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11月 13, 2020の投稿を表示しています

南 禅 院

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  疎水沿いの最勝院をのぞく。低い幹の楓の古木あり。ついで南禅院へ行く。この南禅院は亀山天皇(鎌倉中期、一二六〇年頃在位)の離宮、禅林寺殿の遺跡であり、南禅寺発祥の地である。庭園は鎌倉時代末期の代表的池泉回遊式庭園であり、周囲を深い樹木で包まれた幽邃閑寂の趣格別である。作庭は亀山法皇とも夢窓疎石(一三五一年没)とも言われ、天竜寺・苔寺と共に京都三名勝史跡庭園の一つである。 方丈正面から右手にかけて山畔を利用した庭であり、正面に上池(曹源池)があり龍の形になっているという。中央に蓬莱島と亀島あり。その池の左奥には滝口の石組みがあり、奥深い山の上から滝が連なって落ちているように見える。方丈右手には下池があり、ここには心字形の島がある。記録によれば築庭当初は吉野の桜・難波の葦・龍田の楓などが移植され、井出の蛙も放たれたという。池手前のすすきが秋の風情を醸し出しており、方丈のなかでは茶事が行われていたようである。 左手より滝口へと向かう。方丈正面から見たときには、滝は高みから連なって落ちていたように見えたがそれは目の錯覚であり、実際は山畔の中程に石組みで滝をかたどり、水を取り入れているのであった池の裏側の幽暗な景色を見ながら、上池と下池の間に架かる橋を渡る。濃い緑と紅葉が程良く配合された、美しい秋色を愉しむことが出来た。 南禅院 庭園
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南 禅 寺 本 坊

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永観堂より南禅寺に向かう路も、また風情がある。湯豆腐を食べさせる聴松院の前を通って、南禅寺の山門のところに出る。山門の楼上にも、沢山の人が登っている。当寺は瑞龍山太平南禅禅寺と正称し、臨済宗南禅寺派の大本山である。鎌倉時代の半ば過ぎの一二九一年に亀山法皇が自らの離宮を施捨して開山仏心大明国師に創建させたものである。 臨済宗の各派本山の創建時は、次の通りである。建仁寺が一二〇二年、南禅寺が一二九一年、大徳寺が一三二四年、(室町幕府一三三六年)そして相国寺が一三八二年である。南禅寺は諸堂・伽藍を完成した二世南院国師を創建開山としている。初めは龍安山禅林禅寺と号したが、その後すぐに瑞龍山太平南禅禅寺と改称した。 山門は天下龍門と号し、上層の楼を五鳳楼と呼ぶ日本三大門の一つとして有名である。現在の門は藤堂高虎が大坂夏の陣で倒れた将士の菩提を弔うために再建したもので、石川五右衛門の「絶景かな」の伝説で有名となっている。 「絶景かな、絶景かな。春の詠め(ながめ)は価千金とは、小さなたとえ。 この五右衛門の目からは万両。最早、日も西に傾き、誠に春の夕暮れの桜は、 取りわけ一入一入ハテ麗かな眺めじゃなぁ」                      歌舞伎「楼門五三楼」より  山門を見上げた後、南禅寺本坊の方丈へと入る。狩野探幽、永徳等の金色の襖絵が立ち並んでいる。書院より方丈(清涼殿)の広縁に出る。正面に坐って、庭を観賞する。白沙の敷かれた庭の右端には、七つの刈り込みがある。庭全体の三分の二を右から楓、椿、松の三本の木で分割し、左手に親虎を思わせる大きな石を配し、それから右側へ五つの石つまり子虎を配している。三本の木の高さは左の松、ついで右の楓そして中の椿の順であり、それらの間に配された刈り込みが優しい印象を与える。大きな石はいずれも肌色、灰色、白色の斑模様の石である。手前の亀のような石の形が面白い。平面のみを表に出した石が、どの庭に於いても興趣あるのは何故であろうか。石の殆どが土の中に埋まっているということは、重心が地下にあることを思わせ、見る人に安定感を与えるためであろうか。また三本の木で三分されているのは、蓬莱、方丈、瀛州(えいしゅう)を表しているのかもしれない。日が陰ってきたかと思うと、時雨が降り始めた。庭の観賞には晴天より曇天、それよりも時雨て

永 観 堂

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  真如堂の正門より出て左へ曲がり歩いて行くと、黒谷さんへ出る。平安神宮と岡崎公園の間の路を東行すると白川沿いの路に出て、永観堂へと着く。流石に京の紅葉の名所と言われるだけあって、大変な人出である。 当寺は弘法大師の弟子真紹が開き清和天皇より禅林寺の名を賜ったが、中興開山の永観の徳を偲んで永観堂と呼ばれている。本尊は「見返り阿弥陀」と呼ばれ京都六阿弥陀の一つである。臥龍廊と呼ばれる屋根付きの階段廊下を登ると、幸せに恵まれるとのことである。紅葉は見事であったが、如何せん人出が多すぎてゆっくりと紅葉狩りを味わうことは出来そうもない。それで苑内を簡単に見て回って、早々に退散する。 永観堂の紅葉