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12月 16, 2020の投稿を表示しています

法 華 堂

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  法華堂(三月堂)に廻る。この法華堂は天平十二年(七四〇年)頃に建てられた、東大寺最古の建物であるという。この辺りには聖武天皇と光明皇后の皇太子・基親王の菩提を弔うための金鐘寺と言うお寺があった。それがやがて大和国国分寺、さらには東大寺へと発展したのである。不空羂索観音を本尊とするため、古くは羂索堂と呼ばれていたが、毎年三月に法華会が行われたことから、後に法華堂と呼ばれるようになった。現在の御堂は鎌倉時代(一一九九年)に、重源上人によって新造されたものである。御堂に入る。中には不空羂索観音を中心にその脇侍として右に日光菩薩、左に月光菩薩が祀られ、その前には阿形・吽形の金剛力士が立っている。次いで右左に不動明明王と地蔵菩薩が並んでいる。その後ろ四隅に立っているのが、梵天・帝釈天・弁財天・吉祥天である。そして後ろの中央には秘仏・執金剛神が厨子内に安置されている。そして壇上の四隅には四天王が配置されている。この御堂に安置されている御仏十六体のうち、天平時代の作が十四体である。そして地蔵菩薩、不動明王に二体は木造でそれぞれ鎌倉時代、室町時代の作である。天平時代のもののうち、執金剛神、日光・月光菩薩、吉祥天、弁財天は塑像で残りの九体は乾漆像である。日光・月光菩薩と吉祥天、弁財天は後に運び込まれたものという。この法華堂は本尊からすれば、当初はもっと屋根の張りの高く一回り大きな御堂ではなかったかと思う。御堂自体が鎌倉時代に一回り小さくなったのに加え、当初はなかった六体の仏を運び込んでいるわけである。したがって、この御堂に収まる御仏は、極めて窮屈な思いをされているように感ずる。御堂の空間と、御仏の配置にもっと東大寺としては心を配るべきではないか。我々はこの法華堂に来ると、博物館で仏像を拝しているような感じを覚える。その故もあろうか、この御堂の御仏達に私は余り心を動かされないのである。 法華堂

戒 壇 院

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  大仏殿より、戒壇院へと赴く。鑑真大和上が前五回の失敗を乗り越えて、弟子の普照、思託とともに戒壇を築いて聖戒を日本の地に伝えるべく渡来したのは、天平勝宝六年(七五四年)のことである。そして言い伝えによれば、その時鑑真はインドのナランダ寺と塔の天台山の土を持ち来たりて、日本の土と合わせ三国の土で東大寺大仏殿の前に戒壇を築いたということである。そうして聖武上皇を始め四百四十余人に、大授戒を行ったのである。その後に大仏殿の西方に、戒壇院が築かれた。建立当初は金堂・講堂・回廊・僧坊などをそろえた大伽藍であったようである。そして戒壇の中央には金銅の六重塔を安置し、今のものとは異なる四天王を四隅に配していたという。戒壇は三段になっているが、これは大乗菩薩の三聚淨戒すなわち      一、 摂律儀戒  二、 摂善法戒  三、 摂衆生戒 を表したものという。 本堂内に入る。この身道は享保十七年(一七三二年)に再建されたもので、戒壇の中央には木造の多宝塔が安置されている。壮年の会社員の団体がネクタイ姿のままで拝観に来ている。その一団の拝観の後に、ゆっくりと四天王を拝顔する。四天王とはもともとインドの護世神であったが、仏教に取り入れられるや仏法とそれに帰依する人を守護する護法神となった。仏教的世界観では世界の中心にある須彌山に住む帝釈天の配下で、須彌山中腹の四方を守る神となった。須彌山を巡る四大州を、東南より時計回りにそれぞれ持国天、増長天、広目天、多聞天が守護するという。四天王信仰は飛鳥時代からあり、物部氏を撃った聖徳太子は勝利の後四天王寺を建てている。像容は本来決まった形がなく、インドでは貴人の姿に作られたが、日本では忿怒武装形となった。持ち物は多少異なるが、多聞天・広目天の他は原則として刀や戟を持っている。なお多聞天は毘沙門天とも呼ばれ独尊としても信仰され、後には福徳高貴の神として七福神の一つにもなった。そしてこの四天王はすべて天邪鬼を足下に踏みつけている。 まず持国天から見る。この持国天は兜をかむり、目をかっと開いて口をへの字に結んでいる。次いで多聞天を見る。この多聞天は左手を降ろして巻経を持ち、右手を上にあげて宝塔を捧げ持っている。眼は半眼で口はぐっと引き締められている。      「四天王の中でただ一人、怒りのデルタを持たないのが多聞天であ  

東 大 寺 大 仏 殿 付 近

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  亀井勝一郎の「大和古寺風物誌」によれば、こうして焼失する前の東大寺の伽藍は下記のようであったという。     「天平時代に造られた当時の大仏殿は、もちろん今の大仏殿の比では    なかった。奥行きは変わらないが間口は遥かに大きく、殆ど二倍く    らいの感じであった。堂々とした長い反りを持った重層の大屋根。    それを支える正面十何本の太い円柱、この雄大な金堂を囲む回廊も    今のような単廊ではない、壮麗な複廊である。この前面の広場、即    ち正面に当たる南大門との間には、左右にそれぞれ東西の七重塔が    高々と青空に聳えていた。三百三十余尺というその高さは実に法隆    寺の五重塔の三倍、興福寺五重塔の二倍に当たる。大仏殿の背後に    は、これにふさわしい大講堂や食堂が建っていた。さらにこれを囲    んで鐘楼、戒壇院、大門その他の堂宇が幾十となく、三笠山の麓、    方八町、二十四万坪の境内に新しい甍を陽に輝かしていた。のみな    らず、一切の建物が美しい朱や緑に塗られ、透かし彫りの金具や軒    の風鐸などがきらびやかに相映えた」    大仏殿の前に立って、南大門の方を見る。左手に池があるが、南大門までの広い空間には他の構築物は何もない。しかし上記のように、この左右の空間には興福寺の五重塔の二倍の高さを誇る壮大な七重塔が、天に聳えていたのである。こんどは振り返って門を通して大仏殿を見る。この大仏殿もその間口が今の二倍あり、堂内には薬師寺の薬師如来のように荘厳で慈愛に満ちたお顔の廬舎那仏が、その左右に三丈の高さの如意輪観音菩薩と虚空蔵菩薩の座像をを脇侍として、崇高壮麗なお姿を見せていたのである。そしてその四方にはまた身の丈四丈の金色の四天王が、彩色鮮やかな甲に身を固めて四隅を護持していたという。今より千二百年前の、我が国が中国文化と仏教をまさに必死の思いで摂取していたその揺籃期に、かくも空前にして絶後の大伽藍と限りなく壮麗な廬舎那仏を創り上げていたということに、我々は驚きとも言うべき感銘を覚えないではいられない。 大仏殿

東 大 寺 大 仏 殿 付 近

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法華堂から下って、鐘楼の辺りの茶店でにゅうめんを頂く。それから大仏殿前まで下る。年表を繰って調べてみると、聖武天皇と光明皇后は天平十三年に国分寺、国分尼寺建立の詔を発している。そして聖武天皇はその二年後に、紫香楽宮(しがらききゅう)において廬舎那仏大像の創建を発願している。 その翌年聖武天皇は難波宮に都を遷都している。そして天平十七年(七四五年)大仏創建にあたる僧行基を、大僧正としている。また同じく同年に都を平城京に戻している。この短期間の度重なる遷都は、聖武天皇と光明皇后の仲違いによるものとの説も、何かの本で読んだ記憶がある。聖武天皇・光明皇后の夫婦は、どちらかと言うと光明皇后のほうが強かったのではないかと思われる。ために聖武天皇は一時期ノイローゼ気味であったのであろう。天平勝宝四年に大仏開眼供養が、一万人の僧を集めて盛大に催される。それから源平の争いの時まで、この東大寺は創建当時のままの壮大な伽藍を擁して、繁栄を続けたのであろう。しかし平安末期に平清盛の専横に反抗して、源三位頼政を始め、伊豆の源頼朝、木曽の源義仲などの源氏の一党が、以仁王の令旨を奉じて一斉に挙兵する。そしてこの時期になると東大寺は興福寺の奈良法師などの僧兵を抱える政治勢力でもあった。そしてこれら奈良法師は、清盛の専横に対抗して公然の狼藉を為していたという。これに対して清盛は平頭中将重衡を大将軍として、四万余騎で南都を攻撃する。南都側はこれを迎えて、奈良坂と般若寺の二ヶ所に陣取って抗戦したが、これらもあえなく陥落されてしまった。そして般若寺の門に立った重衡は「火を出せ」と号令し、この火が奈良坂を下って南都の町に襲いかかり、壮麗さを誇った東大寺の諸伽藍は金銅十六丈の廬舎那仏とともに焼け落ちてしまったのである。 東大寺 大仏殿  

二 月 堂

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  吉村貞司は記している。       「光明皇后の男勝りの力量は、不吉な野望に向かった。藤原一族      の繁栄という野望である」     「則天武后は敗退したために、罪状のすべてを暴かれねばならな      かった。しかし、光明皇后は成功した。彼女によって、藤原氏      の繁栄は明治維新の直前まで続く。ために彼女は帰って褒め称      えられて、皇后の中でも第一位の女性と仰がれた」   光明皇后には千人沐浴における、最後の一人の癩病者への異様なまでの献身の逸話がある。美貌の皇后がその美しい唇を癩者の肌に触れ、膿を吸いつつ全身に及んだところ、その癩者は阿シュク如来になったという。また北天竺の乾陀羅国の見生王派遣の問答師による、光明皇后をモデルとした十一面観音像三体の話もある。この問答師の申し出を皇后は最初断ったが、母公橘夫人のために興福寺の西金堂に安置する仏像を造ることを条件に、自らを写すことを許したという。そうして光明皇后はから風呂の中で薄絹を身に纏っただけの肌も露な自らの姿を、問答師に写させたという。こうした逸話から読みとることの出来るのは、光明皇后が篤い信仰心と共に、女としての魅力に富んだ奔放な性格の持ち主だったのではないかということである。          ふじはらの おおききさきを うつしみに               あひみるごとく あかきくちびる        ししむらは ほねもあらはに とろろぎて               ながるるうみを すいにけらしも        からふろの ゆげたちまよふ ゆかのうへに               うみにあきたる あかきくちびる        からふろの ゆげのおぼろに ししむらを               ひとにすはせし ほとけあやしも                         会津 八一  「鹿鳴集」    藤原家の氏社は春日神社であり、また氏寺は興福寺である。そして藤原家の祖先は中臣鎌足であるが、実際の藤原氏の繁栄を築き上げた藤原不比等の母・賀茂姫は京都の上賀茂・下賀茂神社に祀られる賀茂氏であったのだろう。それ故に葵祭は京都の最大の祭となり、上賀茂神社の斎院は伊勢神宮の斎宮と同じく高い位置づけとなったに違いない。天

二 月 堂

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  吉村貞司の「愛と苦悩の古仏」によれば、光明皇后は「雄大なる分裂」であると述べられている。仏教への篤く深い信仰心と、その裏腹の女としての血の熱きたぎりによる煩悩。聖武天皇と共に目指した総国分寺・総国分尼寺建立による地上天国の樹立、とその裏側における天皇家をないがしろにしての藤原家の支配。聖武天皇と光明皇后は実は甥と叔母の関係にある。鎌足の子、藤原不比等はその妻賀茂姫との間に、宮子を生む。この宮子は天武天皇と持統天皇の皇子・文武天皇に入内して、聖武天皇を生んだ。文武の没後、皇太后となった宮子は僧・玄肪との密通の噂が喧伝された方であった。したがって藤原不比等にとって、聖武天皇は孫に当たる。一方光明皇后の生まれは次の通りである。持統・元明両女帝の後を受け継いだ文武帝の乳母として、三野王の夫人であった県犬養連(あがたいぬかいのむらじ)三千代が、宮廷に入る。そして三千代は両女帝の信任を得て、その発言権も絶大であったという。文武帝の妃選びにも、三千代の発言力が発揮されたようである。そうして文武帝の妃として藤原不比等の娘・宮子を選んだ後に、橘三千代は晩年の不比等と再婚している。そうして生まれたのが藤原光明子である。この光明子と聖武天皇が結ばれたわけで、聖武天皇その人は藤原不比等の一族の一員として、藤原家の中から天皇の地位に着いたと言っても良い。こうしてみると、光明皇后はまさに藤原家を代弁する存在であり、また天平時代の宮廷にあって、稀代の女流辣腕家であった橘三千代の血を引く権力志向の強い女性であったのであろう。吉村貞司は光明皇后は則天武后を慕ったという。それは次ぎに記述することがらからもよく判る。光明子は聖武天皇に入内後、基(もとい)皇子を生む。まずこの基皇子をすぐに皇太子としている。しかしこの基皇子は一歳で亡くなる。そうすると天皇家の重鎮であり、藤原家に対抗する長屋王を廃する動きを行う。長屋王は天武天皇の皇子であった壬申の乱でも功のあった高市(たけち)皇子の子であった。この長屋王を天皇家呪縛の罪に陥れ、自殺させてしまう。その半年後に、光明子は天皇家以外からの初めての皇后に即位する。そうしてまた中国では則天武后のみが行ったという一年間に二度の改元を実施している。天平二十一年四月に聖武天皇が上皇となり、光明子との皇女の孝謙天皇が即位して天平感宝元年とし、その七月にまた改元して天平勝

二 月 堂

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  奈良坂を下って一条通りに出て、そこを東行すると突き当たりが東大寺の転害門である。転害門を左手に曲がってまた右折し、東大寺境内の外周を走って、車はそのまま若草山の麓を二月堂前まで登って行く。この二月堂は東大寺諸堂の中では最も高い場所にある懸崖造りの建物で、お水取りの行事で有名である。この二月堂は良弁(ろうべん)の高弟であった実忠が大仏開眼の年(七五二年)に創建したものである。本尊は摂津難波津から秘仏十一面観音を勧請している。実忠は十一面観音に帰依するところ深く、十一面悔過(けか)法を作ってこれを修した。この十一面悔過の行事の一部が、お水取りである。この実忠はまた、京都南部の田辺にある普賢寺の初代和尚でもあった。普賢寺は実忠の師・良弁が勅命を受けて創建したお寺で、正式名称は普賢教法寺と言い、元来は普賢菩薩が本尊であったはずであるが、今残っているのは実忠の拝した天平仏の十一面観音だけである。 またこの実忠に関しては「元享釈書」という書物に、彼と美貌の皇后との次のような秘事が記されている。光明皇后は東大寺の講堂を参拝したときに、地蔵菩薩の美しさに心を奪われた。そうして皇后は、地蔵菩薩さながらの美男子を与え給えと祈ったと言う。そうして女官に命じて美貌の僧を探せしめたところ、女官が復命したのは実忠の名であった。皇后は実忠を召した。そしてその美貌に眩んで、実忠の裸を見たいと望んだ。そこで実忠に沐浴を勧め、皇后は彼の裸を盗み見た。美僧の裸身は、この世のものとも思えぬ程麗しかった。そうして皇后はうたた寝の夢の中で、美僧を犯してしまう。夢から覚めると、実忠は皇后の枕元に坐り、十一面観音を頂き捧げてこれを礼拝していた。その厳粛さに、皇后も我に返って実忠の前に合掌して懺悔したという。 二月堂

般 若 寺

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  不退寺よりむかし広島の友人達と訪れた興福院に行こうと思ったが、今は事前予約が必要になっているとのことで、断念して般若寺に向かう。般若寺は奈良坂の中腹にあるお寺である。奈良坂とは奈良山を越える坂のことであるが、平城京の北辺を支えるなだらかな山並みを奈良山という。奈良という地名は奈良山から来ており、平城京以前からあった名前で、平らかな山(ナラされた山)がその語源のようである。また他の説として「日本書紀」に崇神天皇の時に、武埴安彦を攻めた政府軍が踏みならしたことから「なら」と呼ばれるようになったとも言う。この奈良山は佐保山と佐紀丘陵の二つから成っている。般若寺を東の端とし、法華寺の北方あたりまでの山を佐保山といい、法華寺の北から秋篠寺のほうの丘陵を佐紀丘陵と呼ぶそうである。また佐保路とは東大寺の転害門から法華寺まで東西にまっすぐ延びる一条通りのことであり、そこから秋篠寺までの道は佐紀路と呼ばれている。そして佐保の地にはここを本願とする部族がおり、その長を佐保比古と言った。垂仁天皇にその妹佐保比売が皇后として入っていたが、佐保比古は乱を起こして攻め殺されたという。またこの佐保川の畔には万葉歌人の住まいも多く、彼らは色々な佐保川の春を詠っている。そしてこの佐保川は、彼らの恋の通い路でもあった。しかし一方で佐保山は佐保川のロマンスとは打って変わって哀しみの山でもあった。元明天皇の陵は奈良坂を登った上にあり、聖武天皇陵と仁正皇后(光明皇后)の陵は奈良坂をおりた山裾にある。花と咲いた天平文化の中心人物でもあった聖武天皇・光明皇后の陵がこうして二つ並んで佐保山から昔の平城京の後を眺めていると思うと、一入の感慨がある。またこの佐保山は、藤原不比等の火葬の地でもあり、大伴家持の妻の墳墓の地でもある。京都における鳥辺野と同じく、佐保山もまた墳墓の土地であったのである。        昔こそ 外(よそ)にも見しが 吾妹子が            奥津城と思(も)へば 愛(は)しき佐保山                        大伴家持 ---- 万葉集          奈良坂の途中には鎌倉時代に造られた「北山十八間戸」という昔の病院がある。僧忍性が当時のハンセン氏病の患者を無料で収容して治療したところで、細長い白壁の建物である。般若寺に着く。当寺は飛鳥時代に舒明