に加賀の国より曹洞宗の復古道人卍山(まんざん)道白禅師が当寺に入山し、爾来曹洞宗となっている。 源光庵 悟りの窓

光 悦 寺

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  回廊の下を潜って境内に入り、一巡する。光悦作庭の池の側には、茶席三巴亭がある。そこから進むと光悦垣(臥牛垣)のある大虚庵茶席である。そしてその先には了寂軒茶席がある。そして見晴らしの良いところに立っているのが本阿弥庵茶席という。これ以外にも徳友庵茶席、騎牛軒茶席などがある。ここの紅葉は思ったより楓が少なく、寂しい感じがする。光悦垣などを撮す。 光悦寺 太虚庵

光 悦 寺

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  光悦寺もまた沢山な人出であり、門前の紅葉の回廊も人出で溢れている。この光悦寺は本阿弥光悦が、徳川家康から賜った鷹ヶ峰の地にあり、光悦はここに一族縁者や工芸の職人と共に住居を構え、工芸部落を営んだ跡地にある。光悦の没後、日蓮宗光悦寺となったものである。 光悦寺 参道

原 谷 苑

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  茶店でお寿司の盛り合わせを頂き、又苑内を逍遥する。苑内は八重の紅枝垂れがもっとも多いが、それ以外にも一重の枝垂れ桜、白の八重桜、それに遅咲きの染井吉野も咲いており、又赤い皐月もすでに咲いているものもあり、色とりどりの花に体も染められそうであった。 帰りはバスで立命館大学前まで下りて、帰路に就くが、西大路を下る途中で平野神社前を通ることに気づき、平野神社の桜も見る。しかしここの桜は染井吉野が主体であり、もうその盛りを過ぎており、夕方に近いせいもあり人影も割と少なかっ た。 原谷苑

原 谷 苑

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  清涼寺を出たところでタクシーを捕まえて、御室仁和寺に行こうとするが、運転手さんが(桜なら、原谷苑がよろしゅうおまっせ)と言うので、原谷苑に連れていって貰う。鳴滝・福王子経由の衣笠街道がえらく混んでいるので、迂回して金閣寺手前の道から原谷へと登って行き、原谷苑へと着く。大変な人混みである。 この原谷苑は金閣寺よりは衣笠山を越えたところ、又御室仁和寺よりは八十八カ所の山を越えたところに位置する。景観の良い丘陵を利用した個人所有の四千坪の桜の園である。パンフレットによれば、例年四月上旬に吉野桜・彼岸枝垂れ桜(一重・赤・白)・雪柳・ぼけが咲きはじめ、中旬には紅枝垂れ桜(八重)が見頃となり、下旬には遅咲きの桜が満開となり、その他にも黄桜・みどり桜・御室桜・ぼたん桜・普賢象・菊桜などの桜も楽しめるとある。苑内に入ると、まさに夢のような桜の園である。丘陵一面が桜で覆われていて、さすが新しい京都の桜の名所と言われるだけのことはある。茶店のある丘に登る途中には、雪柳が咲き乱れ、その白が紅枝垂れとコントラストを為していて、実に美しい。六義園のようにただ一本の大きな枝垂れ桜の姿も又見事であるが、この原谷苑のように夥しい数の様々な桜による圧倒的な美も又素晴らしいものである。 原谷苑の百花繚乱

真 珠 庵

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  本日は如何にしても真珠庵を見るべく、やや早めに西宮北口を出る。大徳寺について、すぐに真珠庵へ入る。真珠庵は大徳寺四十八世の一休宗純禅師が草庵を建てた跡であり、応仁の乱で焼失したが、これを堺の豪商尾和宗臨が一休のために没後十周年の延徳三年(一四九一年)に再興した。 庫裡より入って、大きな井戸と石組みのある壺庭を渡ると、そこが方丈となっている。方丈の東庭が、細長い地面に十五の石を七・五・三形式に配列した室町期禅院式の枯山水庭園で、村田珠光の作庭と伝えられている。これは一休と関係の深かった文化人達の中で、村田珠光が一休に参禅し、その墓所も境内にあるところから、そういう言い伝えになったものらしい。連歌師宗長も一休との関係が深かったが、彼の日記の中にも、真珠庵に庭を造ったとの記載があり、宗長もこの庭に関係していたことが窺われると言う。この庭は、七・五・三の石の配列では、龍安寺と同型式であるが、庭そのものは酬恩庵一休寺の東庭と類似性が非常に高く、この形式を大徳寺式枯山水と呼ぶようである。しかし自分としては、この細長の枯山水から受ける興趣は、残念ながらやや少ない。 ついで客殿に廻る。この客殿はもとは正親町(おうぎまち)天皇女御の化粧殿(けはいどの)であったものを移築したもので、通遷院(つうせんいん)と呼ばれ、単層・入母屋造・柿葺の書院である。この通遷院に付属して、茶室庭玉軒がある。この二つの建物に面しているところに金森宗和作庭とされる瀟洒な平庭がある。この平庭には大小の石組みと右手の灯籠に加えて、わずかな樹木を配している。この庭は通遷院の前庭であると共に、茶庭として露地の役割をも持っており、趣のある庭である。この庭の説明を受けた後、茶室庭玉軒を鑑賞する。この茶室は草庵風の二畳代目の席であるが、庭のほうからにじり口を入ると蹲踞(つくばい)を配した土間となっている。これは金森宗和の生国が雪国飛騨高山であったことから、雪国の茶庭型式である内蹲踞のある土間を取り入れたものと見られており、他に類例を見ない名席の一つに数えられている。点前畳代目のほうに廻って、茶席を見る。点前畳代目に障子が三つあるのをのぞくと二畳台目の壁には障子はない。そして天井は全て侘びの表現を強調するかの如くに、蒲天井となっている。床の間は見ることが出来ないが、幽玄さを感じる茶席である。障子からの薄明かりのみ

高 桐 院

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ついで高桐院に行く。ここも人影が少ない。高桐院は門前、それから参道が石畳と落ち着いた緑に囲まれていて、何時来てもその端正さに心が洗われるような気がする。先ず松向軒の茶室から拝観する。松向軒は細川三斎お気に入りの茶席であり、二畳台目の席となっている。手前が主人座、その向こうが客座で、客座の角に小さな躙口がある。ついで書院を改造して広間の茶席として鳳来席を見る。この茶席より庭に下りたって、始めて細川三斎の墓を見る。この墓の墓石に使われているのは、三斎が利休から贈られた石灯籠である。利休が秀吉の所望を断るためにその蕨手の後ろの部分を欠けさせたと言われており、その為欠け灯籠とも呼ばれているものである。利休の秀吉への接し方を見ると、この件の他にもいろいろと秀吉の怒りを買うことを、わざわざやっているような処がある。その為に最後には切腹せざるを得ないことになったのであろう。松向軒を庭のほうからも見る。その後は、方丈に廻り、楓の庭を見る。若い女性五人のグループがいるだけで、他の人は誰もいない。彼女たちに頼まれて、庭を背景とした写真を撮って上げる。こういうシーズンはずれの京都の寺も、ゆっくりとしかも景観を独占できるという意味では、なかなか良いものである。 高桐院から、今宮神社に廻る。この神社そのものは、あまり見るべきものはない。神社のそばにあるいち和と言う店で、あぶり餅を食べる。小さな餅肉に串をさして炙り、それに黄粉のたれをつけて食べるものだが、なかなか鄙びたいい味であった。 高桐院 庭園  

金 福 寺

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  詩仙堂より金福寺へ廻る。この寺は貞観六年(八六四年)に慈覚大師が国家安泰衆生救済を念じて、自作の聖観音菩薩を祀って創建したお寺である。正式名称は佛日山金福寺と言う。その後荒廃していたが、元禄時代に鉄舟和尚が再興して臨済宗となった。その頃に松尾芭蕉が、時々鉄舟和尚を訪ねて親交を深めていたので、人々は後丘の庵を芭蕉庵と呼ぶようになったという。時代が降り安永のころ、与謝蕪村一門が庵を再興したものが現在の芭蕉庵である。彼ら蕪村一門はしばしばこの庵で句会を開いたという。また当時は一時期井伊直弼の寵愛を受けたと言われる村山たか女の、晩年の栖家としてもその名を知られている。 狭い石段を登って境内にはいる。方丈に入る前に庭の全面を見る。方丈前の白砂、その向こう側と山畔は刈込みで被われていて、その上に芭蕉庵が見える。庭の左手奥に井戸があり、その傍らに曼珠沙華が一輪咲いているのが印象的であった。庭そのものはどちらかというと、特長の少ない庭である。方丈内を拝観して、芭蕉庵の方へ登り、まず蕪村の墓を見る。これは現代の墓石で作られているためか、俳句俳画で有名な文人蕪村のお墓にしては、やや風情が無さすぎる。蕪村は摂津の国の生まれであるが、江戸に出て修行の後、丹後与謝にて四十歳にして妻を得て、京に移り住み、五十三歳の頃よりやっと世に認められ始めたという。蕪村が再興した芭蕉庵は、きわめて質素なものであるが、そこより京の町の眺望が開けており、俳人達の集う庵としての風趣には富んでいる。   金福寺 庭園          金福寺にての句      うき我を さびしがらせよ 閑古鳥     芭蕉    耳目肺腸 ここに玉巻く 芭蕉庵      蕪村    徂く春や 京を一目の 墓どころ      虚子 当寺に入り尼となって妙寿と改名し、明治の世まで生き延びて六十七歳の天寿を全うした村山たか女の生涯は次の通りである。たか女は彦根近郊の多賀社尊勝院の院王を父として生まれ、若くして二条家と九条家に仕えた。十八歳で井伊直亮の侍女となったが、二十一歳の折には侍女を辞して祇園で芸妓となっている。その後二十三歳で金閣寺の寺侍の世話を受け帯刀を産む。埋木の舎に出入りして井伊直弼の寵愛を受けたのは、たか女三十一歳の頃のことであった。その後長野主膳と知り合い、直弼が大老となってからは、京都に

詩 仙 堂

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  丈山はこの詩仙堂に凹凸カ十境を見立てている。入口に立つ(一)小有洞の門、参道を上り詰めたところに立つ(二)老梅関の門、建物の中に入り(三)詩仙堂、読書室である(四)猟芸巣(至楽巣)、堂上の(五)嘯月楼、至楽巣の脇の井戸(六)膏盲泉(コウコウセン)、侍童の間(七)躍淵軒、庭に下りて蒙昧を洗い去る滝という意の(八)洗蒙瀑、その滝の流れこむ浅い池(九)流葉泊、下の庭に百花を配したという(十)百花塢(ヒャッカノウ)がそれら十境である。そのほかに名高いものとしては、丈山考案の「僧都」(添水、一般には鹿おどしとも言う)も園内に配されている。 小有洞から老梅関に至る鬱蒼と茂った竹林の趣が、俗界からこの聖賢の住まいに入るための導入部として、誠に良くできていると前回も思ったが、もう一度訪れてみてその思いを強くした。やや薄暗い篁より老梅関を潜ると、そこには清閑な庭と建物の佇まいが現れる。そして詩仙の間を見て、書院の畳に座して刈り込みとその左手の庭を観賞する。この庭には洗蒙瀑から流れ込む流葉泊があるが、そこには手水鉢、石塔などがあり、刈り込みのみの庭よりは、こちらのほうが風趣があると思う。先程の圓光寺を見ていたころからの雨足が、やや強くなり樹木の葉に当たって音を立て始めた。それでしばらくゆっくりと座り込む。やがて雨足も小降りになってきた。そこでいったん入口から出て、残月軒のそばより庭にはいる。中段の庭から下段の庭に下りるところに、背の高い紫苑が二三本花を開いている。薄紫の清楚な色がこの庭に良く写る。下段に下りるその途中には芙蓉の花も咲いていた。十方明峰閣と呼ばれる座禅堂は、その建物も庭もやや詩仙堂の風趣とはあわない感あり。 いまの庭は丈山没後、百年して改修されたと書かれてあるが、いずれにしてもこのような山畔を利用して、趣のある庭を造り上げた丈山の創意はなかなかのものである。景色としては中段の池のあたりから、斜面正面の篁を望むところがよいと思われた。 詩仙堂 庭園

詩 仙 堂

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   圓光寺より詩仙堂に廻る。現在詩仙堂と呼ばれているのは、正しくは凹凸カ(穴+果)であり、詩仙堂はその一室である。凹凸カとは、でこぼこした土地に建てた住居という意である。詩仙堂の名前の由来は、中国の漢晋唐宋の詩家三十六人の肖像を狩野探幽に描かせ、その画に石川丈山自らが各詩人の詩を書いて、四方の壁に掲げた「詩仙の間」より取られている。  石川丈山は天正十一年(一五八三年)に三河の国(安城市)の徳川譜代の臣の家に生まれ、丈山も十六歳で家康に使えた。松平家、本多家はその縁戚である。三十三歳の時大阪夏の陣で功名を立てるべく病を押して奮戦したが、軍律違反を咎められ蟄居の命を受けてしまった。為にこの役を最後に徳川家を離れ、京都にて文人として藤原惺窩(セイカ)に朱子学を学んだが、老母に孝養を尽くすため、広島の浅野公に十数年使えた。そうして母の没後五十四歳で京に戻り、相国寺のそばに棲んだが、五十九歳で詩仙堂を造営した。爾来清貧の中に聖賢の教えを自分の勤めとして、九十歳の天寿を全うした。丈山は隷書、漢詩の大家であり、また煎茶(文人茶)は日本における開祖である。 詩仙堂