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11月 23, 2020の投稿を表示しています

蓮 華 寺

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  妙満寺より、高野八幡の蓮華寺に行く。この寺は加賀前田家の家臣が再興したお寺である。その最高の折には、石川丈山・狩野探幽・木下順庵・黄檗の隠元禅師・木庵禅師などが協力している。お堂に入って、お庭を拝観する。今日はあまりに天気が良すぎて、かえって庭の景色が露出過多になってしまう。やはり庭というものは、どちらかと言えば曇りか雨の日のほうが風情があるようである。門内の庭の紅葉が、逆光で見事なので写真に収める。

妙 満 寺

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  妙満寺は日蓮宗の一派の顕本法華宗の総本山である。そしてこの寺の開基日什上人は、もともと天台宗の人で比叡山三千の学頭にまでなった玄妙能化である。彼は六十七歳の時に日蓮上人の教えに帰依して改宗し、自解仏乗して名を日什と改めて日蓮門下になったという。日蓮上人は釈迦牟尼仏に帰一することを説いており、日什上人はこの日蓮の教えを時の帝、御円融天皇に上奏し「洛中弘法の綸旨」を得ている。そして室町初期の一三八九年に京都の室町に草庵を造り、「妙塔山妙満寺」の号を立てて根本道場とした。その後妙満寺は洛中に寺域を変えながら興隆してきたが、室町後期の一五三六年に二十一坊を誇る大伽藍は天台宗比叡山の僧徒によって焼き打ちに合い、一時泉州堺に逃れた。その後また元の地に復興したが、秀吉の時代に寺町二条に移転された。明治維新の蛤御問の変に端を発した「どんどん焼け」の大火によって、長州屋敷のすぐ側にあった妙満寺は、塔頭十四ヶ院と共に七堂伽藍悉く烏有に帰したという。明治以降徐々に復興したが、今次大戦による強制疎開で塔頭全部を失ってしまった。そして昭和四十三年に現在の岩倉の地に移ってきたのである。 入山すると正面に大本堂があり、その左手に仏舎利大塔が建っている。これはインドのブッダガヤ大塔を模したものである。ブッダガヤ大塔は、釈迦牟尼仏が覚りを開いた地に、紀元前二百年頃にアショカ王が建てた供養塔で、仏教の最高の聖跡と言われている。日本のお寺としては珍しい建造物であり、一階正面には釈尊の座像を安置している。そして最上階には、当時が古来格護してきた仏舎利が安置されているという。 堂内に上がる。この寺は実際にまだ活動しているお寺だとの印象を受ける。最初に「雪月花三名園」の内の一つと言われる「雪の庭」を見る。この庭の築庭は、俳句の祖と仰がれる松永貞徳によるものと言われている。松永貞徳(一五七一―一六五三年)は、連歌から発生した俳諧を完成させ、後の俳聖松尾芭蕉にも多大の影響を及ぼしたと言われる。貞徳は寛永六年に当山を会場として始めて正式な俳諧大興行を執り行い、爾来俳諧は公式の文芸として世に登場することになったという。貞徳はこの庭のほかに清水の成就院の月の庭、北野の成就院の花の庭を造っており、「三成就院の雪月花の庭」として並び称されたが、今は「花の庭」は残っていない。比叡の霊峰を借景とした枯山水の庭である

実 相 院

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  実相院門跡は、当初紫野にて鎌倉時代の初期に開創されたお寺である。開基は鷹司兼基の子、静基(じょうき)僧正と言う。ご当地に移ってきたのは、室町時代の足利義満の頃である。その後兵火で伽藍の多くを消失したが、江戸初期の第十七世義尊僧正の時に、皇室と徳川家光の支援により再建・復興した。義尊僧正のあとには、後西天皇の皇子義延親王が入室され、以後法灯は代々皇孫を持って継承されるようになった。明治になって皇族の入室は廃止され、昭和に入ってからは天台宗から独立して単立寺院となっている。 門構えは流石門跡寺院だけ合って、立派である。東山天皇(在位一六八七―一七一〇年)から四脚門・御車寄せ・客殿を賜ったという。御車寄せに上がると、右手に使者の間がありそこに狩野永敬筆の「七仙人の図」および「四季の草花」「紅梅下の鶏」などが展示されている。最初に客殿に行き、「一仏八僧の庭」を見る。往時は蹴鞠の庭であったのを、明治時代に現在のように作庭し直したようである。釈迦が伽邪園において八大弟子に華厳経を説いた構図を表しているとのことである。左手奥の楓の紅葉が、暮れなずむ気配に沈潜していくような印象を受けた。客殿の裏に回ると、そこには池泉回遊式庭園がある。善阿弥の孫の庭師又四郎が作庭したものという。まず無難な庭であるが、印象に残るものは少ない。離れ書院等を廻るが、夕方なので部屋の中は暗くなってきており、足早に見終わる。

源 光 庵

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  山門の上に銀杏の木が垂れ下がっており、これが逆光となってまぶしいほどの金色の光景を作り出している。Oさんが見つけ出したアングルで、何枚か撮す。それから本堂に上がって、お庭や「迷いの窓」「悟りの窓」を見る。角窓の「迷いの窓」は人間の一生を象徴して「生老病死四苦八苦」を表し、丸窓の「悟りの窓」は大宇宙を意味する円形の中に「禅と円通」の心を表すという。ここへ来たのは今回で三度目であるが、その中で前二回は薄曇りであったが、今回はまさに晴天である。しかしあまりに天気が良すぎると、光が強すぎて景色がトんでしまいそうである。 源光庵 紅葉

源 光 庵

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  そこから歩いて、源光庵に立ち寄る。このお寺の正式名称は鷹峰山樹林源光庵と言い、もともとは臨済宗大徳寺派のお寺として一三四六年に創建されたが、元禄時代(一六九四年)に加賀の国より曹洞宗の復古道人卍山(まんざん)道白禅師が当寺に入山し、爾来曹洞宗となっている。 源光庵 悟りの窓

光 悦 寺

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  回廊の下を潜って境内に入り、一巡する。光悦作庭の池の側には、茶席三巴亭がある。そこから進むと光悦垣(臥牛垣)のある大虚庵茶席である。そしてその先には了寂軒茶席がある。そして見晴らしの良いところに立っているのが本阿弥庵茶席という。これ以外にも徳友庵茶席、騎牛軒茶席などがある。ここの紅葉は思ったより楓が少なく、寂しい感じがする。光悦垣などを撮す。 光悦寺 太虚庵

光 悦 寺

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  光悦寺もまた沢山な人出であり、門前の紅葉の回廊も人出で溢れている。この光悦寺は本阿弥光悦が、徳川家康から賜った鷹ヶ峰の地にあり、光悦はここに一族縁者や工芸の職人と共に住居を構え、工芸部落を営んだ跡地にある。光悦の没後、日蓮宗光悦寺となったものである。 光悦寺 参道