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11月 15, 2020の投稿を表示しています

円 山 公 園

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  三門から出て南門を潜ると、もうそこは円山公園である。この公園は明治十九年に開かれた京都最古の公園であり、その後二度の拡張で現在の広さとなり(明治四十年)、大正二年に植治(小川治兵衛)が現在の庭を造った。疎水からの水を滝として取り込み、曲水として流し池に導入している、池泉回遊式庭園である。 円山公園の桜はもともと宝寿院というお寺の庭にあった桜であり、明治時代には祇園の夜桜として有名になっていた。植治は一番有名な枝垂れ桜を主役とすべく、そのすぐ上に瓢箪池を造り、その石橋を枝垂れ桜が最も美しく見える位置に据えたという。  まず石橋を渡って、流れに沿って遡る。桜はまだ二分咲き程度であるが、滝の近くにある枝垂れ桜は三分程度咲いている。 そこには坂本龍馬と中岡慎太郎の銅像もある。また庭の中心にある枝垂れ桜の所に戻る。これもまだ三分咲き程度である。この桜は二代目で、初代は昭和二十三年に枯れたため翌年仔桜を植えたのが、今の枝垂れ桜とのことである。 円山公園の枝垂れ桜

知 恩 院

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  青蓮院の門前で、ぜんざいを食べる。そこより南下すると、知恩院の黒門に着く。黒門坂はまるで城郭の一部のようである。これまで知恩院というと三門の前を通るのみで、知恩院そのものには全く訪れたことがなかった。今回が初めての拝観である。知恩院は浄土宗総本山であり、青蓮院の一部を慈圓より譲られて、一一七五年に法然上人が念仏の根拠地としたと言われる。法然はその流罪後、今の勢至堂の辺りに住んだが、一二一二年に当地で没した。法然入寂後二十三回忌の年に、門弟源智上人が知恩院を創建、のち織田信長、豊臣秀吉さらには徳川幕府の庇護のもと栄えた。法然上人は一一三三年に美作国(岡山県)で里の領主漆間(うるまの)時国の一人子として誕生。幼時は勢至丸と呼ばれた。九歳の時に父親が夜襲で亡くなり、その遺言(恨みを晴らすに恨みを持ってすれば、人の世には恨みは無くならない。汝は出家して万民の救われる道を求めよ)に従って比叡山に入山し、その後青龍寺で修業と勉学に励んだ。そして一一七五年に南無阿弥陀仏の念仏を唱えることが仏に救われる道であると確信し、浄土宗を開宗したのである。 北門より入り、方丈へ廻る。まず刈り込みの枯山水の庭を見る。それから知恩院七不思議のひとつである鶯張りの廊下を通って、その廊下の鴨居にかかつている大杓子を見た後、方丈庭園へと下りる。そこには一本の枝垂れ桜が今を盛りと咲き誇っている。青い空に桜の花の桃色が映えて、誠に見事である。この大方丈は江戸初期の建物であるが、ここにはかつて足利尊氏が夢窓国師を開祖とした常在院があったとのことである。大方丈、小方丈前の庭園は当時の庭を受け継いだもので、鉤型に折れた地割りは南北朝の様式と言われる。この庭園は当時の原型の上に、寛永十八年三代将軍家光の時に片桐石見守が方丈を再建、同時に妙蓮寺の僧玉淵坊が量阿彌とともに作庭に加わったと伝えられている。この玉淵坊は江戸初期に活躍した石立僧で小堀遠州とも関係が深く、桂山荘(桂離宮)の作庭にも関わったと言われている。大方丈南庭は大きな池に望んでおり、右手にある大灯籠が目立つ。南庭は川のように思われる池に面しており、左手に青石橋があるのが特徴的である。この橋は紀州徳川家より寄進された青石を用いて造ったものである。石そのものには面白いものがあるが、庭全体としての印象はやや薄い。 小方丈南庭は皐月の低い刈り込みで造られ

青 蓮 院

青蓮院は天台宗総本山比叡山延暦寺の三門跡のひとつであり、天台宗の五つの門跡寺院五ヶ室のひとつでもある。最澄が比叡山を開いた折りに造った僧侶の僧坊の内のひとつが青蓮坊であり、それがこの青蓮院の起源である。鳥羽法皇が十二代座主行玄大僧正に帰依し、平安末期に行玄を第一世として創建。自らの皇子をその弟子としたのが門跡の始まりである。皇子覚快法親王が第二世となりそのあとを嗣いだのが、愚管抄で有名な第三世慈圓である。慈圓は台密の巨匠でありながら法然・親鸞を庇護し、法然の寂後その門弟源智(平重盛の孫)が創建した勢至堂は、慈圓が法然に与えた院内の一坊跡で、これが知恩院の起源となったのである。また親鸞は九歳の時に慈圓に就いて青蓮院で得度しており、その寂後は院内の大谷にて墓と御影堂が営まれたのが、本願寺の起源である。それ故本願寺の法主は、明治まで当院で得度しなければ公に認められなかったという。また当院の脇門跡として、門跡を称することが認められたという。天台宗の祖最澄、そうして天台座主にして当院第三世の慈圓、その庇護を受けた法然の知恩院、親鸞の大谷本願寺と、仏教の大思想の大きな流れが、この地を源流としていることに想いを馳せると、青蓮院の日本仏教の歴史に於ける位置の偉大さがよく判る。慈圓はまた後鳥羽上皇より託された道覚親王を後継とする考えであったが、承久の乱後鎌倉幕府に阻止された。しかし慈圓没後二十年にして、道覚親王は第六世門主となりまた天台座主となったのである。       思 ひでは おなじ ながめ に かえるまで            心 に 残 れ  春のあけぼの        慈圓    見ぬ世まで  思 ひ のこ さぬ  ながめ より           昔にかすむ  春のあけぼの       良経     思 ふこと 誰に のこ して  ながめ おかむ           心にあまる  春のあけぼの         定家   塚本邦雄著の「世紀末花伝書」によれば、これらの歌は六百番歌合の中で、「春曙」として詠われたものという。大僧正慈圓の兄は藤原兼実でありその日記「玉葉」が著名であるが、その子が新古今の華・摂政太政大臣藤原良経である。良経にとって慈圓は叔父であり、後鳥羽上皇を軸とする新古今の和歌のサロンにおいて、二人共に重要な役回りを果