投稿

12月 19, 2020の投稿を表示しています

縮 景 園(広 島)

イメージ
  有年場の上の展望の良い見晴らし台にある亭を通って、薬草園へ行く。そこから今度は香菜園へ廻る。そこは茶畑の上に満開の桜と桃が咲き誇っている。京橋川沿いに山道を巡って、悠々亭に至る。ここからの跨虹橋の眺めが見事である。濯纓池(たくえいち)には大小十幾つかの島があるが、この悠々亭からは手前に亀の形をした島が据えられており、遠景の跨虹橋とその手前の島、その向こうには数寄屋造りの清風館が望め、園内で最も眺めの良い場所であると思われる。縮景園の地割りは、実際の面積を何倍にも大きく見せるために各部は極めて変化に富んでいて、深山幽谷、広がりのある池の展望、あるいは海浜の景というように、四季の風情と共に変化と統一のある景観を備えている。池の中央に架けられた跨虹橋は七代重晟が橋の名工に二度も築き直させたものであり、小石川後楽園の円月橋、修学院離宮の千歳橋にも似た大胆奇抜な造りとなっている。悠々亭より池畔を歩く。左奥を見ると、三つの土橋が三美人の微笑した唇のごとしと表現されているとおりに、優婉に見える。跨虹橋の廻りを一回りして、それから白龍泉を通り、明月亭の茶室に廻る。そこから古松渓を越えて、夕照庵前の州浜を見る。梅林のそばの調馬場より、桜の馬場へ行きそこから超然居へ至る。ここから見る池泉庭園の眺めもまた見事である。当園は小石川後楽園や岡山後楽園、六義園と比すると、規模は小さく彦根の玄宮園と同じくらいの大きさであるが、様々な変化に富んだ趣向を凝らしており、極めて完成度の高い大名庭園である。 跨虹橋の眺め

縮 景 園(広 島)

イメージ
ほぼ十年ぶりくらいに、この泉庭・縮景園を訪れる。小学校の時の遠足、中学一年生の時の小学校のS先生をかこむ会。それから高校三年生の時の卒業アルバムの記念撮影。そして約十年前の梅の咲いている頃の来園。関西に置いて庭巡りを始めていなかったら、今回もこうしてこの縮景園を訪れることもなかったであろう。 天気は快晴である。 縮景園は広島藩主浅野長晟が、入国の翌年元和六年(一六二〇年)から別邸の庭として築成したものである。作庭者は家老であり、茶人として知られる上田宗箇である。当園の名称は幾多の勝景を聚め縮めたところから名付けられたとも、また中国杭州の西湖を模して縮景したものとも言われている。園内は綺麗に整備されており、天気がよいことから沢山の拝観者が訪れている。入園して右手の桜の咲いている広場の芝生には、お花見弁当を広げている人々もいる。入口の正面に清風館があり、そこに植えられている桃が満開であった。右手に廻って土橋が三つ架かっているところを通って、銀河渓を見る。その上の有年場は、今でも毎年稲を植えているところである。 縮景園

千 鳥 が 淵

イメージ
  大手町よりタクシーで九段の二の丸公園入口まで行く。門に架かる橋の左右は桜が満開であり、まさに桜花のトンネルとなっている。しかし橋を渡って入城すると、意外と桜は少ない。門より再度出て、千鳥が淵に沿って歩く。櫓の下の桜は、傾斜地にあるためか陽光を求めて下方に枝を伸ばしており、濠と土手、石垣その上の樹々と照応して、傾きかけた陽光を浴びて実に美しい。フェアモント・ホテル側の公園には、夜桜を愉しむための場所取りが始まっている。ボート乗り場のある方面まで歩いて、また同じ道を戻りつつ桜を愛でる。橋の左手の方は桜の木が少ないが、こちらは遠く町並みを望むことが出来て風情のある景観である。城と濠と桜は、日本の情景としてよく似合うものである。       「年 々 歳 々  花 相 似 た り      年 々 歳 々  人 同 じ か ら ず」 昔日の武士、町人の愛でた桜を、今こうして現代の我々も同じ思いで愛でているのも、思えば不思議なものである。 千鳥ヶ淵

出 光 美 術 館

出光美術館開館五周年記念・国宝伴大納言絵巻展を見に行く。伴大納言絵巻は、平安前期八六六年、清和天皇の時代に起きた応天門の変を題材としている。これは藤原良房が始めて摂政となった時代のことで、これより前の承和の変では橘逸勢が追い落とされて橘家の勢力が弱まり、この応天門の変では大伴氏の伴善男が政治的に抹殺されて行き、藤原時代が本格的に始まって行くのである。この絵巻のストーリーは下記の通りである。 「内裏の枢要な門の一つである応天門が、何者かによって炎上された。主人公は伴善男(とものよしお)中宮大夫、時の左大臣は源信(みなもとのまこと)、右大臣は藤原良房である。源信の弟の定と弘が大納言となった頃より、伴善男と源信は対立。源定と弘の死により、伴善男が大納言となる。応天門の炎上は伴大納言の讒言により源左大臣の罪とされる。しかし左大臣の罪は晴れる。そして本当の犯人は分からない。ある時舎人の子供と伴家の出納(しゅつのう)の子供とが喧嘩をする。出納が、舎人の子供を足蹴にする。怒った舎人が、応天門炎上の夜の伴家の不審な行動を暴露する。そして舎人は検非違使庁で尋問され、伴大納言は逮捕される。」 絵巻の感想は、まず絵巻の縦巾が思ったより大きく、ひとりひとりの人物のフォルム・表情をしっかりと捉えて描き上げているということである。人物の輪郭の描き方の丁寧さ、その線の絶妙な濃淡と太さ細さの妙。三大火焔表現の一つとされる紅蓮の炎と黒い闇の使い分けの見事さ、その色彩は保存が極めて良くまた配色のバランスは素晴らしい。色彩を上手く利用して立体感を出しており、描写の正確さと躍動感などの動きの表現は飛び抜けているように感じた。又時間の推移を途中に樹木などを描くことで示す方法なども、印象的であった。こうした絵巻物には、常日頃余り関心がないが、この絵巻については流石国宝だけのことはあると感じた。  

彦 根 城

イメージ
  昔ながらの格子戸造りの家並みとなっているのには驚かされた。本町一丁目の「いと重」で、名菓「埋もれ木」を買い求める。これは井伊直弼縁の、埋もれ木の舎からその名を取ったものである。お茶請けにうってつけの、上品なぎゅうひと餡の和菓子であった。 彦根城博物館の中で見た三夕和歌色紙の歌は、次の通りである。      寂しさは その色としも なかりけり           槙立つ山の 秋の夕暮     寂蓮法師    心なき 身にもあはれは 知られけり           しぎ立つ沢の 秋の夕暮    西行法師    み渡せば 花も紅葉も なかりけり           浦のとまやの 秋の夕暮    藤原定家 玄宮園より彦根城を望む

彦 根 城

イメージ
  太鼓門櫓を潜り登り切ると、天守閣の処に出る。この天守閣は明治十一年の城郭撤去の折、その寸前に大隈重信が視察し、その名城の消失を惜しんで明治天皇に奏上し、天守閣の撤去を免れたという。現存する天守閣としては、五層天守最古の松本城、日本最古で信長の叔父信康の造築した犬山城、そして姫路城とこの彦根城が国宝四城として残っている。天守閣は大修理中でその外観もよく見ることが出来なかったが、天平櫓の展示物に依れば、東南の正面屋根は千鳥破風(切妻入母屋)で、二層の屋根は唐破風、一層が又千鳥破風で左右に小さな切妻の屋根が付いている。窓は宋風(唐様花頭窓)で、横に見える屋根は三層目がやや下がり気味で、二層目は上へ反り上がり、一層目も反り上がっている。そのため構成がややアンバランスに見えるが、南面から見るとずっしりと落ち着いたバランスの取れた、しかも優美なスタイルとなっている。この造りは唐破風と千鳥風を縦横に駆使したことにより、意匠的に技巧に富んだ華やかな天守閣となっているとの説明あり。石垣の積み方も一見雑に見えるが、石の大きな面を内にし、小さな面を表に出した頑丈な組み方だそうである。天平櫓の処まで戻って、大手門方面より京橋に出る。 石段より天守閣を望む

彦 根 城

イメージ
  表門を潜ると、石で端を固めた割と急な段があり、江戸時代の武士もこの坂を登って登城していたのだなと思う。天平櫓前の橋の下を潜って又段を登ると、鐘の丸広場である。そこにある茶店で蕎麦を食べる。天平櫓を潜って登って行くと、聴松庵と時報鐘がある。 天平櫓前の橋