投稿

11月 17, 2020の投稿を表示しています

<洛 北> 正 伝 寺

イメージ
立原正秋の「日本の庭」に書かれていた正伝寺に向かう。阪急の十三より快速で四条烏丸に出る。そこよりバスで堀川通りを上ったが、途中で方角の違うことに気付き下車する。そしてやむなくタクシーに乗り、正伝寺の山門に到着する。山門を入ると川が流れており、折からの小雨で林の中は薄暗い。参拝客は誰もおらず、一人その参道を登って行く。右手には土木工事の作業場のような物もあり、かなり風情に欠ける。 正伝寺は正しくは正伝護国禅寺と言い、臨済宗南禅寺派のお寺として、鎌倉時代に東厳慧安禅師により創立された。皇室のご信仰厚く、五穀豊穣・国家安泰を祈願する道場として、法灯七百年あまりの歴史を有するお寺である。お寺の入口も簡素であり、先客は誰もいない。入口より上がるとすぐに方丈の廊下につながっており、小堀遠州作と言われる江戸初期の「獅子の子渡しの庭園」が眼前に広がってくる。方丈の襖絵は淡彩山水画で、狩野山楽筆による中国杭州西湖の真景である。大変な名画なのであろうが、どうも襖絵には惹かれるものが少ない。広縁の天井は、関ヶ原の戦の直前に落城した伏見城の廊下の板張りを用いており、徳川方重鎮鳥居彦衛門元忠以下千二百名の自刃の跡を残す、血塗りの天井である。この寺以外にも、京都の寺のいくつかに伏見城の血塗りの天井が造られているようであるが、あまり気持ちのよいものではない。庭園のほうは白砂敷き平庭で、躑躅の刈り込みが右手より七五三と置かれて、その後には白壁の塀があるのみのきわめて簡素な庭である。しかし壁の彼方にある樹木が、逆三角形の空間を創り上げており、その空間の中央に比叡山の霊峰が聳え立つ構図となっている。折しも小雨が煙り、比叡山はその姿を雨雲の彼方としていたが、庭にじっくりと対峙していると、幸いなことに急に雲が薄れ、比叡山の姿が現れた。白沙、躑躅の刈り込み、白壁、雨で瑞々しさを増した樹木の緑、そしてその青緑色の峰を時折雲間より垣間見せる比叡の霊峰。まさに墨絵の如き世界であった。正伝寺よりは歩いて神光院の近くまで下り、その辺りの喫茶店で昼食を取る。それからバスで大徳寺へと向かった。 龍安寺 石庭  

将 軍 塚

イメージ
  むかし桓武天皇が平安京を開かれるにあたって、都の鎮めの意味で武将の像を埋めた塚をこの地に築かれたのが、将軍塚の始まりと伝えられている。その後の平安時代は密教が栄え、大日如来を中心とする世界観が世人のものとなったが、この大日堂の地で明治の初めに発掘された石像大日如来像は、京都のこの地を中心とする大曼荼羅世界を日本全国に当てはめて造られたことを示すものと考えられている。カンボジアのアンコールワットや中部ジャワのボロブドールなどと同様に、広大な辺際のない大曼荼羅世界を構築しようとしたものだという。苑内を廻って、紅葉を愛でる。ここは標高もやや高く朝夕の冷え込みも厳しいのであろうか、紅葉が見事で特に紅の色が濃いように思われる。展望台より京都市内を眺望する。望遠で見ると、ちょうど真北に五山送り火の「妙」と「法」の二つが並んで見える。以前比叡山観光ホテルのあたりから京都市内を遠望したことがあり、それよりは低い位置ではあるが京都の町をほぼ真横から見下ろせる絶好のポジションである。 将軍塚の紅葉

将 軍 塚

イメージ
  源光庵を見終えて外に出ると、都合良くタクシーが乗客を降ろしている。それでそのタクシーを捕まえて、お昼をすでに廻っていることもあり南禅寺あたりで湯豆腐でも食べようと思い、その旨運転手に告げると、南禅寺あたりはもう人出で車も動かないとのことである。そして写真を撮るなら人出の少ない将軍塚がお薦めだと教えてくれる。そこでお昼はもみじ狩りのあとにすることとして、将軍塚に向かう。 将軍塚は三条蹴上げから九条山に登り、東山ドライブウェイを途中まで南下したところに位置する。ここに来るのはもちろん始めてである。タクシーを降りると、運転手さんが入り口まで案内してくれる。入り口には青蓮院門跡、将軍塚大日堂とあり、ここの地も青蓮院の地所であったようである。しかし苑内に入ると、そこは公園のような造りとなっており、庭園や見晴らし台が造られている。この将軍塚の由来は、次の通りである。 将軍塚

永 観 堂

イメージ
  時間も迫ってきたので、同窓会の開かれる二条苑へと向かう。旧O外国事務課の同窓会は正式には昨年の十二月に続いて二回目であるが、今回は東京のメンバーにも声をかけて総勢四十名余りが集う。二条苑での昼食と庭園での記念写真の後、出町支店にいたO君の紹介のスナックに行く。そこで夕方まで歓談・唱歌する。三次会は十数名で京都ホテルの喫茶店に行く。そして最後には数名で先斗町の寿司屋で四次会の打ち上げとした。京都プラザホテルに泊まる。 永観堂 庭園

永 観 堂

イメージ
  門前にある紅葉を写真に撮った後、境内に入り四阿(あずまや)より紅葉を鑑賞、幾葉かの写真を撮る。その後堂内に上がり、中庭・釈迦堂前庭を見てそれから急な階段を上って本堂に行く。本堂内は薄暗くほのかな燈明の灯りのなかに、有名な「みかえり阿弥陀」を拝む。その後右手に廻るとちょうど「みかえり阿弥陀」の側に立つことが出来るようになっており、間近より「みかえり阿弥陀」を拝することが出来た。そのお顔は童子がそのまま大人になったようなあどけなさを残していながらに、しかも高貴さを湛えたお顔であり、数見た仏様のなかでも極めて印象深いお顔であった。御堂より出て、境内を散策しつつ紅葉の写真を撮る。 永観堂 額縁の窓

永 観 堂

イメージ
創建に当たって真紹僧都は「禅林寺清規(しんき)」に「仏法は人によって生かされる。従って我が建てる寺は、人の鏡となり薬となる人づくりの修練場であらしめたい」と願っている。ために当寺は爾来数多くの指導的人材を輩出している。なかでも歌人としても知られる永観(ようかん)律師(一〇三三―一一一一年)が、とりわけ有名である。永観律師は自らを「念仏宗永観」と名乗るほどに彌陀の救いを信じ、念仏の道理の基礎の上に様々な救済活動に尽力したという。当時の禅林寺は、南は粟田口から北は鹿ヶ谷に至る東山沿いの広大な寺域を持っていた。その中に律師は東南院という施療院を建てて窮乏の人達を救い、その人達の薬食の一助にと「悲田梅」と名付けた梅林を設けたりしている。      みな人を 渡さんと思う 心こそ           極楽にゆく しるべなりけり                        永観律師  「千載集」 ある朝永観が一心不乱に念仏行道をしていると、本尊の阿弥陀仏が壇上より降りて、先導するように行道を始められた。永観は夢ではないかと不思議の想いに立ち止まると、それを見とがめられた阿弥陀仏が左に見返りつつ、「永観おそし」と呼び掛けられたという。永観はふと我に返って、目の当たりに顧みておられる尊容を拝して、「奇瑞の相を後世永く留めたまえ」と願うと、その願いが聞き届けられたという。お寺のパンフレットには次のように英文での説明が入っている。   In the early morning on February 15, 1082, Eikan was 50 years old and was walking around the platform of the image, praising Nenbutsu (Nam-Amida-butsu) as an ordinary religious service in a temple, where the air was freezing cold. All of a sudden, the image walked down from the platform and begun to lead Eikan. Eikan was so astonished that he could not keep walking.

永 観 堂

イメージ
  今日は旧O外国事務課の同窓会の日である。昨日来阪された O さんを迎えに、日航ホテル大坂に行く。昨日は富士トータルサービスのSさんと三人で、堀江寮にて小宴を開き、その後は日航ホテルのスカイクルーザーで歓談をさせていただいた。 O さんとホテルの二階ロビーで落ち合い、JRの新快速で京都に着く。同窓会開始の十一時半までしばらく時間があるので、永観堂の紅葉を撮りに行く。 流石に紅葉の永観堂だけあり、朝の十時と言うのにもう大変な人出である。総本山禅林寺永観堂は弘法大師の弟子であった真紹僧都(七八七―八七三年)により創建された。次の歌は真紹僧都の徳を慕って、自らの別荘を寄進した藤原関雄の詠んだものである。   おく山の 岩がき紅葉 散りぬべし           照る日の光 見る時なくて                  藤原関雄 「古今集・秋下」 永観堂の紅葉

六 道 珍 皇 寺

イメージ
  六波羅密寺より清水道に抜ける途中に、六道珍皇寺(ろくどうちんのうじ)があるので、これに寄ってみる。門前は昔此の世とあの世を分ける場所であったと言い、毎年八月のお盆前に六道参りが行われていると言う。これはお盆に帰ってくる精霊を、鐘を打って迎える行事である。境内の閻魔堂には、閻魔王座像と小野篁立像が安置されている。 どこかでお昼を撮ろうと思って清水道から八坂神社の方に上がる。ちょうど八坂神社の前に、いず重という鯖寿司の店があるので、そこに入る。鮎寿司を進められて食べてみると、これはなかなか美味しい。他にはもを取る。そのあと京都近代美術館で展覧会を見て、そこから六角堂に行く。 龍安寺 石庭

六 波 羅 密 寺

イメージ
  豊国神社より北上して、五条通りを越えて、六波羅蜜寺に着く。この寺は天暦五年(九五一年)に、醍醐天皇第二皇子光勝空也上人により開創された、西国十七番の札所である。上人は当寺京都に流行した悪疫退散のために、十一面観音を刻み、御仏を車に安置して洛中を引き廻り、青竹を八葉の蓮弁の如く割り、中に小梅と結び昆布を入れ仏前に献じたお茶を病者に授け、歓喜踊躍(かんきゆやく)しつつ念仏を唱えて、ついに病魔を鎮められたという。上人は叡山で大乗戒を受けておられるが、森羅万象に生命を感じ、ただ南無阿弥陀仏を唱え、今日あることを喜び、歓喜踊躍しつつ念仏を唱えた。そして上人は常に市民の中にあって伝道に励んだので、人々は親しみを込めて「市の聖」と呼び慣わしたという。上人の没後も、当寺は天台別院として栄え、平安末期には平家一門がこの六波羅に邸宅を構えた。しかしその後平家没落の折に、兵火をうけ諸堂は焼失している。現本堂は、南北朝時代の修営になるものであるが、昭和四十四年に解体修理を行っている。従って、この本堂は近代になってからの建造かと思われるほどである。 このお寺の名称となっている「六波羅密」とは、次の六つを意味する。   「布施」応分な施しを為し、そして施したことを心に留めないこと。 「持戒」人の作った道徳・法律・条例などよりは、一段とレベルの高い高度な     常識で、いかなることにも対処できるよう、自らを戒めること。 「忍辱」辱めに堪え忍ぶならば、すべての人の心を心とする、仏の慈悲に通ずる     ことが出来る。 「精進」人はその立場立場で不断の努力を行い、誠心誠意尽くすことが必要で     ある。 「禅定」静かな心で自分自身を客観的に見、反省すること。 「智慧」助け合い、ルールを守り、堪え忍び、励み、自己を見つめ、苦楽を乗り     越えて、どちらへも偏らない中道を、此の岸から、彼の岸―彼岸へ -----         菩薩へ、完成へ。 本堂を拝んだあと、宝蔵庫へ行き、まず空也上人像を拝する。空也上人像は何度も写真でお目にかかっているが、実物を見るのは初めてで、思ったより小さく且つ写実的な仏像であることに驚いた。墨染めの衣を纏い、胸に金鼓を掛けて、右手に撞木を、左手に鹿の角の着いた杖を持っている。顔つきは尋常ではなく、明らかに