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12月 18, 2020の投稿を表示しています

彦 根 城

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  玄宮園より歩いて表門に向かう。その手前にある厩と佐和口多聞櫓を用いて、展示館としている。現在天守閣は修理中なので、そのかわりにここが展示館として使われているようである。その展示館を見た後、表門橋をわたって城内に入る。 彦根城は、徳川四天王の一人である井伊直政が、関ヶ原の戦いの功績によりその報償として、石田三成の居城佐和山城を与えられたことに端を発する。井伊家はもともと静岡県の井伊谷に在していたが、その後上野国高崎城(箕輪城)に移封された。従ってこの彦根は井伊家にとって二度目の移封になる。井伊家の当主直政が移封後一年で、戦いの傷がもとで没したので、その子直孝が一六〇三年に築城に着手し、約二十年を経て完成されたお城である。天守閣は大津城から、また天平櫓は長浜城から運び込まれたという。 お城のパンフレットによれば、井伊家の祖先は藤原氏とのことで、平安中期の一条天皇の時に、遠江守に任ぜられた藤原共資の子共保に始まっているとのことである。井伊直政は遠州井伊谷で十五歳の時に徳川家康より二千石を賜り、十六歳のときの初陣の功で一万三千石に、二十二歳の武田征伐で四万石。三十歳で上野国箕輪城主十二万石、そして佐和山城主となった四十一歳の時は十八万石を授かっていた。その後二代藩主直孝が大坂冬・夏の陣で武功をたて、三十五万石彦根藩主となったのである。 彦根城 表御殿庭園

玄 宮 園

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  彦根城の外濠は琵琶湖と繋がっており、車はまずその外濠に出る。そこからいろは松のあるところを通って佐和口より入り、内濠沿いに玄宮園に向かう。このあたりは城下町の風情が充分に残っており、興趣あり。 玄宮園は井伊家四代城主直興が一六七七年に槻(つき)御殿の一部として着手したもので、完成は一六七九年である。これは四代将軍徳川家綱の時代で、同時代人としては少し前に小堀遠州、楽三代のんこう、柿右衛門、石川丈山、片桐石州、狩野探幽、千宗旦、隠元、野々村仁清がいる。また井原西鶴や松尾芭蕉が活躍していた時代といえる。同時期には奈良慈光院の茶室、丸亀城、高松城、松山城、閑谷学校が出来上がっている。この玄宮園は殆ど同時期に造園された岡山の後楽園と同じく、池泉回遊式の大名庭園として、城郭より内濠を隔てた場所にあり、中国湖南省の瀟湘(しょうしょう)八景に模して作庭され、唐の玄宗皇帝の離宮の名を取ったということである。池には神仙島が作られ、鳳翔台の建物が池に面している。その対岸よりの眺めは、池に面した鳳翔台その向こうに天守閣と城山が望まれ、まさに絵となる景観である。しかし池とこの建物が中心の庭園であり、岡山の後楽園のごとき多様さはない。またその奥の楽々園(槻御殿)は、現在は料亭として使われており、有名な枯れ池を玄宮園側より覗いたのみに終わった。 玄宮園

龍 潭 寺

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  方丈には石田三成の生涯についての説明の額が並んでいる。秀吉が長浜城主の折りに鷹狩りで佐吉(三成の幼名)に出会い、その後官僚派の近江閥として出世するが、慶長五年九月十五日の関ヶ原の戦いで敗れ、同十七日には佐和山城も落城し、父兄妻など一族郎党が自決。伊吹山に逃れていた三成も捕らえられて、大阪・堺を引き回しの上、今日の六条河原で切腹。大徳寺三玄院に葬られている。関ヶ原の戦いは三成が敦賀城主大谷吉継と謀り戦火の火蓋を切ったが、小早川秀秋が寝返って大谷軍を攻めたことから徳川の勝利となったもので、こうして見ると歴史は本当に一つ一つに事件の積み重ねで、結果は大きく変わって行くものなのだということを感じる。       散り残る 紅葉は殊に いとほしき             秋の名残りは こればかりとぞ                      「残紅葉」 石田三成の遺墨 書 院東庭は鶴亀蓬莱の池泉鑑賞・回遊・借景庭園であり、桃山時代の作庭を偲ぶことが出来る。小さな池の左手に鶴亀の島があり、右手の池のなかに飛び石がある。その右奥に石橋があり風情がある。池の奥は山の斜面を利用し、刈り込みと共に多くの石を配置しているのが特色である。斜面の東隅は石垣としている。井伊直弼がこの池泉庭園を詠じて、        世間に すむとにごるの あともなく              この池水の いさぎよきかな   と詠んでいる。方丈の襖絵は芭蕉門下の十哲の一人、森川許六の筆になるものである。またこのお寺にある有名な楊柳観音像は、毎月十八日にのみ開扉することとなっており、残念ながら見ることは出来なかった。 龍潭寺にて達磨のお守りを買い、タクシーを呼ぶ。隣には石田三成の家老であった島左近の邸宅趾をお寺とした清涼寺があるも、これは訪れるのを止めて、玄宮園へと向かう。 龍潭寺 書院東庭

龍 潭 寺

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  山道を降り、龍潭寺へと下る。正門をまっすぐに入ると、県の青少年会館があり、その右手奥にお寺の入り口がある。東寺の正式名称は弘徳山龍潭護国禅寺と言い、臨済宗妙心自派のお寺であり、パンフレットには「達磨の寺」「庭の寺」との名称も記されている。井伊大老の生母の墓があると共に、石田三成の居城・佐和山城の麓にあることから、石田三成縁の地とも記されている。開山は無相大師である。堂内に書かれている説明文によると、釈迦の正法は禅宗の始祖達磨大師に受け継がれ、それが宗祖臨済禅師に受け継がれたとしており、それが日本に渡来して臨済宗妙心寺派のこの龍潭寺の開山無相大師に脈々と流れているというのである。開山無相大師の御遺戒は「請う、その本(もと)を務めよ」である。当寺そのものはその昔天平五年(七三四年)に行基により、静岡県引佐郡井伊谷に開基されたという。その後一〇九三年に井伊家の始祖井伊共保公の菩提寺となり、一三三七年花山天皇の勅願で、開山無相大師が創建。その後後醍醐天皇の第三皇子宗良親王が中興し、かの中国濫陽の龍潭にあやかって寺号とした。一六〇一年に井伊直政公が高崎から当地に移封された折りに、開山昊天禅師によりこの龍潭寺も移建されたという。一方静岡の龍潭寺も、そのまま残っているとも言う。 方丈の南庭は、石庭補陀落(ふだらく)の庭と呼ばれている。手前の白沙の海に三つの石組みの島があり、中心は補陀落山となっており、その右手に船石がある。右の石組みには、灌木が添えられている。白沙の奥は大陸となっており、右手の奥の石組みの側の小さな樹木がひっそりと立っており、これもまた愛らしい。正面奥と右手は生け垣で区切られており、その向こう側には樹木が植えられている。正面の生け垣のところに柱があるのは、何か理由があるのであろう。左の生け垣の奥は紅葉が植えられており、左側面は高床の渡り廊下となっている。右側面の生け垣の奥には、大きな古木がまるで昇竜のごとき三本の大きな枝を広げている。二本の枝は庭に懸かるかのごとく左に傾斜しているが、残りの一本の枝は左方へ登っている。当庭園は園頭教学(造園学)の淵源となった龍潭寺衆寮(禅宗大学寮)学僧の造園学実習庭園として、開山の昊天禅師により作庭されたものである。境内には庭園の始祖夢窓国師及び小堀遠州の供養塔、また庭園史上の先賢を奉祀する庭聖殿もある。ふだらくの庭は仏殿・経堂