投稿

11月 14, 2020の投稿を表示しています

南 禅 寺 三 門

イメージ
今日はまだ桜の開花には一週間早いかと思いながらも、タクシーで南禅寺に向かう。運転手さんに「どこか桜の咲いているところはありますか」と聞くと、「ではひとつだけ咲いているところへお連れしましょう」と言うことで、岡崎公園の近くの京都会館横にある枝垂れ桜の処へと連れていってくれる。それはどこかの寮の庭から道路の方へと伸びた枝垂れ桜であり、思わぬ僥倖にカメラのシャッターを何度か押し続けた。そこから平安神宮の前を通って二条通りを直進し、白川に架かっている岡崎橋を渡って野村碧雲荘の所に出る。その辺りはとても閑静な邸宅が並んでおり、その通りにも一本の枝垂れ桜が咲いていた。 タクシーを南禅寺の三門の所で降りて、三門に登る。当門は南禅寺創建(一二九一年鎌倉後期)後数年後に、西園寺実兼の寄進により建立されたが、火災で焼失。現在の門は寛永五年(一六二八年)に藤堂高虎が、大阪夏の陣で倒れた将兵を弔うために再建したものである。入母屋造り、本瓦葺きの禅宗式三門で、高さ二十二メートルである。向かつて右の山廊に拝観受付があり、そこより急勾配の階段を綱を持ちつつ登る。楼上からは京の町並みが遠望でき、眺望よし。楼内に宝冠釈迦座像が本尊として祀られている。三門の意は空門・無相門・無願文の意味で、仏教修行の三解脱を表すとのことである。日本三大門のひとつで天下竜門とも呼ばれ、上層の楼を五鳳楼という。楼内に狩野探幽、土佐徳悦の筆になり鳳凰、天人が描かれていることから名付けられたものかと思われる。門前左方の巨大な石灯籠は佐久間勝之の寄進で六メートル余りの高さがあり、東洋一の大きさである。 南禅寺 三門  

無 隣 菴

イメージ
  南禅寺より西方に向かい、動物園の前に出る。ここに無隣菴があるので、四時を回っていたが寄ってみると、まだ開いているので入園する。ここは明治の元勲山縣有朋が、明治二十九年に造営した別荘であり、有朋の長州の草庵が隣家のない閑静な場所にあったことから、無隣菴と名付けられたようである。庭園は、有朋の設計・監督のもと造園家小川治兵衛が作庭したもので、緩やかな傾斜地に東山を借景として疎水の水を取り入れ、三段の滝・池・芝生を配した池泉回遊式庭園である。建物は木造二階建ての母屋と、藪内流燕庵を模して造られた茶室、及び煉瓦造り二階建て洋館の三つから成っている。 最初母屋より、東山を借景とする庭の紅葉を愉しむ。それから三段の滝の所にまで回遊して、そこから母屋を臨む。流水式でもあり、なかなか風情がある。退蔵院の中根金作作庭の余香苑とイメージが似ている。また母屋に戻り抹茶を頂いて、それから洋館を見る。二階には江戸初期の狩野派による金箔花鳥図障壁画のある部屋があり、この部屋で明治三十六年に日露戦争開戦前の外交方針を決める「無隣庵会議」が開かれている。その時のメンバーは元老山縣有朋、政友会総裁伊藤博文、総理大臣桂太郎、外務大臣小村寿太郎の四人である。家具も往時の儘であり、緊迫した会議を偲ばせる。山縣有朋は庭園を造るのが趣味であり、椿山荘・新々亭(東京)・小洵庵(大磯)・古希庵(小田原)と言うように、各地に別荘を造っている。有朋はまた第二無隣菴も造っており、これは角倉了以の屋敷であった現在の「がんこ寿司二条苑」がその場所である。又これらの造築には小川治兵衛がいろいろと関わっており、治兵衛は有朋の知己を得て様々の造築に携わることによって、自らを大成していったとも言えそうである。もう一度庭を眺める。東山を借景として上手に造り上げた、風雅な趣のある庭である。 無鄰菴の庭

金 地 院

イメージ
  次は金地院に行く。金地院は室町幕府第四代将軍、足利義持が大業和尚に帰依して開創した寺である。当初北山にあったが、慶長の初めに金地院崇伝が南禅寺塔頭に移建したものである。金地院崇伝は徳川家康に近侍し、天海和尚と共に幕議に参画し、自らは天下僧録司として社寺を司り。寺門繁興、威勢すこぶる盛大であったとのことである。世に寺大名と呼ばれ、また「黒衣の宰相」とも喧伝され畏怖尊敬を一身に集め、後水尾天皇より円照本光国師の号を賜っている。 庫裏の横手の明智門より入山する。これは明智光秀が母の菩提を弔うため、黄金千枚を寄進して大徳寺に建立したものを、明治初年に当院に移建したものである。門を入ると、弁天池がある。その傍らの苔地が青々とした緑で美しい。そこから東照宮へ廻る。崇伝が家康の遺髪と念侍仏を奉戴して、寛永五年に造営したものである。ついで開山堂へ廻る。ここが崇伝長老の塔所である。塔所を過ぎると方丈前庭に出る。この庭は有名な小堀遠州の「鶴亀の庭園」である。むかし見たことがあるはずであるが、記憶にあるものよりは広々とした庭で、遠州の造った庭の内で代表的な枯山水庭園と言われている。前面の白沙は海洋を表すと共に宝船を象徴、正面に長方形の大きな平面石があり、これは東照宮の遥拝石である。その正面左手に枯れ滝の石組みがあり、燈籠が一基配してある。そして右に大きな松を配しその周りに石を立てた鶴島、左に下り松と石を横にした亀島がある。鶴島・亀島の規模が、庭の広さに比較して大きく雄渾かつ豪壮な造りである。鶴島の松の大振りの枝と、垂直に立つ石に力強さを感じる。また亀島のやや平たい石の配置も鶴島の立石と比して対照的である。 庭の後方中央に蓬莱石組みを組んであるが、鶴亀の島が大きくかつ前面に出ているので、余り目立たない感じがする。鶴島の左端の長方形の石が面白い。その手前には、飛び石がある。背景はやや大きな刈り込みを順に高く積み上げている。これは深山幽谷の山々を表しているとの由。全体的に枯山水としては極めて大きな構造であるために、かなりの迫力を感じるお庭である。強いて言えば、中心部の石組みがややこぢんまりしている点が、難点と言えようか。左手の楓が紅葉しているのが、その前の松の緑とコントラストを為していて興趣あり。 金地院の庭

天 授 庵

イメージ
書院南庭に廻る。この庭の池割から見ると、鎌倉末期から南北朝時代の特色を備えているということである。東池と西池は流れで繋がっており、心字形を為している。東池には滝があり、手前に板橋が置かれている。板の橋を渡りながら、池に垂れ下がって紅葉している楓の木を愉しむ。また西池は東池より大きく、正面奥と右側に出島があり、これが心の字を形作っている。西池の東側を行くと、そこは飛び石で渡れるようになっており、また出島より石橋が西方に架かつている。右方の出島には灯籠がある。途中この庭も荒廃していた時期があり、慶長の再興の時に改造しているとのことである。またさらには明治の初めに蓬莱島や石橋を架けるなどの改造があり、明治期の特徴も持っているが、原型は鎌倉末期のものだそうだ。余り大きな庭ではないが、築庭に趣向を凝らしたなかなか風情のある庭である。南庭を見終わって帰路を歩いて東庭まで戻ってきたところで、先輩と出逢う。先輩は東福寺より北上してきたとのことである。写真を撮り合って別れる。 書院 南庭  

天 授 庵

イメージ
  つぎに訪れたのは、天授庵である。ここは南禅寺の開山、大明国師普門禅師を奉祀する開山塔である。大明国師は東福寺の第三世であり、亀山法皇が奉じて開山としたときは老齢であり、南禅寺が寺として整う前に東福寺の龍吟庵で入寂した。 そもそも亀山法皇が大明国師に帰依されたのは、法皇が妖怪の出現に悩まされていた折に、一言の読経もせずにただ規矩整然と坐禅するのみで、これを鎮められたためという。しかし実際に南禅寺を完成させたのは第二世の規菴祖円禅師であったため、大明国師の開山塔は造られないままであった。これを憂えた第十五世虎関師錬が、一三三六年に光厳上皇の勅許を得、塔を霊光、菴を天授と名付けて開創したものである。しかしその後応仁の兵火などで荒廃していたのを、一六〇二年細川幽斎の支援を受けて復興したものである。 庭園は本堂前庭(東庭)と書院南庭に分かれている。まず方丈前庭に入る。ここは左手に正門があり、そこより方丈中央へと石畳が鉤型に白沙の上に敷かれており、これがこのお庭のアクセントになっている。その向こうは横一列に樹木が植えられており、その前に石を配置している。余り装飾をしていない端正な庭で、紅葉が一番の見頃である。落ち着いた優しい感じのする庭園であると思う。 天授庵 方丈前庭