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12月, 2020の投稿を表示しています

六 義 園

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  六義園に着いたのは四時頃であったが、幸いにもまだ開門してあった。そこで門を入ってすぐの処にある枝垂れ桜を見に行く。 ここの枝垂れ桜はまさに今が満開であり、薄桃色の花々が夕方の陽を透かして、幽艶に咲き誇っている。閉門間近なのでさすがに人影も少なく、ゆっくりと見事な枝垂れの大木を鑑賞できた。ただ一本だけの枝垂れ桜というのが、又なんともいえず風情を感じさせる。 以上で『日本美との邂逅』の写真と文章の掲載は終了致します。コロナ禍の厳しい現状の中で、長時間を費やしてお読み頂いて有難うございました。 彼は誰ときの六義園の枝垂れ桜

王 子(飛鳥川親水公園)

  上野から京浜東北線で王子に出る。駅のすぐ西側にある音無川親水公園に行く。この王子は、もともと若一王子宮という熊野神社の一支社を当地に勘定したところから名前が出ており、紀州の熊野との縁が深い。熊野にも音無川や飛鳥山があり、そこから名前がとられたという。飛鳥山は将軍家光の折に、桜の名所として有名となったが、その後吉宗が紀州家より将軍を襲名してからは、王子神社はますます将軍家の信仰厚くなり、武士階級は上野で花見をし、庶民の花見はこの飛鳥山になったという。音無川親水公園のたもとには、卵焼きで有名な扇屋という料亭があり、王子支店在籍中は何度か利用したことがある。親水公園の桜は、残念ながら未だ三分咲き程度であり、時季的にやや早すぎた。そこで今度は王子駅より駒込にある六義園に行く。

姫 路 城

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  大手門より入城する。三の丸公園の向こうに大天守閣の偉容が現れる。左手には千姫牡丹園がある。千姫は二代将軍秀忠の長女として生まれ、美しく聡明で愛らしい花のようなプリンセスであった。七歳で豊臣秀頼に嫁いだが、大阪夏の陣で炎上する大阪城を脱出、江戸への帰路桑名城主本多忠政の子忠刻と出会い恋に落ちて程なく結ばれた。千姫十九歳の時のことである。そして本多家の姫路移封に伴い千姫も忠刻と共に姫路に移った。その千姫のために築かれたのが、西の丸の長局である。菱の門より入り、西の丸の長局の外観を見て、はの門、二の門を通り、乾小天守を見ながらほの門を潜る。大天守の裏を通って備前丸に出て、大天守の内部に入る。内部は七層となっており、松本城と比べると一回り以上大きな造りであり、上りの階段と下りの階段が別々となっている。最上層まで登る。お昼にビールを飲んだ為、階段を上るのに大変な汗をかく。最上層は見晴らしが良くて、そして涼風が室内を通り過ぎて行く。大天守閣より下りて、播州皿屋敷で有名なお菊の井戸の前を通って、内堀より天守閣を望む。ここからは天守閣がまさにその名の通り、白鷺のような麗姿を見せる。この姫路城の天守閣の姿の美しさは大天守そのものの姿もさることながら、それに西小天守、そしてさらに乾小天守がまるで大天守に付き添うかの如く並び立っている、そのバランスの優美さにある。そしてまたその城郭を取り囲む白い土塀と、様々な櫓や門等の建物が、その城塞としての機能美をいっそう引き立てるのである。  姫路からの帰りは新快速を使う。垂水あたりから塩屋にかけての、海沿いの眺めが綺麗である。 姫路城の城門

姫 路 城

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    好古園を出て姫路城の大手門へ廻る。姫路城は世界文化遺産として指定されている。我が国は一九九二年に世界遺産条約を批准、その後日本で初めて世界文化遺産として指定されたのが、この姫路城と法隆寺である。 姫路城の歴史は次の通りである。千三百年の前半に播磨の守護職赤松則村がこの地に砦を気付いたことが、姫路城の歴史の始まりである。その後小寺氏、黒田氏がこの城を根拠地としたが、黒田官兵衛孝高の時、彼の勧めで羽柴秀吉が天正八年(一五八〇年)西国攻略の根拠地として入城、翌年三層の天守閣を完成させた。その後は羽柴秀長、木下家定と続いたが、関ヶ原の役の後徳川家康の女婿池田輝政(五二万石)が入封し、慶長六年より八年の歳月を費やして、大規模な城域を造り上げ、姫山に五層七階の天守閣を築き上げた。池田氏三代の後本多忠政(十五万石)が入封し、長男忠刻とその正室千姫(徳川秀忠の長女)のために西の丸を完成させ(一六一八)、今日に見られるような姫路城の全容が造り上げられたのである。 白鷺城

好 古 園

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  百日紅と櫓をポイントとして写真を撮してみる。この庭の奥は竹の庭となっている。日本の竹のうちの、代表的な十五種類を植えているそうである。枯山水こそなかったが樹木を使って、日本の庭の様々な形態を武家屋敷風に築地塀で区分けして造り上げており、まだ庭が新しいため風情の十分でない部分もあるが、全体としてはなかなか見事な庭園となっていると感じた。  江戸時代最後の姫路城藩主酒井氏は、前任地前橋で藩校「好古堂」を創立しており、当地への移封に伴ってその藩校を、この庭園の入り口付近に移設したという縁より、この庭園は「好古園」と名付けられた由である。お屋敷の庭の所には、その昔江戸新吉原より高尾太夫が落籍されて棲んでいたとも言われている。 好古園

好 古 園

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  バスに乗って市内に戻り、姫路城大手門前で降りる。そして以前テレビで見たことのある好古園に入る。この地は昔姫路城の西御屋敷跡であり、姫路市生百周年を記念して、平成四年に開園した庭園である。西御屋敷跡と武家屋敷跡を地割り、通路など昔のままにして九つの庭園郡を造り上げており、設計監修は京都大学の中村一(まこと)教授によるものである。 屋敷門を潜ってまずお屋敷の庭にはいる。桧造りの活水軒に入る。中はホールと食堂、喫茶室が設けられている。渡り廊下を経て、潮音斎に入る。この建物は堂々とした造りの大きな池に面しており、正面には雄滝があり、その右手には姫路城の櫓が遠望でき、見事な眺めである。室内は良く冷房が利いており、この庭を訪れる人のための配慮が感じられる。次に苗の庭を経て、流れの平庭に入る。この庭は貴族の屋敷に造られていた曲水をテーマとした庭である。その曲水を、塀の向こうに遡ると、落葉樹ばかりを配した夏木の庭、そして松の庭へと続く。松の庭の奥には、花の庭があり百日紅の花が白色と紅色に咲き乱れていた。その次には茶の庭を見る。庭園は芝生に樹木を配しているだけの簡素な庭である。裏千家家元の設計、監修による双樹庵という立派な茶室があったが、時間が十分にないため中には入らなかった。この建物は姫路城の天守閣のほうを向いているとのことである。それから築山池泉の庭に入る。この庭は池に面して左手に臨泉亭が造られており、借景として姫路城の櫓が眺望できる、なかなかに風情のある庭であった。 好古園

書 写 山 圓 教 寺

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  この摩尼殿は崖地に建造された謂れを持つ。書写山に入った上人は四年目に天人が舞い降りてきて、崖地の桜木を拝む姿を見た。それで上人はこの桜木はそんなにありがたいのかと思い、その桜木を切って生木のままに一心に如意輪観音像を刻んだ。こうしてこの如意輪観音が当山の本尊となった。そしてその本尊を安置する場所はこの崖地以外にはなかったのである。現在の建物は昭和八年のものとのことであるが、それよりは古い時代のもののように感じられる。堂々とした建造物であり、殿上に登れば舞台よりの眺めも良い。  摩尼殿でお守りを買って堂を辞し、裏道を通って大講堂、食堂、常行堂の三つのお堂がこの字型に並んでいるところに出る。共に室町時代の建造物であり、特に食堂の蔀戸がおもしろい。食堂の上にある宝物館を見る。 食堂の裏手には、弁慶の鏡井戸というのがある。言い伝えでは当山で弁慶が修行をしたこととなっており、そのときにいたずら描きをされた顔を映したと言われるのが、この井戸である。その池の前を通って奥の院に行く。開山堂には左甚五郎作と言われる力士の像が軒下にあった。茶店でそうめんを食べ、ビールを一本空ける。  書写山をおりて、麓にある美術工芸館を見る。特長のある瓦屋根の建物で、中には東大寺長老の清水公照師の人形、壺、絵画と郷土の伝統工芸品が陳列されていた。 書写山 境内

書 写 山 圓 教 寺

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観音菩薩は人間の悩みが様々なために、三十三の身に姿を変えて救済に当たる、最もなじみ深い菩薩である。西国霊場もその数にちなんで三十三ヶ所ある。花山天皇が書写山に来て性空上人に教えを聞き、その帰り道に那智まで観音を祀る由緒の寺を巡ったのが、西国巡礼の始まりになったという。圓教寺の名は花山天皇の命名であるが、それには輪圓具足の教えの寺という意味がある。輪圓とは丸い圓のことで徳を意味し、具足は方所がないと言う意味である。そこより徳において欠けたるところのない、最も成就した状態を意味し、圓教寺はそこより自己完成の道を教える寺と言うことになる。この西国二十七番札所の御詠歌は次の通りである。        はるばると 登れば書写の 山おろし               松の響きも み法(のり)なるらん   平安中期には紫式部、清少納言、和泉式部と我が国を代表する女流文学が、ほぼ同時期に花開いた類稀な時代である。その中で最も恋愛経験が豊富で、多情な閨秀歌人として奔放な歌を詠んだ和泉式部が、この書写山と縁があるのもおもしろい。 和泉式部は父大江雅到の下僚の橘道貞と二十歳前後で結婚、和泉の守であった夫の任地に赴任するのを好まず京に留まり、その間に冷泉天皇の第三皇子為尊親王の愛を受け入れて、道貞と離婚、父からも勘当される。その親王も若くして他界し、次はその弟の敦道親王からの求愛を受けて共に暮らす。ところがその夫もまた若くして亡くなってしまう。その後和泉式部は藤原道長に請われて、一条天皇の中宮彰子の女房として宮廷に入る。和泉式部は中宮彰子のお供で書写山に登ってくるが、性空上人はこれに会おうとしない。和泉式部は上人に会えない無念さを、        暗きより 暗き道にぞ 入りぬべき               遥かに照らせ 山の端の月   と詠んだ。上人はこの歌に感動し、次の歌を詠んで一行を呼び返したという。        日は入りて 月まだい出ぬ たそがれに               掲げて照らす 法のともしび    和泉式部の歌にこめられた愛憎の葛藤と、無常観からの救済を待つ気持ちの切実さが、性空上人の胸を打ち、この後上人は一行のそれぞれに教えを教示したという。  まず西国巡礼の道を行く。当山のご本尊の分身を初めに、三

書 写 山 圓 教 寺

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  今日は前々から訪れたいと思っていた姫路に行くこととする。阪急で三宮に出て地下鉄で新神戸に着く。新神戸から新幹線に乗って姫路に向かう。今日はお盆休みの最中なので、まだ乗客は多く三十分あまりは立ちずめである。姫路の駅におりて観光案内を見る。バスで四十分あまりの所に、書写山圓教寺がある。バスに乗り姫路城の大手門前を通って、書写山ロープウェイ駅に着く。ロープウェイで標高三百七十メートルの書写山へと登る。やや薄曇りの日であるため、眺めは今一つである。 当寺は康保三年(九六六年)に性空正人によって開かれている。性空上人は敏達天皇の子孫、橘善根の次男として生まれ、三十六才にして出家し最初は比叡山にて修行をした。その後九州の霧島山、背振山で修行を重ねたが、五十七才の時また新しい修行地を求めて九州を後にした。修行の成果を京都で発揮しようとしていたにかもしれないが、播磨の国まで来たところで、それまで背振山を後にしたときからずっと性空上人につきまとっていた瑞雲が、上人を導くかのように書写山のほうへと流れていった。その山に入っていった上人は、道中奇異な僧侶に出会った。その僧は、この山は書写山と言いここを訪れるものは六根を清めることが出来ると言った。僧は文殊菩薩の化身だったのである。こうして性空上人は当山を開いたのである。当山に最もゆかりのある人物は、花山天皇である。花山天皇は十六才で即位されたが、寵姫を無くした後謀られて十八才で退位、悌髪された。そして性空上人に帰依し、西国三十三観音霊場巡礼の端緒を開かれたのである。 書写山 観音菩薩

恵 林 寺

この寺は乾徳山恵林寺と言い、千三百三十年、鎌倉末期に夢窓国師を開山として創建された。二年後には鎌倉幕府討伐の先鋒となった細川顕氏が当寺に参禅し、顕氏の紹介で足利尊氏も当寺に夢窓国師を訪ねている。この縁がもとで後に尊氏が、後醍醐帝の追福のために国師を招請して嵯峨野に天龍寺を開基したのである。戦国時代になると武田信玄が、永禄七年(一五六四年)美濃・崇福寺より当代随一の傑僧と唱われた快川紹喜(カイセンジョウキ)を招請した。そして当寺は甲斐・武田家の菩提寺となったのである。天正元年(一五七三年)信玄が信州駒場の陣中で五十三才で病没した際、遺言によって三年間は喪が秘されたが、三年後快川国師を大導師として葬儀が行われ当寺に葬られた。天正十年(一五八二年)四月織田軍の兵火により、当寺は焼き討ちを受けた。このとき快川国師は百余人の僧侶と共に、紅蓮の炎に包まれた三門楼上にて、「安禅不必須山水、滅却心頭火自涼(安禅必ずしも山水をもちいず、心頭を滅却すれば火もまたすずし)」と唱え、泰然自若として火定されたという。同年六月に本能寺の変があり、七月に甲斐国に入った徳川家康は、快川国師の高弟が野州(栃木県)那須に潜んでいるのを知り、その高弟に当寺を再興させた。その後徳川幕府は当寺を外護し、甲斐十五万石の領主となった柳澤吉保の墓もこの寺に祀られている。 車を黒門前に止め参道を行くと、赤門に出る。赤門をくぐると左右に池があり、その先がかの三門である。門の両側に快川国師の有名な言葉が懸けられている。正面が開山堂であり、右手の庫裡より大本堂に入る。信玄公及び柳澤吉安公の墓へは、石畳を通って参る。それから大本堂の裏手に廻って、有名な夢窓国師作庭の「心池庭」を見る。庭は大本堂正面に心字の池があり、刈り込みと石の配置が見事である。そしてもう一つこの庭の構図を際だたせているのは、背景の樹木がまるで半円形のカーテンのように、山畔式の庭園を取り囲んでいることである。樹木の名は判らないが、特に右手の葉が鬱蒼と茂った大木が、この庭の一つのポイントとなっているように思った。大本堂から庫裡に懸かっている渡廊の所からは、清流の流れの見える庭もあり、この庭にさらに変化を与えている。境内内にある一休庵にてやや遅めの昼食を食べる。  

松 本 城

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この城は関ヶ原の戦いの前、千五百九十三年から四年にかけてその天守閣が造られた、と推定されている。その為天守の居住性よりも、武備を強化して造られている。天守は五重六階の大天守を中心に乾小天守を渡櫓で連結し、辰巳附櫓と月見櫓を連結した「連結複合式」と呼ばれる珍しい型式の天守閣である。各層の外壁は上部は白漆喰の塗りごめで、下部は黒の板張りで、最上階には展望用の廻り縁は無く、数多くの銃眼や石落としを備えているとのことだ。国宝四城の内の一つで、その黒い色調から烏城と呼ばれている。お堀の側から見る。これは戦時に備えた機能美であると思った。しかし規模は想像していたものよりやや小さいと感じた。天守閣に入り最上層まで登る。階段が急で狭く登りずらい。最上層は割と小さく、吹き抜ける風が涼しい。見晴らしも良く、天気が良ければ上高地の穂高連峰も望めるはずである。 松本城

上 高 地

    軽井沢より小諸に向かう道を進む。王子支店の頃に二度来た大浅間ゴルフクラブの近くを通る。浅間山が見事に見える場所があったが、車が数珠繋ぎのため残念ながら写真は撮れない。小諸の手前で左に折れて、三才山トンネルを抜けて松本に出る。松本で給油をして上高地に向かう。野麦街道を遡り安曇村のダムをすぎて、沢渡(さわんど)まで車で登る。これから先は道も狭くトンネルも多いので、夏の期間は自家用車はここまでとなっているようである。もう昼の一時を過ぎていた。そこよりバスで上高地に向かう。三十分くらいで上高地の観光センターに着く。 歩いて梓川に川辺に出る。もうそこからは上高地の山々が見える。梓川の水も澄みきっており実に清冽である。川岸を歩いて河童橋に出る。やはり河童橋からの眺めは絶品である。安曇村はスイスのグリンデルワルトと姉妹村となっているようであるが、ここからの眺めが素晴らしいのは、途中に小さな山々が無く穂高の峰々が直接に切り立っている姿が見えるからだろう。正面の峰が奥穂高で三千百九十メートル、我が国で三番目に高い山である。その左手が西穂高、その右手に前穂高と明神岳が並び、穂高連峰を作り上げている。左の西穂高と、右の前穂高、明神岳がこの河童橋から見ると手前にあり、その両側の峰峰の裾野が逆三角形を作り上げており、奥穂高からは中央に沢が続いている。この自然が作り上げた絶妙な構図が、上高地からの景観を日本有数の山岳風景に仕上げていると思われる。 河童橋で何枚か写真を撮り、橋を渡ってさらにまた穂高連峰を見る。その後五千尺ロッジで昼食を摂る。時間も余りないため、またバスターミナルに戻り沢渡に戻る。途中の大正池からの眺めも絶景であるが、時間の都合上下車は出来ない。仕方がないのでバスの中から窓を開けて、何枚か五百分の一のスピードで写真を撮る。後から焼き回しをしてみると、上手く撮れていた。この上高地には、穂高連峰が白い雪を被ったころに又来てみたいと思う。

天 神 祭

  天神祭りの船渡御への乗船席を頂く。タクシーで乗船場所の飛翔橋に向かう。大川(旧淀川)沿いはすでに大変な人出である。飛翔橋に着いて大阪21世紀計画テーマ船の乗り場にゆく。すでに八割方の乗船客は来ており、艀のような船に乗り込んでいる。空いている席に座る。  暫くしてお弁当と飲み物が配られる。ビールを飲みながらお弁当を食べ終わる。しかしまだ船は出発しない。船は大きな艀のようになっていて、よく見ると我々の船は前の船とつながっている。前の船には野球選手の格好をした気球のようなものが着いており、その背番号の所にはサントリーと表示がある。夕方の暑い日差しを受けながら、お弁当を食べる。  六時近くとなってやっと船が動き始める。船の先端には女性の司会者がハッピにねじり鉢巻きで、いろいろと説明を始める。船渡御の説明とともに、大阪〆のやり方を全員に指導してくれる。(打ーちましょ「チョンチョン」もひとつせー「チョンチョン」祝うて三度「チョチョンガチョン」。)百隻の船がこの大川を上下するそうであるが、他の船と出会う度に、この大阪じめをやる事になるそうである。   まず飛翔橋をくぐる。橋の上にいる人たちに大阪締めを送る。それから川岸の人たち、下流より遡ってくる船に同様に大阪締めを送る。見物客の乗っている船の合間に、神楽船、人形船、能船、篝火船、等と出会い、ドンドコ船と言う景気の良い船が走りまわる。そして御神霊を乗せた奉安船ともすれ違う。この船にだけは大阪じめは送らない。大川を下るにつれ、日が沈み夕闇が川面をおおってくる。近くに座っていた浴衣姿の家族ずれとお互いに記念写真を取り合う。  花火は八時頃にたくさん打ち上げていたが、やや上流で打ち上げていたため、下流にいる我々の船では余りよく見ることは出来なかった。しかし二十一世紀協会の為に、造幣局あたりで特別の花火があげられた。  この船に乗っての天神祭り見物は、地元大阪の人出もなかなか経験できないとのことであり、大阪での夏の風物詩の良い思い出が出来た。

粉 河 寺

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  そこより紀ノ川沿いに遡って粉河寺に向かう。田園風景の中を、上下に緩やかに畝っている道を車で走る。粉河は思ったより大きな町である。粉河寺に着く。さすが西国第三番らしく、参道も立派である。茶店で麺類を注文しお昼を摂る。当山は七七〇年に大伴孔子古(くじこ)によって開基され、風猛山粉河寺と称せられている。当山もまた秀吉の兵乱に遭い、焼失したが、その後紀州徳川家の寄進によって現在の諸堂が完成された。ご本尊は千手観音であり、厄除け開運の御利益があるとのことである。       ちちははの 恵みも深き 粉河寺 仏のちかい たのもしの身や 本堂の前には、国指定の名勝庭園があり、桃山時代の作と言われる。本堂前庭とその下の広場の段差を利用した珍しい作庭であり、石組みを土留めとしその上に樹木を配置した豪快な造りである。左手に小川を見ながら参道を茶店のほうへと戻る。茶店で借りた傘を返して粉河寺を後にする。 今日は朝一番は大変な大雨であり、お寺巡りにはどうかと思ったが、うまい具合に参拝中はあまり雨に降られなかったのは幸いであった。帰りも泉佐野まで送って貰う。 粉河寺

根 来 寺

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  その言葉に従って植物公園緑化センターに行く。こちらの受付で聞くと、今年は蓮の花の咲き具合が良くないとのことである。花壇の下方にある大きな蓮の池に降りていく。蓮の葉は高く伸びて、池全面を覆い尽くしているが、花は殆ど咲いておらず、もう咲き終わって実となっているか、もしくは未だ蕾のままである。残念と思いながらそれでもなお池の回りを巡ってみる。すると一輪見事に咲き誇っている花を見つけた。それを何枚かのフィルムに納める。 蓮の花

根 来 寺

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  次に根来寺に行く。和歌山市を経由して、紀ノ川を渡り根来寺に着く。まず根来一山の総門である大門を見る。左右に仁王を持つ十七米弱の立派な山門である。そこより車で随分と走って駐車場に着く。  根来寺は興教大師が一一四〇年に高野山よりこの地に移り開かれたお寺で、真言教学の殿堂を造るという遠大な理想のもと造営された寺である。根来寺と呼ばれるようになったのは一二八八年に頼愉僧正が新義教学の根本道場としてからである。堂塔二千七百、寺領七二万石の真言宗三大学山の一つとして栄えたと言われる。しかしその勢力を恐れた秀吉が一五八五年に根来攻めを行い、その結果大伝法院と二三の寺院を残すのみで、他はすべて焼失してしまった。その後徳川氏の外護を受けて復興が行われたという。最初に国宝大塔を見る。この塔は一四九六年に建立された我が国最大の木造多宝塔で、内陣は円形となっており、なかなか立派な建造物である。ついで本坊を訪れる。本坊庭園は中庭には蘇鉄の木も植えられており、その向こうは白砂の敷かれた山畔池泉鑑賞式庭園である。石橋が中之島に懸かり、山畔には刈り込みが植えられている。落ち着いた優しい感じの庭である。光明真言殿、行者堂、聖天堂も見る。聖天堂は浄土池に浮かぶ御堂でなかなかの風情である。本坊より出たところにもう一つの池があり、そこには蓮の花が咲いていた。昼近くなので花びらは大きく開いており、カメラに撮るもやや美しさに欠ける。近くで掃除中のおばさんによれば、植物公園にはもっとたくさん咲いているかもしれないとのことである。 根来寺 庭園

紀 三 井 寺

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  和歌山の市内に入りお城の側を通って紀三井寺に着く。当寺は名草山の中腹に造られた山寺であり、国宝の山門より二三一段の急な石段が続いている。途中で休み休み上まで登る。 当寺は奈良時代に(七七〇年)唐僧為光上人により開基された霊刹であり、十一面観世音菩薩を本尊とする救世観音宗の総本山であり、紀三井山護国院とも言う。西国第二番札所でもある。紀三井寺の名前の由緒は、紀州にある三つの井戸のある寺から来ているという。本堂にお参りし、それから宝物殿を見る。そこには西国三十三ヶ所の御影のミニチュア版があった。それ以外の物はあまり興味を引く物はなかった。 境内の見晴らしの良いところから、和歌の浦を眺める。なかなかの景観である。春は早咲きの桜の名所であるそうだが、その折はさぞかし美しい眺めとなろう。当寺の御詠歌は次の通りである。   ふるさとを はるばるここに きみいてら          はなのみやこも ちかくなるらむ   花山天皇  花山天皇は出家落飾されて上皇となられ、その昔徳道上人により開かれた西国三十三ヶ所の霊場を巡拝になり、一霊場一首の短歌を奉納になった。この御詠歌もその内の一つである。また当寺のエピソードとしては、紀ノ国屋文左衛門が母親を背負ってこの坂を登っていた折に、鼻緒が切れて困っていたところ、玉津島神社の宮司の娘が通りかかり、鼻緒をすげ替えたのが縁となり、二人は結ばれ、宮司の出資金で蜜柑船を出し大儲けをしたと言う言い伝えがあり、その為この坂は結縁坂と呼ばれている。 和歌の浦

淡 島 神 社(和歌山)

  関西国際空港出張所の面々と納涼会を開くべく、和歌山の大川港の大川茶屋に赴く。関空でエアロプラザを見学して、I所長の車で大川に着く。船宿である。風呂に入って宴会を始める。若手の連中と色々と話しかつ飲む。 翌朝Tさんの車でお寺回りに出発するが、大変な大雨である。まず加太にある淡島神社に行く。この神社は少彦名命(スクナヒコノミコト)、大巳貴命(オホナムジノミコト)、息長足姫命(オキナガタラシヒメノミコト)の三柱を祀っている。最初の二神は国造り、農事、温泉、醸造、裁縫、治病の神である。姫命は応神天皇を安産されたことから、安産と子授けの神とされている。境内に入ると、人形や置物等が社の軒下などに所狭しとばかりに置いてある。左手の小さな社には、石で作られた男女のホトが祀られている。

縮 景 園(広 島)

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  有年場の上の展望の良い見晴らし台にある亭を通って、薬草園へ行く。そこから今度は香菜園へ廻る。そこは茶畑の上に満開の桜と桃が咲き誇っている。京橋川沿いに山道を巡って、悠々亭に至る。ここからの跨虹橋の眺めが見事である。濯纓池(たくえいち)には大小十幾つかの島があるが、この悠々亭からは手前に亀の形をした島が据えられており、遠景の跨虹橋とその手前の島、その向こうには数寄屋造りの清風館が望め、園内で最も眺めの良い場所であると思われる。縮景園の地割りは、実際の面積を何倍にも大きく見せるために各部は極めて変化に富んでいて、深山幽谷、広がりのある池の展望、あるいは海浜の景というように、四季の風情と共に変化と統一のある景観を備えている。池の中央に架けられた跨虹橋は七代重晟が橋の名工に二度も築き直させたものであり、小石川後楽園の円月橋、修学院離宮の千歳橋にも似た大胆奇抜な造りとなっている。悠々亭より池畔を歩く。左奥を見ると、三つの土橋が三美人の微笑した唇のごとしと表現されているとおりに、優婉に見える。跨虹橋の廻りを一回りして、それから白龍泉を通り、明月亭の茶室に廻る。そこから古松渓を越えて、夕照庵前の州浜を見る。梅林のそばの調馬場より、桜の馬場へ行きそこから超然居へ至る。ここから見る池泉庭園の眺めもまた見事である。当園は小石川後楽園や岡山後楽園、六義園と比すると、規模は小さく彦根の玄宮園と同じくらいの大きさであるが、様々な変化に富んだ趣向を凝らしており、極めて完成度の高い大名庭園である。 跨虹橋の眺め

縮 景 園(広 島)

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ほぼ十年ぶりくらいに、この泉庭・縮景園を訪れる。小学校の時の遠足、中学一年生の時の小学校のS先生をかこむ会。それから高校三年生の時の卒業アルバムの記念撮影。そして約十年前の梅の咲いている頃の来園。関西に置いて庭巡りを始めていなかったら、今回もこうしてこの縮景園を訪れることもなかったであろう。 天気は快晴である。 縮景園は広島藩主浅野長晟が、入国の翌年元和六年(一六二〇年)から別邸の庭として築成したものである。作庭者は家老であり、茶人として知られる上田宗箇である。当園の名称は幾多の勝景を聚め縮めたところから名付けられたとも、また中国杭州の西湖を模して縮景したものとも言われている。園内は綺麗に整備されており、天気がよいことから沢山の拝観者が訪れている。入園して右手の桜の咲いている広場の芝生には、お花見弁当を広げている人々もいる。入口の正面に清風館があり、そこに植えられている桃が満開であった。右手に廻って土橋が三つ架かっているところを通って、銀河渓を見る。その上の有年場は、今でも毎年稲を植えているところである。 縮景園

千 鳥 が 淵

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  大手町よりタクシーで九段の二の丸公園入口まで行く。門に架かる橋の左右は桜が満開であり、まさに桜花のトンネルとなっている。しかし橋を渡って入城すると、意外と桜は少ない。門より再度出て、千鳥が淵に沿って歩く。櫓の下の桜は、傾斜地にあるためか陽光を求めて下方に枝を伸ばしており、濠と土手、石垣その上の樹々と照応して、傾きかけた陽光を浴びて実に美しい。フェアモント・ホテル側の公園には、夜桜を愉しむための場所取りが始まっている。ボート乗り場のある方面まで歩いて、また同じ道を戻りつつ桜を愛でる。橋の左手の方は桜の木が少ないが、こちらは遠く町並みを望むことが出来て風情のある景観である。城と濠と桜は、日本の情景としてよく似合うものである。       「年 々 歳 々  花 相 似 た り      年 々 歳 々  人 同 じ か ら ず」 昔日の武士、町人の愛でた桜を、今こうして現代の我々も同じ思いで愛でているのも、思えば不思議なものである。 千鳥ヶ淵

出 光 美 術 館

出光美術館開館五周年記念・国宝伴大納言絵巻展を見に行く。伴大納言絵巻は、平安前期八六六年、清和天皇の時代に起きた応天門の変を題材としている。これは藤原良房が始めて摂政となった時代のことで、これより前の承和の変では橘逸勢が追い落とされて橘家の勢力が弱まり、この応天門の変では大伴氏の伴善男が政治的に抹殺されて行き、藤原時代が本格的に始まって行くのである。この絵巻のストーリーは下記の通りである。 「内裏の枢要な門の一つである応天門が、何者かによって炎上された。主人公は伴善男(とものよしお)中宮大夫、時の左大臣は源信(みなもとのまこと)、右大臣は藤原良房である。源信の弟の定と弘が大納言となった頃より、伴善男と源信は対立。源定と弘の死により、伴善男が大納言となる。応天門の炎上は伴大納言の讒言により源左大臣の罪とされる。しかし左大臣の罪は晴れる。そして本当の犯人は分からない。ある時舎人の子供と伴家の出納(しゅつのう)の子供とが喧嘩をする。出納が、舎人の子供を足蹴にする。怒った舎人が、応天門炎上の夜の伴家の不審な行動を暴露する。そして舎人は検非違使庁で尋問され、伴大納言は逮捕される。」 絵巻の感想は、まず絵巻の縦巾が思ったより大きく、ひとりひとりの人物のフォルム・表情をしっかりと捉えて描き上げているということである。人物の輪郭の描き方の丁寧さ、その線の絶妙な濃淡と太さ細さの妙。三大火焔表現の一つとされる紅蓮の炎と黒い闇の使い分けの見事さ、その色彩は保存が極めて良くまた配色のバランスは素晴らしい。色彩を上手く利用して立体感を出しており、描写の正確さと躍動感などの動きの表現は飛び抜けているように感じた。又時間の推移を途中に樹木などを描くことで示す方法なども、印象的であった。こうした絵巻物には、常日頃余り関心がないが、この絵巻については流石国宝だけのことはあると感じた。  

彦 根 城

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  昔ながらの格子戸造りの家並みとなっているのには驚かされた。本町一丁目の「いと重」で、名菓「埋もれ木」を買い求める。これは井伊直弼縁の、埋もれ木の舎からその名を取ったものである。お茶請けにうってつけの、上品なぎゅうひと餡の和菓子であった。 彦根城博物館の中で見た三夕和歌色紙の歌は、次の通りである。      寂しさは その色としも なかりけり           槙立つ山の 秋の夕暮     寂蓮法師    心なき 身にもあはれは 知られけり           しぎ立つ沢の 秋の夕暮    西行法師    み渡せば 花も紅葉も なかりけり           浦のとまやの 秋の夕暮    藤原定家 玄宮園より彦根城を望む

彦 根 城

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  太鼓門櫓を潜り登り切ると、天守閣の処に出る。この天守閣は明治十一年の城郭撤去の折、その寸前に大隈重信が視察し、その名城の消失を惜しんで明治天皇に奏上し、天守閣の撤去を免れたという。現存する天守閣としては、五層天守最古の松本城、日本最古で信長の叔父信康の造築した犬山城、そして姫路城とこの彦根城が国宝四城として残っている。天守閣は大修理中でその外観もよく見ることが出来なかったが、天平櫓の展示物に依れば、東南の正面屋根は千鳥破風(切妻入母屋)で、二層の屋根は唐破風、一層が又千鳥破風で左右に小さな切妻の屋根が付いている。窓は宋風(唐様花頭窓)で、横に見える屋根は三層目がやや下がり気味で、二層目は上へ反り上がり、一層目も反り上がっている。そのため構成がややアンバランスに見えるが、南面から見るとずっしりと落ち着いたバランスの取れた、しかも優美なスタイルとなっている。この造りは唐破風と千鳥風を縦横に駆使したことにより、意匠的に技巧に富んだ華やかな天守閣となっているとの説明あり。石垣の積み方も一見雑に見えるが、石の大きな面を内にし、小さな面を表に出した頑丈な組み方だそうである。天平櫓の処まで戻って、大手門方面より京橋に出る。 石段より天守閣を望む

彦 根 城

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  表門を潜ると、石で端を固めた割と急な段があり、江戸時代の武士もこの坂を登って登城していたのだなと思う。天平櫓前の橋の下を潜って又段を登ると、鐘の丸広場である。そこにある茶店で蕎麦を食べる。天平櫓を潜って登って行くと、聴松庵と時報鐘がある。 天平櫓前の橋

彦 根 城

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  玄宮園より歩いて表門に向かう。その手前にある厩と佐和口多聞櫓を用いて、展示館としている。現在天守閣は修理中なので、そのかわりにここが展示館として使われているようである。その展示館を見た後、表門橋をわたって城内に入る。 彦根城は、徳川四天王の一人である井伊直政が、関ヶ原の戦いの功績によりその報償として、石田三成の居城佐和山城を与えられたことに端を発する。井伊家はもともと静岡県の井伊谷に在していたが、その後上野国高崎城(箕輪城)に移封された。従ってこの彦根は井伊家にとって二度目の移封になる。井伊家の当主直政が移封後一年で、戦いの傷がもとで没したので、その子直孝が一六〇三年に築城に着手し、約二十年を経て完成されたお城である。天守閣は大津城から、また天平櫓は長浜城から運び込まれたという。 お城のパンフレットによれば、井伊家の祖先は藤原氏とのことで、平安中期の一条天皇の時に、遠江守に任ぜられた藤原共資の子共保に始まっているとのことである。井伊直政は遠州井伊谷で十五歳の時に徳川家康より二千石を賜り、十六歳のときの初陣の功で一万三千石に、二十二歳の武田征伐で四万石。三十歳で上野国箕輪城主十二万石、そして佐和山城主となった四十一歳の時は十八万石を授かっていた。その後二代藩主直孝が大坂冬・夏の陣で武功をたて、三十五万石彦根藩主となったのである。 彦根城 表御殿庭園

玄 宮 園

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  彦根城の外濠は琵琶湖と繋がっており、車はまずその外濠に出る。そこからいろは松のあるところを通って佐和口より入り、内濠沿いに玄宮園に向かう。このあたりは城下町の風情が充分に残っており、興趣あり。 玄宮園は井伊家四代城主直興が一六七七年に槻(つき)御殿の一部として着手したもので、完成は一六七九年である。これは四代将軍徳川家綱の時代で、同時代人としては少し前に小堀遠州、楽三代のんこう、柿右衛門、石川丈山、片桐石州、狩野探幽、千宗旦、隠元、野々村仁清がいる。また井原西鶴や松尾芭蕉が活躍していた時代といえる。同時期には奈良慈光院の茶室、丸亀城、高松城、松山城、閑谷学校が出来上がっている。この玄宮園は殆ど同時期に造園された岡山の後楽園と同じく、池泉回遊式の大名庭園として、城郭より内濠を隔てた場所にあり、中国湖南省の瀟湘(しょうしょう)八景に模して作庭され、唐の玄宗皇帝の離宮の名を取ったということである。池には神仙島が作られ、鳳翔台の建物が池に面している。その対岸よりの眺めは、池に面した鳳翔台その向こうに天守閣と城山が望まれ、まさに絵となる景観である。しかし池とこの建物が中心の庭園であり、岡山の後楽園のごとき多様さはない。またその奥の楽々園(槻御殿)は、現在は料亭として使われており、有名な枯れ池を玄宮園側より覗いたのみに終わった。 玄宮園

龍 潭 寺

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  方丈には石田三成の生涯についての説明の額が並んでいる。秀吉が長浜城主の折りに鷹狩りで佐吉(三成の幼名)に出会い、その後官僚派の近江閥として出世するが、慶長五年九月十五日の関ヶ原の戦いで敗れ、同十七日には佐和山城も落城し、父兄妻など一族郎党が自決。伊吹山に逃れていた三成も捕らえられて、大阪・堺を引き回しの上、今日の六条河原で切腹。大徳寺三玄院に葬られている。関ヶ原の戦いは三成が敦賀城主大谷吉継と謀り戦火の火蓋を切ったが、小早川秀秋が寝返って大谷軍を攻めたことから徳川の勝利となったもので、こうして見ると歴史は本当に一つ一つに事件の積み重ねで、結果は大きく変わって行くものなのだということを感じる。       散り残る 紅葉は殊に いとほしき             秋の名残りは こればかりとぞ                      「残紅葉」 石田三成の遺墨 書 院東庭は鶴亀蓬莱の池泉鑑賞・回遊・借景庭園であり、桃山時代の作庭を偲ぶことが出来る。小さな池の左手に鶴亀の島があり、右手の池のなかに飛び石がある。その右奥に石橋があり風情がある。池の奥は山の斜面を利用し、刈り込みと共に多くの石を配置しているのが特色である。斜面の東隅は石垣としている。井伊直弼がこの池泉庭園を詠じて、        世間に すむとにごるの あともなく              この池水の いさぎよきかな   と詠んでいる。方丈の襖絵は芭蕉門下の十哲の一人、森川許六の筆になるものである。またこのお寺にある有名な楊柳観音像は、毎月十八日にのみ開扉することとなっており、残念ながら見ることは出来なかった。 龍潭寺にて達磨のお守りを買い、タクシーを呼ぶ。隣には石田三成の家老であった島左近の邸宅趾をお寺とした清涼寺があるも、これは訪れるのを止めて、玄宮園へと向かう。 龍潭寺 書院東庭

龍 潭 寺

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  山道を降り、龍潭寺へと下る。正門をまっすぐに入ると、県の青少年会館があり、その右手奥にお寺の入り口がある。東寺の正式名称は弘徳山龍潭護国禅寺と言い、臨済宗妙心自派のお寺であり、パンフレットには「達磨の寺」「庭の寺」との名称も記されている。井伊大老の生母の墓があると共に、石田三成の居城・佐和山城の麓にあることから、石田三成縁の地とも記されている。開山は無相大師である。堂内に書かれている説明文によると、釈迦の正法は禅宗の始祖達磨大師に受け継がれ、それが宗祖臨済禅師に受け継がれたとしており、それが日本に渡来して臨済宗妙心寺派のこの龍潭寺の開山無相大師に脈々と流れているというのである。開山無相大師の御遺戒は「請う、その本(もと)を務めよ」である。当寺そのものはその昔天平五年(七三四年)に行基により、静岡県引佐郡井伊谷に開基されたという。その後一〇九三年に井伊家の始祖井伊共保公の菩提寺となり、一三三七年花山天皇の勅願で、開山無相大師が創建。その後後醍醐天皇の第三皇子宗良親王が中興し、かの中国濫陽の龍潭にあやかって寺号とした。一六〇一年に井伊直政公が高崎から当地に移封された折りに、開山昊天禅師によりこの龍潭寺も移建されたという。一方静岡の龍潭寺も、そのまま残っているとも言う。 方丈の南庭は、石庭補陀落(ふだらく)の庭と呼ばれている。手前の白沙の海に三つの石組みの島があり、中心は補陀落山となっており、その右手に船石がある。右の石組みには、灌木が添えられている。白沙の奥は大陸となっており、右手の奥の石組みの側の小さな樹木がひっそりと立っており、これもまた愛らしい。正面奥と右手は生け垣で区切られており、その向こう側には樹木が植えられている。正面の生け垣のところに柱があるのは、何か理由があるのであろう。左の生け垣の奥は紅葉が植えられており、左側面は高床の渡り廊下となっている。右側面の生け垣の奥には、大きな古木がまるで昇竜のごとき三本の大きな枝を広げている。二本の枝は庭に懸かるかのごとく左に傾斜しているが、残りの一本の枝は左方へ登っている。当庭園は園頭教学(造園学)の淵源となった龍潭寺衆寮(禅宗大学寮)学僧の造園学実習庭園として、開山の昊天禅師により作庭されたものである。境内には庭園の始祖夢窓国師及び小堀遠州の供養塔、また庭園史上の先賢を奉祀する庭聖殿もある。ふだらくの庭は仏殿・経堂

大 洞 弁 財 天

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  彦根駅について、タクシーで龍潭寺にむかう。運転手さんの話ではその近くにある大洞弁財天も一見に値するとの由、龍潭寺前に着きまずその日本三大弁財天の一つであるという大洞弁財天への山道を登って行く。 当弁財天は、石田三成の佐和山城趾のある山の北端に位置している。院号は長寿院と言い、江戸幕府の日光普請奉行でもあった四代藩主井伊直興が創建したお寺である。日光の大工をたくさん連れてきて、日光の東照宮と同じく権現造りの豪華さを持つ建物として造り上げられたので、通称彦根日光とも呼ばれているそうだ。楼門の左右には日月の二神像を配し、彦根城の鬼門を厄払いすると共に、軍事的役割を持っていたとされる。竣工は一六九六年犬公方綱吉の元禄時代であり、閑谷学校の聖廟と同じ頃の建物である。同時代人としては、井原西鶴、松尾芭蕉、円空、楽一入、菱川師宣、徳川光圀、尾形光琳などがあげられる。当弁財天は近江七福神の一つでもあり、建立のときに西国・秩父・阪東の二百八十一カ所の砂をすべて集めて埋めてあるとのことである。従ってここを参拝するのみで上記三カ所の巡礼をしたことになるようであり、商売繁盛・学業成就の御利益があるそうである。 堂内の弁財天は左手に玉、右手に剣を持っており、風貌は家康公を模したような感じがあり、また左右には龍の脇士があるのも珍しい。欄間には権現造りの様々な彫刻があり、まさに小東照宮である。そもそも天部とは、仏教がそれ以前の既成宗教であるバラモン教などからそれらの神々を同化したものであり、明王とともに天部もそれらの民間信仰の神々を、仏法も守る善神として転化したものである。天部は梵天・帝釈天それから四天王(増長天・広目天・持国天・毘沙門天)のように邪気を踏みつけながら仏国土の四方を守護する怒りの男神ばかりでなく、豊かな肉体と美しい容姿を持つ女神もおり、それが弁財天と吉祥天である。吉祥天が福徳円満・五穀豊穣の神として信仰されたのに対し、弁財天は水の恵みの神として商売繁盛・学業成就の神として信仰されてきた。これ以外にも伎芸天という女神もいる。 大洞弁財天

安 土 城 趾

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  大阪駅より十時半の新快速米原行きに乗車、京都までは約三十分、それから四十七分の合計一時間十七分で彦根に到着の予定である。近江八幡の駅近くでは、関白豊臣秀次(秀吉の甥)により築城された八幡城の城山が見える。山の麓からはケーブルカーが登っている。近江八幡の街も秀次の十年後の自裁により取り残されたが、その中から逞しい近江商人が育ってきたのであろう。近江八幡の駅を出てやや進むと、前方に山の連なりが見えてくる。その左端の小高い山が安土山で、安土城趾となっている。なだらかな横長の山でここにかの信長が、「平安楽土」の文字の中より「平安」京に対抗するものとして「安」と「土」を取り出して命名した安土城を築き上げたのである。フロイスなどを始めとする宣教師たちが、京を経てこの安土城までやって来た時代もあったのである。電車は安土山の右の裾野を通過して行く。 安土城跡

永 平 寺

  朝十時の雷鳥で大坂を出発。福井へ二時間余りで到着。京福電鉄の福井駅で蕎麦を食べ、永平寺へ向かう。東古市でバスに乗り換える。約三十分で永平寺に到着する。門前の土産物商店街は賑やかである。お寺には通用門より入山する。左右は大きな杉木立の道で、自然の森閑さが伝わってくる。総受所に入ると、このお寺を訪れる人々の多いのに驚かされる。総受所のある吉祥閣は、宿泊所にもなっている。吉祥閣の日本間で、堂宇内はすべて左側通行である等の注意を受ける。 まず東司(便所)より堂宇に入る。東司と浴室は山門を中心に東西にある。山門より北へは中雀門、仏殿、一文字廊、法堂(はっとう)と並んでいる。東司の上には僧堂、その反対側は庫院(くいん)である。まず僧堂より見る。僧堂は座禅をし食事をしかつ眠るところであり、まさに修業道場である。次に中雀門を通って仏殿へ行く。ここは祈祷の場であり、本尊は現在仏の釈迦牟尼仏であり、左手に過去仏の阿弥陀仏、右手に未来仏の弥勒仏の三世如来を祀っている。一文字廊を通って承陽殿へ行く。ここは開山道元禅師の御真廟である。石段の上を履き物無しで歩いてお参りをする。仏僧は毎朝夕、ここにお参りをするそうである。次いで法堂に行く。ここは貫主説法の道場で、朝の勤行や各種法要儀式はここで執り行う。聖観音菩薩が奉祀されており、千名の衆僧を収容することが出来るほどの広さがある。そこより大庫院(台所)、浴室を経て山門へ。唐様総欅造りの重層楼門で、七四九年の改築で堂宇内最古のものという。廊下には合図のための分厚い板が掛けられてあり、毎日打っているためか、真ん中に大きな穴があいている。祠堂殿は先祖供養の御堂である。広島と福井の両亡父のために、瓦志納を行う。経本、念珠、月刊誌を頂く。 永平寺の由来は、次の通りである。京にあった道元は、自らが高名となるに従って、自分の名声が世俗のために使われることを嘆くようになっていたが、そこに鎌倉武士で大檀那の波田野義重公の勧めがあり、越前の国志比庄に移って一二四四年に開創した出家参禅の道場が始まりである。十万坪に境内に大小七十の伽藍が建ち並び、樹齢六八〇年の鬱蒼とした老杉に囲まれた佇まいは、古色蒼然とした霊域を創り上げている。 道元は一二〇〇年に京都に生まれ、八歳で母の他界に逢い、十三歳で比叡山横川に出家。二十四歳で中国に渡り天童山の如浄禅師について

閑 谷 学 校

  焼き物の里を後にして、閑谷学校へ行く。創設者である藩主池田光政が、この地を選んだらしい。谷間の静寂な山の懐となっている場所で、確かに風趣に富む優しい感じの土地である。一六六八年に最初の手習い所を設け、その後重臣津田永忠らによって拡張された。学校へは所領も与えられ、光政がいかに庶民教育を大切にしたかが伺われる。学校は高さ一メートル半以上、幅も一メートル以上の石壁で囲まれている。門・講堂の屋根はすべて備前焼の瓦で敷かれており、受ける印象は中国宗風である。学校は全寄宿制であり、小学生くらいの子供も入寮させており、教育への情熱が偲ばれる。光政公は実に開明の名君であったのであろう。孔子廟もあり、山田方谷もここで傑出した人物を教えたようである。

伊  部

  藤原啓記念館より、伊部(いんべ)の街・備前焼の里に入る。金重利陶苑(号陶弘)に入って、釜を見せて貰う。登り釜、電気釜を見てそれから轆轤を回しているところも見せて貰う。電気釜はちょうど釜を開けたところであり、陶器がまだ藁灰の燃えかすの中に埋もれているところも見せて貰った。 備前焼の由来は須恵器より始まっており、釉薬を使わず素地のままで強い火で長い間焼きしめ、火加減により現れる窯変の絶趣洵に掬すべきものと書かれてある。桃山時代に茶道具として好まれ、その後江戸時代には藩主池田家の保護により、現在まで連綿と釜の火は続いている。自然の焼成による焼き肌との綜合的な美観が備前焼の持ち味で、焼色も主に次のようなものがある。胡麻焼、桟切(さんぎり)焼、緋襷(ひだすき)焼、青焼、また石はぜと呼ばれるものは、陶土の中に含まれた自然の石が焼成の際に土と石との収縮の差で器物の肌に弾けて、一見傷のようであるがそうではなく自然の柄となり、その美しさが珍重されている。 利陶苑で記念になるものを買おうとして最初は安価なものを見ていたが、やはりじっくりと見るとやはり高価なものの方が味がある。電気もしくはガスと炭との焼成の差もあるのであろう。結局徳利とお猪口を一つずつ買い求める。

牛  窓

  邑久より岡山ブルーラインに乗って、牛窓(うしまど、奈良時代にこの地区の港であり、文化の受け入れの窓であった)の北を通り、片上湾を橋で越えて日生(ひなせ)に着く。鹿久居荘という料理旅館で昼食。刺身弁当と蛸の踊りを食べる。 そこから片上湾に面した藤原啓記念館へ行く。明治三十二年生まれの藤原啓は、代用教員の職を擲って上京。作家を目指したが志ならず、郷里に戻ってきた。その後正宗白鳥の弟の勧めで四十歳にして備前焼を始める。金重陶陽の指導を受けて、土を愛し酒を愛する人生の友としての交友を結び後に共に人間国宝となっている。陶陽の作品が厳しく精悍なのに比して、啓の作品はおおらかで素朴であると言われている。記念館は一階と地下の造りとなっている。館内にはあまり訪れている人はいない。地下に降りると、貸し切りであった。

竹 久 夢 二 生 家

  橋を渡って邑久町に入り、竹久夢二の生家を訪れる。夢二の生家は造り酒屋であったが父親の時代に没落し、夢二は一時期九州の方へ移り住んでいたようである。十六歳まで福岡におり、八幡製鉄所で図面引きをしていたこともあったが、十七歳で上京、早稲田実業に入るがコマ絵が認められて中退、挿し絵画家としての人生を歩き始める。年上で出戻りの絵葉書屋の「たまき」と恋に落ち、二十四歳で結婚。このたまきをモデルに夢二式美人画が生まれる。夢二は明治画壇の重鎮藤島武二の門下の「三ジ」として、藤田嗣治、東郷精治と並び称せられる。夢二のたまきとの結婚は三人の子を成しながらも破局となり、夢二二十六歳で離婚。しかしその後もたまきとの愛欲関係は続いたという。三十三歳で女子画学生の笠井彦乃(愛称山路しの)と結ばれ京都二寧坂で同棲、しかしこの生活も彦乃が胸を病んで二十五歳で没することで終わりを告げた。彦乃の死後は藤島武二のモデルお葉と同棲したという。 夢二の絵は芸術としてみるよりも、そのほのぼのとした温もりと純粋な目で見て描かれた美を味わうべきであろう。夢二の美人画は初めて恋というものを知り、男との愛欲を知り染めた乙女が、まだその幼さと純情さとともに、初々しい色気を醸し出している風情を描いたものが多いように思われる。そうしてそう言った乙女から女へと変遷して行く、その危うい過渡期にある儚い美しさこそが、夢二にとって永遠の憧れの女性であったのであろう。そして実生活の中では、その憧れの女性とは「たまき」であり、「しの」であったのであろう。

 西 大 寺 観 音 院

  曹源寺よりさらに西に進んで、西大寺に至る。毎年二月の第三土曜日深夜に行われる裸祭で有名な、真言宗のお寺である。正しくは西大寺観音院と言い、七五一年安隆上人の開山と伝えられる。時代は天平勝宝孝謙天皇の御代で、東大寺法華堂、新薬師寺本堂が建立され、東大寺の大仏開眼供養が行われた頃である。吉井川の側に立つ伽藍で、その門前町が今でも商店街として残っている。お寺は西大寺という名前より受けていた想像よりは規模が小さく、堂宇も小さく纏まっている。その中で、三門が中国風なのが印象的であった。     御詠歌   みほとけの 恵みも深き 芦田川              ぐぜいの船も 尊とかるらん         オンバサラ タラマ キリク ソワカ

曹 源 寺

  東山公園を横切って、曹源寺に到着する。当寺は藩主池田家の菩提寺であり、臨済宗妙心寺派に属する中国地方きっての巨刹である。門前の道の左右は高級住宅地となっており、石橋を渡って入門。少し歩くと立派な三門があり、この寺の威風をよく表している。本堂の右手に書院があり、入園料を入れる箱がおいてある。外人の雲水が出入りしていた。柴戸を開けて、庭に入り池泉鑑賞式庭園を見る。この庭園は後楽園と同じく、津田永忠により作庭されたものである。書院正面に心字池があり、手入れは行き届いていないが、左手には枝垂れ桜を配しており趣あり。しかし書院のすぐ前の芝生は荒れている。また枯山水の庭はその左手奥にあるが、これはあまり感心しない出来映えである。後世の人が改造したのかもしれない。

岡 山 後 楽 園

  十時過ぎに岡山に到着。岡山駅より後楽園に向かう。鶴見橋を渡って、庭園入り口に着く。後楽園は旭川の中之島を使って造られており、河岸も見事に整備されている。西外苑を通って、正門へ向かう。西外苑は芝生と所々に大木も植わっており、庭園への導入部としてはなかなか良い。 後楽園は備前藩主池田綱政が家臣津田永忠に命じて、十四年の歳月をかけて造らせたもので、完成は一七〇〇年、五代将軍綱吉の元禄時代である。一七〇〇年前後の同世代の人物としては、十七世紀の後半は酒井田柿右衛門、黄檗宗の隠元、石川丈山、野々村仁清、井原西鶴、松尾芭蕉、菱川師宣、水戸光圀、狩野探幽がおり、十八世紀の前半は尾形光琳、近松門左衛門、尾形乾山、石田梅岩などがいる。園の名称は、亭を主とすれば茶屋屋敷、園を主とすれば後園と呼ばれていたが、明治四年に後楽園と改められた。江戸時代を代表する回遊式庭園で、面積は十三ヘクタールもある。 馬場の方より水路を越えて、芝生の植えられた広場に出る。沢の池の砂利島、池の向こうの唯心山、そしてその右手に烏城(岡山城)が展望でき、これこそが後楽園の景観であると言うべきものが一望に見渡せる。ただ一つ気になったことは、芝生というものは明治以降になって輸入したものであろうから、それ以前にはこの広々とした広場はどのようになっていたのであろうかという疑問である。芝生の植わっていない景観というものは、又違った印象を与えるのでは無かろうか。 曲水に沿って、園路を鶴鳴館の方へ歩む。曲水の中は長い藻が生えている。茶亭延養亭も華美でない落ち着いた柔らかい印象を与える建物である。花葉の池を巡り、大立石を見る。瀬戸内海よりいくつかに砕いて運び込み、また合成したという巨岩で、陰陽を表しているそうである。その裏側は昔旭川より船を引き入れていた跡もあり、烏城より船に乗って曲水を通って延養亭に着き、茶室に入ったとのことである。築山の唯心山に登り、園内を一望。築山より下りて、流店(るてん)を見る。曲水の流れを流店に引き入れており、水流の少ない折りは、本流を板でせき止めて流店に流すように出来ている。藩主が上に座って酒を飲み盃を流れに浮かべて流し、それを家臣が受け取りまたその盃で酒を飲んだところから「お流れ頂戴」という言葉が出来たとのことである。流店の向こうは菖蒲畑となっており、ここでの酒宴もまた風雅なものであ

四 天 王 寺

  大阪のガイドブックを見ると、日本最古の官寺は四天王寺と書いてある。それで表敬の意もこめて、当地赴任の最初のお寺参りは四天王寺とする。  地下鉄の駅より南に相当歩いて、四天王寺の中門より境内へはいる。先ず六時堂を参拝する。午前十一時頃であったが、沢山の人たちが祈願に参っており、薄い木片に名前やおまじないを書き付けたものを、お坊さんに祈祷して貰っている。六時堂の前は亀が放たれた池となっている。その池の向こうに、亀井堂というのがあり、祈祷して貰った木片を、亀井堂の中にある小さな池につけて、占いをして貰っている。このお寺ではまだ、仏への信仰がしっかりと地元に根付いており、お寺そのものが本来の機能を発揮して、生き生きと活動している、と言う感じを強く持った。  四天王寺の縁起は、聖徳太子の戦勝祈願にある。太子は蘇我氏とともに物部氏と戦を行うこととなった。その折に太子は救世観音に戦勝祈願を行い、勝利の暁にはこの地にお寺を建立することを約束され、物部氏を倒した後、推古天皇元年五九三年に当寺を建立されたということである。鎮護国家の道場としてまた済世利民の実践場として、当寺は政治・外交・文化の中心地となったようである。  昭和二十年三月の戦災により、金堂・五重塔・講堂・仁王門は灰燼に帰したが、昭和三十八年に再建され、飛鳥時代のままに四天王寺式伽藍の、仁王門・五重塔・金堂・講堂が一直線に南北に並び、その周りを回廊が巡っている。金堂には本尊の救世観世音菩薩が安置され、その四方に四天王が配置されている。救世観音はまだ新しく金色に輝いているが、返ってその為に威厳が少ない感じがする。周囲の壁画は中村岳陵画伯により描かれており、釈尊の誕生・カピラ城出城・降魔成道・初転法輪・涅槃の順に、釈尊の生涯を彩色豊かに描いてある。五重宝塔は相輪の部分が塔全体の三分の一もあるほど長く、くわえて屋根の勾配が緩やかであるため、各層の屋根と屋根の間がやや狭すぎるという印象がある。講堂は聖徳太子が講義をされた場所で講法堂と呼ばれ、堂内は夏堂と冬堂に分けられている。夏堂には阿弥陀如来座像が、冬堂には十一面観世音像が安置されている。この御堂の壁画は郷倉千靱画伯によるもので、玄奘三蔵法師の「仏教東漸」の事跡が描かれている。  宝物館で国宝「扇面法華経冊子」などを見て、太子殿(聖霊院)にお参りして息子達に学

 萬 野 美 術 館

  次に御堂筋に面した萬野美術館を訪れる。この美術館の創立者、萬野裕昭は明治三十九年生まれで海運・不動産・外食産業などを手広く手がけて財をなしたという。古美術を中心として蒐集しており、茶室裕裕庵も館内に造られている。国宝が三点あり、その一つに玳玻天目茶碗がある。天目は福建省の建窯で妬かれた黒釉碗であり、黒く発色した鉄釉の器物を天目と呼ぶ。天目の中で有名な物は、油滴・曜変・禾目とあるが、油滴の斑紋は釉中の酸化第二鉄が表面上に浮いて結晶した物である。曜変は黒い釉面に大小の結晶が浮かび、その周りに暈天状のぼかした虹彩を持つ物である。世に現存する物は五点のみと言われている。玳玻は天目釉の上にさらに失透性の藁灰釉を振りかけ、黒字に飴色の斑紋を持っている。この萬野美術館にあるものは、玳玻天目散花文茶碗と呼ばれている。なかなか見事な茶碗である。当美術館はビルの中に茶室も造り上げており、まさにビル街の「壺中の天」である。

そ の 他 ・ 出光美術館

  昨日より大阪外為部に着任し、引継を受けている最中である。宿泊は心斎橋から長堀通りを少し東に行った所にある DO SPORTS PLAZA である。ホテルより歩いて二―三分の出光美術館を見に行く。 この美術館はもともと出光左三が愛蔵していた美術品公開のため、昭和三十九年にまず福岡に設立され、昭和四十一年には東京に開館され、その後平成元年に大阪にも開館されたものである。日本の美術品を中心に蒐集しており、書画陶磁器などが主なコレクションとして展示されている。その中でも有名なものに仙厓義梵がある。仙厓(一七五〇―一八三七)は臨済宗古月派の僧であり、書画を良く嗜んだ。彼は美濃の清泰寺で得度し、その後武州(横浜)の東輝庵を経て、栄西禅師にゆかりのある博多聖福寺の住職となった。 その他は尾形乾山の作品がある。乾山は京焼きの祖、仁清の弟子で、彼は享保吉宗公の時代を生きている。兄弟である尾形光琳の絵を施している作品もある。乾山は仁清に比べて贋作が多いとのことである。当館の休憩所は眺望が良く、お茶やコーヒーのセルフサービスもあり、さすが出光だけのことはあると思った。

法 華 堂

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  法華堂(三月堂)に廻る。この法華堂は天平十二年(七四〇年)頃に建てられた、東大寺最古の建物であるという。この辺りには聖武天皇と光明皇后の皇太子・基親王の菩提を弔うための金鐘寺と言うお寺があった。それがやがて大和国国分寺、さらには東大寺へと発展したのである。不空羂索観音を本尊とするため、古くは羂索堂と呼ばれていたが、毎年三月に法華会が行われたことから、後に法華堂と呼ばれるようになった。現在の御堂は鎌倉時代(一一九九年)に、重源上人によって新造されたものである。御堂に入る。中には不空羂索観音を中心にその脇侍として右に日光菩薩、左に月光菩薩が祀られ、その前には阿形・吽形の金剛力士が立っている。次いで右左に不動明明王と地蔵菩薩が並んでいる。その後ろ四隅に立っているのが、梵天・帝釈天・弁財天・吉祥天である。そして後ろの中央には秘仏・執金剛神が厨子内に安置されている。そして壇上の四隅には四天王が配置されている。この御堂に安置されている御仏十六体のうち、天平時代の作が十四体である。そして地蔵菩薩、不動明王に二体は木造でそれぞれ鎌倉時代、室町時代の作である。天平時代のもののうち、執金剛神、日光・月光菩薩、吉祥天、弁財天は塑像で残りの九体は乾漆像である。日光・月光菩薩と吉祥天、弁財天は後に運び込まれたものという。この法華堂は本尊からすれば、当初はもっと屋根の張りの高く一回り大きな御堂ではなかったかと思う。御堂自体が鎌倉時代に一回り小さくなったのに加え、当初はなかった六体の仏を運び込んでいるわけである。したがって、この御堂に収まる御仏は、極めて窮屈な思いをされているように感ずる。御堂の空間と、御仏の配置にもっと東大寺としては心を配るべきではないか。我々はこの法華堂に来ると、博物館で仏像を拝しているような感じを覚える。その故もあろうか、この御堂の御仏達に私は余り心を動かされないのである。 法華堂

戒 壇 院

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  大仏殿より、戒壇院へと赴く。鑑真大和上が前五回の失敗を乗り越えて、弟子の普照、思託とともに戒壇を築いて聖戒を日本の地に伝えるべく渡来したのは、天平勝宝六年(七五四年)のことである。そして言い伝えによれば、その時鑑真はインドのナランダ寺と塔の天台山の土を持ち来たりて、日本の土と合わせ三国の土で東大寺大仏殿の前に戒壇を築いたということである。そうして聖武上皇を始め四百四十余人に、大授戒を行ったのである。その後に大仏殿の西方に、戒壇院が築かれた。建立当初は金堂・講堂・回廊・僧坊などをそろえた大伽藍であったようである。そして戒壇の中央には金銅の六重塔を安置し、今のものとは異なる四天王を四隅に配していたという。戒壇は三段になっているが、これは大乗菩薩の三聚淨戒すなわち      一、 摂律儀戒  二、 摂善法戒  三、 摂衆生戒 を表したものという。 本堂内に入る。この身道は享保十七年(一七三二年)に再建されたもので、戒壇の中央には木造の多宝塔が安置されている。壮年の会社員の団体がネクタイ姿のままで拝観に来ている。その一団の拝観の後に、ゆっくりと四天王を拝顔する。四天王とはもともとインドの護世神であったが、仏教に取り入れられるや仏法とそれに帰依する人を守護する護法神となった。仏教的世界観では世界の中心にある須彌山に住む帝釈天の配下で、須彌山中腹の四方を守る神となった。須彌山を巡る四大州を、東南より時計回りにそれぞれ持国天、増長天、広目天、多聞天が守護するという。四天王信仰は飛鳥時代からあり、物部氏を撃った聖徳太子は勝利の後四天王寺を建てている。像容は本来決まった形がなく、インドでは貴人の姿に作られたが、日本では忿怒武装形となった。持ち物は多少異なるが、多聞天・広目天の他は原則として刀や戟を持っている。なお多聞天は毘沙門天とも呼ばれ独尊としても信仰され、後には福徳高貴の神として七福神の一つにもなった。そしてこの四天王はすべて天邪鬼を足下に踏みつけている。 まず持国天から見る。この持国天は兜をかむり、目をかっと開いて口をへの字に結んでいる。次いで多聞天を見る。この多聞天は左手を降ろして巻経を持ち、右手を上にあげて宝塔を捧げ持っている。眼は半眼で口はぐっと引き締められている。      「四天王の中でただ一人、怒りのデルタを持たないのが多聞天であ  

東 大 寺 大 仏 殿 付 近

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  亀井勝一郎の「大和古寺風物誌」によれば、こうして焼失する前の東大寺の伽藍は下記のようであったという。     「天平時代に造られた当時の大仏殿は、もちろん今の大仏殿の比では    なかった。奥行きは変わらないが間口は遥かに大きく、殆ど二倍く    らいの感じであった。堂々とした長い反りを持った重層の大屋根。    それを支える正面十何本の太い円柱、この雄大な金堂を囲む回廊も    今のような単廊ではない、壮麗な複廊である。この前面の広場、即    ち正面に当たる南大門との間には、左右にそれぞれ東西の七重塔が    高々と青空に聳えていた。三百三十余尺というその高さは実に法隆    寺の五重塔の三倍、興福寺五重塔の二倍に当たる。大仏殿の背後に    は、これにふさわしい大講堂や食堂が建っていた。さらにこれを囲    んで鐘楼、戒壇院、大門その他の堂宇が幾十となく、三笠山の麓、    方八町、二十四万坪の境内に新しい甍を陽に輝かしていた。のみな    らず、一切の建物が美しい朱や緑に塗られ、透かし彫りの金具や軒    の風鐸などがきらびやかに相映えた」    大仏殿の前に立って、南大門の方を見る。左手に池があるが、南大門までの広い空間には他の構築物は何もない。しかし上記のように、この左右の空間には興福寺の五重塔の二倍の高さを誇る壮大な七重塔が、天に聳えていたのである。こんどは振り返って門を通して大仏殿を見る。この大仏殿もその間口が今の二倍あり、堂内には薬師寺の薬師如来のように荘厳で慈愛に満ちたお顔の廬舎那仏が、その左右に三丈の高さの如意輪観音菩薩と虚空蔵菩薩の座像をを脇侍として、崇高壮麗なお姿を見せていたのである。そしてその四方にはまた身の丈四丈の金色の四天王が、彩色鮮やかな甲に身を固めて四隅を護持していたという。今より千二百年前の、我が国が中国文化と仏教をまさに必死の思いで摂取していたその揺籃期に、かくも空前にして絶後の大伽藍と限りなく壮麗な廬舎那仏を創り上げていたということに、我々は驚きとも言うべき感銘を覚えないではいられない。 大仏殿