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11月 19, 2020の投稿を表示しています

しょうざん

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  「しょうざん」は鷹ヶ峰の南に位置している。昭和二十三年に創始者・松山政雄が着物の「しょうざん」をこの地に誕生させ、昭和二十六年より大庭園を造り上げていった。この「しょうざん」は、紙屋川に沿って造られている。紙屋川は平安時代には朝廷御用達の紙漉きに使われていた川であり、源氏物語の「蓬生」の巻に紙屋紙でしたためられた恋文が出てくることでも有名である。福徳門より北庭に入る。入ってすぐの処に、樹齢百年以上の北山台杉がある。根本の幹は太く、それが曲がりながら上へ伸びて枝分かれしている、背の余り高くない古松である。紀州の青石も沢山配置されている。茶室玉庵を過ぎて行くと、翔鳳閣の左手より小川が流れて、峰玉亭のほうへと向かつている。酒樽茶室の前を通って、峰玉亭の処に出る。そこより聴松庵の前を通って行くと、梅林の中に唐獅子の石像が見える。曲水を使った回遊式庭園である。紙屋川を挟んで造られた南庭は、川に懸かった紅葉が美しい。山側には五段の滝も造られており、興趣あり。 しょうざん

黄 梅 院

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  次ぎに黄梅院へ向かう。玄関を迂回して細い露地を通って、園内に入る。本院は一五六一年に春林宗俶禅師が創立した庵居黄梅院が前身で、釈尊三十二代目の法孫・弘忍大満禅師の縁の地である中国黄梅県波頭山東禅寺より命名されたという。春林和尚は信長の帰依を得ており、現在の建物は天正十年(一五八二年)の信長の葬儀後、三年余りの歳月を費やして秀吉が本堂、唐門を造営したものである。その後秀吉は小早川隆景に命じて、表門と庫裏を落慶させている。当院第二世の玉仲和尚の時である。玉仲和尚は秀吉の信を受け、山内に大政所のために天瑞寺を創建したそうである。院内には蒲生氏郷及び小早川隆景の御墓所、毛利家菩提寺の石碑もある。 本堂に上がる手前に直中庭がある。利休六十六歳の時の作庭で、秀吉の所望による旗印・瓢箪の池を手前に置き石橋を架けている。枯山水林泉庭園で、大徳寺第二世の徹翁和尚が叡山より持ち帰ったという不動三尊石を正面奥に構え、左手に清正伝承の朝鮮燈籠を配した苔庭の枯山水林泉庭園である。回廊よりの眺めに、迫力あり。 本堂前庭を波頭庭と言う。手前半分を白川砂で多い、その向こうを桂石で仕切って苔を配し、中央奥に石組みを組んでいる。右の石を観音菩薩、左の石を勢至菩薩と見なして、本尊阿弥陀如来は各自の心の内にあるものを拝せよということであるらしい。実に清浄且つ簡素な庭である。 本堂北側には作仏庭がある。枯れ滝の石組みに橋を架け、海に出たところに舟石を一つ置いている。枯れ滝の二つの立石が仏のようでもあり、雄渾な石組みが見事である。この流れが波頭庭の大海へと流れ込んでいる。「心如大海」である。 三つの庭それぞれに趣がある。そして建物の佇まいも極めて清楚である。作仏庭左には茶室があり、その手前に手水鉢と石組みがある。渡廊の左手にまた庭がある。これは茶室に面しており、楓樹が一本のみ紅葉している。茶室の前は小さな茶庭となっており、長方形と円形の飛び石の置かれた苔庭に、刈り込みと燈籠を配しており、これまた風趣あり。 大燈国師の遺墨「自休」を扁額に掛けている自休軒と呼ばれる部屋がある。この名前より「休」を取って、一休や利休の名前が出来ているそうである。利休の師であった武野紹鴎が造ったという昨夢軒と言う四畳半の茶室もある。書院造りの中にこの自休軒や昨夢軒も組み込まれていることより、囲い込み式と言われ

聚 光 院

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  大徳寺本坊の隣にある聚光院へ入る。本塔頭は織田信長の台頭迄京の派遣を握っていた三好長慶の菩提を弔うため、養子義継が笑嶺宗訴和尚を請じて一五六六年(信長入京の二年前)に建立したものである。聚光院は三好長慶の法号である。 方丈内の国宝・四季花鳥図は、狩野永徳二十四歳の作である。永徳は狩野元信の孫である狩野松栄直信の長男で、当院では父親の松栄が北の間を描き、息子永徳に中心となる部屋の絵を任せている。これも松栄が息子の器量と天才を把握していたからなのであろう。上間の間(檀那の間)も永徳の描く琴棋書画図である。松栄は下間の間の瀟湘八景図と北の間の豹虎図、遊園図を描いている。 方丈南庭は苔を敷き奥に水平線上に多くの石を配置した蓬莱式枯山水で、真ん中に石橋を架けている。中央左に松、右手に沙羅(夏椿)の樹を植え、庭の構成を整えている。よく見ると、左側の石組みの中で立てた石が効果的であるのが判る。また松の樹の枝振りも面白いと感ずる。三尊石もまた風情あり。夏椿の樹は右手前の中之島にあるが、この夏の水不足のためか枯れている。石組みのあるところは、やや盛り土が施されている。一面の杉苔は室町時代の趣味を表しているのであろうか。また石橋は檀那の間の琴棋書画の図(これも室町時代のものとしては良く保存されており、力強い筆跡で見応えあり)の中の石橋と、呼応しているそうである。百石の庭と呼ばれ、千利休作とも伝えられるが実際はそれよりは古く、作者不詳である由。  茶室閑隠亭は利休好みで採光を抑えており、三畳台目で客室二畳の上は竿縁天井、点前座一畳の上は蒲天井となっている。これは点前座の天井の材質を低くし、また天井そのものも低くすることで、主人の謙虚さを示すものという。当院開祖・笑嶺和尚は利休の参禅の師であり、利休の墓も当院にある。

芳 春 院

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  本日は秋の特別拝観寺巡りである。 最初は大徳寺の芳春院へ向かう。タクシーで大徳寺境内の北側へ廻り、そこから歩いて境内へと入る。そのコースで入っても、やはり信長の菩提寺である総見院の前を通り、大徳寺本坊の横から芳春院へ入ることとなる。この境内の道は京都の色々なお寺の中でも、最も趣のあるお寺である。 芳春院は一六〇八年に前田利家の夫人である松子が、玉室宗珀和尚(後水尾天皇より直指心源禅師の号を賜った)を開祖として建立。松子夫人の法号より、芳春院と名付けられた塔頭である。建物は一七九六年に全焼したが前田家が再建、明治以降に書院なども建てられている。近衛文麿の学問所でもあり、前田家の墓や片桐石州の墓も境内にある。 方丈前庭は禅院式枯山水の庭である。この塔頭は二十年以上前には常時一般公開されており、訪れた記憶がある白沙の部分が広く、左側に枯れ滝の石組みと滝壺を示す石があり、そこはやや盛り土がしてある。その周りには皐月の刈り込みがある。左手には三重の石塔が置かれている。滝の流れの左にある大石と、左手中央の平たい石が興趣あり。白沙の部分が多く、また刈り込みと樹木がちょうど程良く配されているためか、清浄且つ清楚な女性的な感じのする庭である。右手の枯れ滝に対し、左手にはやや高い樹木を植えてバランスを取っているのもよい。花岸庭と呼ばれ、昭和の名作庭家である中根金作氏の作庭である。庭としては第一級のものといえる。夏には桔梗の花が咲くことで有名であり、「桔梗の庭」とも呼ばれている。 裏庭は京都の名医・横井等怡(とうい)が小堀遠州と謀って、一六一七年に池を掘り橋を架け楼閣を造った。そして玉室和尚が飽雲池、打月橋、呑湖閣と命名して、師の春屋和尚の像を祀っている。金閣、銀閣、飛雲閣と共に、京の四閣と呼ばれている。池もさほど広くないが、右側の石組みなどに趣向を凝らしており、存在感のある景観を見せている。

興 臨 院

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  ついで特別公開の興臨院を訪れる。当院は一五二〇年に能登の守護、畠山義総により建立された。畠山家は足利幕府管領の末裔で、義総の法名より興臨院と名付けられている。開祖は小渓和尚(仏智大師)であり、畠山家没落の後前田利家により修復され(一五八二年)、以降前田家の菩提寺となっている。 庭園は昭和五十年の本堂解体修理の折り、資料を基に復元されたものである。この庭は神仙思想のもと枯山水庭園として作庭され、寒山拾得のいた天台山国清寺の石橋を模し、理想的な蓬莱の世界を表しているということである。石の築山の上に石を一つ配置し、その後ろに紅葉を配している。これが蓬莱山であり、そこより川が流れ、二つの石に架かる天台山の石橋を潜り抜けて大海へ出てくる。中央の石橋の石組みの縦・横・縦と、右側の石組みの横・縦・横、それに左手にある三つの刈り込みが構図を固めている。その左は右の築山の樹木に対し、高い松の木を配してバランスを取っている。右奥を中心とする陸地に対して、左奥まで入り込んでいる海の部分を造っており、その構成が面白い。右側の樹木は貝多羅樹と言い、梵語で「木の葉」と言う意味で、昔はこれに字を書き記したそうである。これより葉書という言葉が生まれたという。東庭は、瓜塚と琴心塔の庭であり、西庭は苔と灯籠のある曲水の庭である。