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12月 14, 2020の投稿を表示しています

秋 篠 寺

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本堂の中には麗しの伎芸天が待っておられる。頭部は天平時代の作で乾漆彩色造りであり、体部は火災にあった後鎌倉時代に寄せ木造りで造られており、像高二メートル余りの仏様である。密教の経典によれば、この伎芸天は大自在天の髪際より化生せられた天女で、衆生の吉祥と芸能を主催し諸技諸芸の祈願を納受し給うと説かれているそうである。古くは各地にて信仰されたと思われるが、現在残っている伎芸天は当寺の一体のみであるという。 天部の由来は次の通りである。天部は仏教以前からインドにあったバラモン教・ヒンズー教の神々を取り入れて守護神としたもので、本来天界に住むので天と呼ぶ。天部の諸像は様々で甲冑を着けた神王形の天部と、天衣を纏う天女形の天部とがある。神王形としては四天王・十二神将・金剛力士・梵天・帝釈天(女性的服装の下に甲を着ける)・大黒天などがあり、天女形には自然が神格化された吉祥天・弁財天・日天・月天・伎芸天・鬼子母神などがある。一般的に男性の天は甲冑を着けその下に上衣・股下衣・裳を着け沓を履いて足下に邪鬼を踏みつける姿が多い。また女性の天はひれ袖の付いた長い袂の上衣を着け下着と裳を纏って沓を履くという姿が多い。これ以外にも天竜八部衆の夜叉や迦楼羅(かるら)阿修羅などと共に、男女二天(夫天が象頭、婦天が猪頭のものもある)の抱擁する形姿の歓喜天(聖天)などの異類の姿を示している天部もある。これらの諸天は仏教の守護神という性格から、やがて人々に現世の後利益をもたらす神として信仰されるようになったという。 天平時代の仏像は一時代前の白鳳時代に伝えられた初唐系統の様式を、我が国人の感覚に形を整えて造られたものが多いと言われている。この伎芸天もその影響からかお顔がかなり日本的になり、白鳳期の仏像よりもより人間に近い容貌となっているように思われる。この時代の代表的な仏像としては、東大寺法華堂の不空羂索観音、日光・月光菩薩、興福寺阿修羅像、東大寺戒壇院の広目天、普賢寺・聖林寺の十一面観音などがあるが、いずれのお顔も白鳳時代の代表作である薬師寺の薬師三尊・聖観音菩薩や法隆寺の夢違観音などと比較すると、仏様然としたお顔立ちと言うよりももっと人間に近いお顔となっている。写真集で見るとお顔の造りそのものはお顔の豊満さといいその幅広のお鼻や肉厚の唇といい、三月堂の不空羂索観音とよく類似しているように思わ

秋 篠 寺

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  今日は奈良の北西部の、秋篠町・法華寺町・左保路から東大寺を廻る順路での古寺巡礼である。最初に秋篠寺に行く。当寺は奈良時代末期の宝亀七年(七七六年)に、光仁天皇の勅願により平城京大極殿の西北の高台に造営が始められ、次代桓武天皇の時代に平安京遷都と共に完成された。その意味で平城京時代最後のお寺である。開基は善珠大徳僧正で、本尊は薬師如来である。もともとは法相宗のお寺として創建されたが、その後真言宗・浄土宗を経て昭和二十四年に単立の宗教法人となっているお寺である。光仁天皇までの皇統は天武天皇以来全て天武系であり、天武・持統・文武・元明(文武の母)・元正(元明の娘)・聖武・孝謙(阿倍皇女)・淳仁(天武の孫)・称徳(孝謙の重祚)と続いている。しかし孝謙上皇が祈祷によりその病を快癒させた僧道鏡を寵愛し、淳仁天皇を廃位させ淡路島に配流させ、ついには淳仁天皇が没したこと。また道鏡を太政大臣禅師そして法王とし、ついには道鏡を皇位につけようとしたこともあり、皇位は天智系の六一歳の白壁王のもとに転がり込んできたのであった。しかしながらこの光仁天皇の周りにも悲劇は起きる。それは聖武天皇と県犬養広刀自の間に生まれた井上皇后とその皇子・他戸(おさべ)皇太子が天皇呪詛の嫌疑で廃され、二人ともに獄死してしまったことである。これは百済からの渡来人の子孫である高野新笠の子、山部親王(後の桓武天皇)を見込んだ、藤原百川の謀略によるものと言われている。歳いった天皇が何の権力的な背景もないままに皇位に登り、そのために長年連れ添うた皇后とその息子を、政略のために失ってしまったのである。無力感に苛まれ、そして糟糠の妻とその子を死に至らしめた罪悪感の中で、光仁天皇はこの秋篠寺の建立を思い立ったのであろう。そして開基は僧正善殊大徳である。この善殊もまた奇異な伝説の中に生まれている。それは善殊は文武帝の夫人であった皇太后藤原宮子と僧玄肪の密通の子であるという言い伝えである。皇太后宮子は首(おびと)皇太子で後の聖武天皇の母后であるが、あまりに若くして寡婦となったために鬱病に罹った。その彼女が玄肪を見て生まれ変わったように生き生きとなった。それから皇太后宮子と僧玄肪の隠された秘密の恋が始まったという。玄肪は第八回遣唐使の一員として、吉備真備や阿倍仲麻呂らとに唐に渡り苦難の末帰国して、吉備真備とともに聖武天皇に仕えてい

薬 師 寺

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金堂から、東院堂に行く。この御堂には白鳳時代の仏像の中の最高峰とも思われる、聖観音菩薩立像が安置されている。菩薩とは「菩提薩タ(土+垂)」の略で、自ら成道を目指すと共に衆生を教化救済することを誓って、現在修行中の仏である。そしてその姿は出家前の釈迦、すなわちインドの貴族の姿を基本としている。この菩薩のうち聖観音菩薩は密教成立後に出てきた十一面観音や千手観音と区別するために、それ以前の根本の観音として正観音菩薩とも呼ばれる。法隆寺の百済観音・夢違観音・救世観音などは、全てこの聖観音である。そして正しくは「観世音菩薩」もしくは「観自在菩薩」と呼ばれている。成立は弥勒菩薩と並んで極めて古い。人間の住む娑婆世界の南方海上の補陀落山に住むと説かれる。危難・苦悩から人々を救う現世利益的な霊験を持ち、救済すべき相手に応じて仏身やバラモン身に姿を変えて出現すると信じられ、それを「観音の三十三変化」と言う。 その聖観音菩薩のお姿を拝する。まず二重円身光とブロンズのお体は、日光・月光菩薩と同様である。しかし頭上には宝冠はなく、宝髻のみのすっきりとしたお姿である。以前は宝冠を被られていたのかもしれない。お顔は気高く澄み切った表情をされている。そしてお体は日光・月光菩薩と比較すると、やや細身ですらりとされている。首には三道が見え、その下には優美な瓔珞が胸元に垂れ下がっている。お腹には条帛が懸かり、肩から懸かった天衣が腰の前に三重に垂れ、それが両腕から左右の足の外側へと垂れ下がっている。腰から下に着けておられる裳は、日光・月光菩薩の裳よりさらに薄手で、両足の輪郭がはっきりと判るほどであり、裳の裾は左右に緩やかに拡がっている。両手は左手を掌を前に向けて肩の上にまで掲げ、右手も同様に掌を見せてまっすぐ垂れ下がっており、それぞれに印を結んでおられる。蓮華座も框座(かまちざ)に反花(かえりばな)を、そして華盤と蓮弁というふうに三重になっており、豪華な造りである。観音菩薩は勢至菩薩とともに阿弥陀如来の補処の菩薩として祀られることが多いが、この聖観音菩薩は独立した仏像として造られたもののようである。この仏像は亀井勝一郎によると、天武天皇の時代に百済王より献上せられたものだとのことであるが、百済で造られたとしてももしくは日本で鋳造されたにしても、白鳳時代の仏像の極めて完成度が高いことに感銘を受ける。そ

薬 師 寺

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  東塔から目を巡らせて、西塔と金堂を見る。金堂は高田光胤師による百万巻の写経で昭和五十一年に再建され、西塔は同じく二百万巻の写経により昭和五十六年に完成している。この薬師寺を最初に訪れたのは昭和四十二年の大学四年生の時であるが、その時は金堂は現在のものより一回り小さく、そして西塔趾には心礎の穴が基壇の上に残っているのみであった。その心礎の穴にたたえられた水に映る東塔の倒影を眺めたものであった。その次ぎに訪れたのは大阪外国事務課にいた昭和四六年頃で、このときは広島の友人達と訪れて薬師寺の三重塔の遠望もしている。そのあとが本店営業部の課内旅行の時であるから、昭和五十六年の秋であったかと思う。その時は既に金堂、西塔ともに完成しており、東塔に比して彩色の見事すぎることを感じた。綺麗さはあっても、何か有り難みが少ないように思ったのは、我々の古寺に対する先入観からなのか。それとも風雪に耐え、歴史の変遷の中で生き残った、先人の血と汗の染み込んだ伽藍にこそ、我々は有り難みを感ずるようになっているからなのか。かつて香港にいたときに新界にある仏教寺院を見たことがある。その寺院はやや毒々しいほどの彩色で彩られており、そして仏像そのものも光り輝く黄金色であった。その時感じたのは、これは日本の仏教と何かが違うと言うことであった。もちろん仏像のお顔自体も南方風ではあるが、崇高さの観られないものであった。インドも含めた南方の景観は、彩色豊かである。そうした景観の中では、彩色豊かな伽藍も自然であろう。しかし日本の風土には似合わないと思う。古びて木彫を露にした古寺こそが、この敷島の大和の国の景観には最も適合するように感ずる。 東塔と西塔を見比べてみると、西塔の基壇が数十センチ以上高くなっている。昭和五十六年に拝観したときにもそれを感じたが、西塔は何百年の年月を掛けて自らの重みで沈んでいき、やがては東塔の基壇と同じ高さになるのだという。さすれば幾世紀か隔てた後にはこの未だ真新しい感じのする西塔も、東塔と同じような風格を見せているのであろうか。    逝く秋の 大和の国の 薬師寺の            塔の上なる ひとひらの雲    佐々木信綱   金堂は西塔よりは五年古く再建後二十一年の年月を経ているためか、西塔よりはやや景観に馴染んできている感じがする。屋根の造りは入母屋造(母屋

薬 師 寺

  この東塔は各層に裳階(もこし)をつけているため六重に見えるが、実際は三重の塔である。この塔の素晴らしさの一つは裳階をつけていることにある。本来の三つの屋根の大きさが上層、中層、下層と絶妙なバランスで拡がっており、裳階の屋根は本来の屋根よりはやや小さいが、そのバランスも同様の比率で上層、中層、下層と拡がっている。もちろん本来の屋根の方が急傾斜で且つ斜面も広く、裳階の屋根の傾斜は緩やかでその斜面も小さい。この美しいバランスには何か法則性はないかと思い、後でこの東塔の図面を計ってみたところ、次のようなことが判った。つまり本来の屋根の上層、中層、下層のバランスはほぼ三対四対五となっており、裳階の屋根は本来の屋根の九割の大きさで同じく三対四対五のバランスとなっている。三対五はまた一対一・六六七であり、これは黄金分割の一対一・六一七に近い。この屋根の美しさには白鴎時代の寺大工達の、実際の仕事から得た建築美の構成割合が使用されているのであろうが、その水準の高さには感動を覚える。 この東塔の姿を見上げるとき、その高く伸びた相輪を先頭にして、この塔が蒼空の彼方へと舞い上がろうとしているのではないかという印象を受ける。そしてそういう印象を受けるのは、この六重の屋根の四方の反りが、あたかも鳥がその翼を拡げて飛び立とうとしているかのごとく見えるからではなかろうか。しかし良く観察すると各層の四隅の反りは決して大きなものではない。にもかかわらず反りが大きく見えるのは、四方の隅棟(大棟または降棟から屋根の隅角に降る棟のこと)の先に二段につけられている鳥衾(とりぶすま --- 棟の鬼瓦・鬼板の上端に突き出て先が反り上がっている円筒形の瓦)があるからのように思う。 次いで相輪を見上げる。相輪の構成は下から順に露盤(ろばん)その上に伏鉢(ふせはち)があり、これがいわば土台である。そして宝輪(九輪)が支柱に九つ取り付けられ、その上がかの有名な水煙である。この水煙は四枚からなり、各水煙に六体ずつ計二十四体の飛天が透かし彫りとなっている。その上が龍車で、先端には宝珠が取り付けられている。この宝輪特に水煙の美しさについては、秋艸道人・会津八一が次のように詠じている。      すいえんの あまつをとめが ころもでの               ひまにもみえる あきのそらかな      

薬 師 寺

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唐招提寺より、薬師寺に向かう。薬師寺は天武天皇勅願の大寺である。天皇がのちに持統天皇となった皇后の病気の快癒を記念して、薬師如来を本尊として発願されたお寺である。皇后はウ(虍+田+皿 鳥)野讃良皇女(うののささらのひめみこ)と呼ばれており、天武天皇が大海人皇子(おおあまのみこ)と呼ばれた頃に妃となり、天智天皇の御二女であるにも拘わらず、皇子が東宮の時はもちろん壬申の乱のさ中に在っても、常に御身近く助け苦難を共にされたお后である。日本書紀には次のような記述が残っているという。      「癸未(みずのとひつじ)、皇后体不予(みやまひ)したまふ。則     ち皇后のために懇願ひて、初めて薬師寺を興(た)つ。仍りて一     百の僧を度(いへで)せしめたまふ。是に由りて安平(たひらぎ)     たまふことを得たり」   天武天皇による発願は六八〇年であるが、皇后は快癒したものの、天武天皇が五年後に六五歳で亡くなっている。このときの皇太子は皇后の実子の草壁皇子二三歳である。しかしこの草壁皇子の他に皇后の同母子である大田皇女(おおたひめみこ)と天武天皇の間に生まれた大津皇子、そして長屋王の父である高市(たけち)皇子がいる。後継問題で紛糾があったのか、天武天皇の後は六八六年に皇后が皇位を継ぎ、持統天皇となった。(これについては持統天皇の即位は六九〇年と言う説もある)そして既に国政に参画して発言力のあった大津皇子が、同年に謀反を企てたとして死を賜るという悲劇が起きている。大津皇子は自らの死が免れないことを知り、ひそかに伊勢に下って斎宮であった大伯皇女(おおくのひめみこ)と今生の別れを惜しんでいる。そしてこのときの歌は、次の通りである。       わが背子を 大和へやると 小夜更けて            暁露に わが立ち濡れし     大伯皇女       二人行けど 行き過ぎがたき 秋山を            いかにか君が 独り来ゆらむ   大伯皇女   大津皇子は磐余(いわれ)の池の畔で処刑され、死後も謀反人として恐れられて、國境の二上山の頂上に國の守り神として葬られている。       ももづたふ 磐余の池に 鳴く鴨を            今日のみ見てや 雲隠りなむ   大津皇子       うつそみの 人にあるわ

唐 招 提 寺

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  慈光院より唐招提寺に廻る。当地は現在は奈良市五条町となっているが、都が奈良にあった千二百年前は、平城京右京五条二坊にあたっており、いわば都の中心地であったとも言える。 平城京と平安京の二つの王城の地について、共通して言えることが幾つかあるが、その一つが市街地の東方への移動である。京都についてはまず右京が桂川などもあり、低湿地であったこと。そして旧御所が火災にあって仮御所として現在の地に移った後、現在地にある京都御所が中心地となったこと。また洛外の余り由緒のない花街であった祇園が隆盛したことなどにより、市街地の中心が東にシフトしたと思われる。しかし奈良においては右京が必ずしも低湿帯ではない。にもかかわらず市街地がシフトした理由としては、一つには興福寺が町の中心となったことがあげられるのではないか。興福寺は一時期、大名に変わって奈良地方の所領を統括していた時期があったと記憶しているが、興福寺の寺門の隆盛がその理由の一つにあげられるかもしれない。もう一つ面白いのは奈良の東大寺と西大寺、そして京都の東寺と西寺である。このいずれの官寺も、東のみが隆盛し現在にまで残っている。西大寺は今でも伽藍があるそうであるが訪れる人は少ないし、西寺に至っては碑が残っているのみのようである。 唐招提寺の境内に、南大門より入山する。正面に鴟尾をその両端に持ち重厚且つ豊かな感じのする大棟の金堂が位置し、その左右は新緑の若葉が萌え立っている。芭蕉がこの寺を訪れたのも、若葉の時期であったのであろう。まさに「若葉して おん目の雫 拭はばや」の俳句どおりの光景であり、奈良のお寺には実に新緑がよく似合うなと感動する。 当寺の開山は大唐国陽州大明寺の高僧で、聖武天皇の寵招に応じ十二年間に亘り前後五回の失敗を乗り越えて来日した鑑真大和上であり、創建は天平時代の七五九年である。鑑真大和上が、聖武上皇のご冥福を祈りつつ草創したお寺である。地所はもともと天武天皇の皇子新田部親王の領地を賜ったという。鑑真大和上の来朝は天平勝宝六年(七五四年)孝謙天皇(阿倍皇女)の時代であり、東大寺大仏開眼の二年後である。鑑真大和上を迎えて大仏殿前に戒壇を設け、聖武・孝謙両帝を始め、我が国の多くの高僧が鑑真より授戒している。百済の聖明王よりの仏像・経綸の献上による仏教伝来(宣化天皇の御代、五三八年)より二百有余年、また上

慈 光 院

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  中宮寺より法輪寺に行き、三重塔のみを見る。この寺は上宮太子の皇子である山背大兄王と由義王の創建したものと言われるが、江戸時代に大風により堂宇悉く倒壊したという。その後百年して再建されたのが現在の伽藍である。法琳寺あるいは法林寺とも言い、土地の名に因んで三井寺または御井寺とも言うそうである。前回訪れたときは阪神大震災の後で、屋根の瓦などがずれていたが、今回は綺麗に修復されていた。 法輪寺より法起寺の三重塔を右手に見ながら、大和小泉にある慈光院に向かう。当院は寛文三年(一六六三年)、片桐且元の甥で石州流茶道の祖として名高い片桐石州により、父君貞隆侯の菩提寺として建立された臨済宗大徳寺派の寺院である。叔父・片桐且元の古城より移建された茨木城楼門を潜って院内に入る。書院に坐して片桐家の家紋の形をした干菓子を頂きながら、抹茶を喫す。右手に大刈り込みの庭、そして正面は大和青垣の連峰を借景とした眺めの良い庭である。昼時を過ぎているので、当院でうどんを頂く。 慈光院

中 宮 寺

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  夢殿を辞して、中宮寺に入る。このお寺はもと太子の御母君・間人穴穂部皇后(はしひとのあなほべのおおきさき)の宮であり、皇后崩じ給いしのち尼寺にしたと言われる。お御堂の周りは山吹の黄色の花が咲き乱れており、春の息吹を感じる。堂内に上って、弥勒菩薩半跏思惟像を拝する。気高く柔和で幽遠な微笑が、御仏の全てから漂い出ている。     「深い瞑想の姿である。半眼の眼差しは夢見るように前方に向けら    れていた。稍々うつむき加減に腰掛けて右足を左の膝の上にのせ、    さらにそれを静かに抑えるごとく左手がその上におかれているが、    このきっちりと閉まった安定感が我々の心を一挙に鎮めてくれる。    厳しい法則を柔らかい線で表現した技巧の見事さにも驚いた。右    腕の方はゆるやかにまげて、指先は軽く頬にふれている。指の一    つ一つが花弁のごとく繊細であるが、手全体はふっくらして豊か    な感じにあふれていた。そして頬に浮かぶ微笑は指先が触れた刹    那おのずから湧き出たように自然そのものであった。飛鳥時代の    生んだもっとも美しい思惟の姿と言われる。五尺二寸の像の全て    が比類なき柔らかい線で出来上がっているけれど、弱々しいとこ    ろは微塵もない。指のそりかえった頑丈な足を見ると、生存を歓    喜しつつ大地をかけ廻った古代の娘を彷彿とせしる。その瞑想と    微笑にはいかなる苦衷の痕跡もなかった」                            亀井勝一郎   御堂内の座敷の一番前に坐して、間近に弥勒仏のお顔を拝顔する。その優しく気高いお顔を見上げるとき、御仏の優しい微笑みのベールに我々はくるまれてしまうかのようだ。そうして御仏と共に麗しい天寿国の平安楽土の中にあって、静謐さ溢れた瞑想の境地に遊ぶかのような感覚を覚える。しかしその瞑想の深奥には、実は深い悲しみがある。同族・骨肉の相争う凄惨な悲劇の哀しみを、そして人間として生きて行く限り免れることの出来ない迷妄と無間地獄の悲哀を味わったもののみが、それを乗り超えて至ることの出来る慈悲の境地なのである。その口許に顕されている微笑み、否口許のみならず頬に添えられた指先にも、そして弥勒菩薩のお体全体から漂う微笑みは、迷妄と無間地獄を超え

夢 殿

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  大宝蔵館より出て、夢殿に向かう。この夢殿・中宮寺を、東院伽藍と呼んでいる。そしてこの夢殿の地は、上宮太子のお邸であった斑鳩宮の趾と言われる。上宮太子薨去のあと、上宮太子と蘇我馬子の娘であり太子の妃だった刀自古郎女(とじこのいらつめ)の間に生まれた皇子・山背大兄王(やましろのおおいねのみこ)はよく先王の遺訓を護って推古天皇、舒明天皇、皇極天皇に仕えてきた。しかし馬子の孫である蘇我入鹿は古人大兄(ふるひとおひね)を擁立して、ついに山背大兄王を斑鳩宮に襲わしめた。王は一族と共に胆駒山(いこまやま)に隠れたが、このとき斑鳩宮は灰燼に帰してしまった。王の侍臣三輪文屋君は「東国に逃れ軍を起こして還り戦わん」と進言したが、王は肯んぜず胆駒を出て、従容として斑鳩寺に入られた。やがて入鹿の軍勢が寺を包囲したとき、「吾が一身をば入鹿に賜ふ」と告げて一族と共に自頸された。子弟妃妾十五名、時を同じゅうして悉く王に殉じたという。この悲劇の約百年後の奈良時代に入って、再建された夢殿が幾度かの補修を経て現在に伝わっているという。もとは斑鳩宮の寝殿の近くの、隔絶された太子内観の道場であり、太子はここに籠もって深思されたと言われている。 上宮太子はその十七条の憲法を顕されたが、これは骨肉相争う、凄惨な日々を過ごされた太子の祈りとも言えるものだと、亀井勝一郎は書いている。特に肝要なのは最初の三箇条であるという。     一に曰く、和(やわらぎ)をもって貴しと為し、忤(さから)う        こと無きを旨とせよ          二に曰く、篤く三宝を敬え、三宝は仏法僧(ほとけ・のり・はふし)    なり     三に曰く、詔を承りては必ず謹め、君をば則ち天(あめ)とす、    臣(やつこら)をば則ち地(つち)とす   「以和為貴」「篤敬三宝」「承詔必謹」が太子の人間に対する深い観察と大乗の愛を説いていると言われている。夢殿の地がこうして太子が深い思いを巡らした内観道場の地であり、そして山背大兄王の悲劇の歴史の地であることを思うとき、時空を隔ててその地に立ち、夢殿を見ている我々の存在の不可思議さを覚える。 夢殿はちょうど「救世観音」を開扉しており、始めて実際のお姿を拝する。薄暗闇の中に「救世観音」はその日本人離れしたお顔と上半身を露に、我々を見つめ返してくれたよう

法 隆 寺 大 宝 蔵 殿

  西院から出て、鏡池の前にある聖霊殿の前を通って、大宝蔵殿に行く。ここで見るべきものとしては白鳳時代の夢違観音、飛鳥時代の百済観音、推古天皇所持の仏殿と言われる飛鳥時代の玉虫厨子、蓮地の上に坐す金銅阿弥陀三尊をご本尊とする白鳳時代の橘夫人念侍仏などである。中でも百済観音が最も有名である。この観音様について、亀井勝一郎は「大和古寺風物誌」に次のように書いている。   「百済観音の前に立った刹那、深淵を彷徨うような不思議な旋律が    甦ってくる。仄暗い御堂の中に、白焔がゆらめき立ち昇って、そ    れがそのまま永遠に凝結したような姿に接するとき、我々は沈黙    する以外にないのだ。その白焔のゆらめきは、おそらく飛鳥人の    苦悩の旋律でもあったろう」   昭和十二年の秋に、亀井勝一郎がこの百済観音を始めて拝観したときには、この観音様は金堂の中に橘夫人念持仏や天平の聖観音像と一緒に祀られてあったようである。亀井勝一郎が述べているように仏像は博物館や宝蔵館に安置するべきではないのであろう。私は何度拝観しても、この百済観音にさほど感銘を受けないのであるが、その理由のひとつとして宝物館の中に安置されているということもあるのかもしれない。この百済観音もやはりお御堂の中に、崇拝すべき仏様として祀られるべきなのであろう。法隆寺もこのことはよく理解しているらしく、現在百済観音堂を建立すべく浄財を集めているところである。僅かばかりの寄進をする。

法 隆 寺

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  旧大乗院より国鉄奈良駅に行って、法隆寺に向かう。法隆寺の建立の経緯は次の通りである。用明天皇は自らの病気の平癒を祈って、寺と仏像を造ることを誓願されたが、その実現を見ないまま崩御された。そこで推古天皇と聖徳太子が用明天皇の御遺願を継いで、推古十五年(六〇七年)に当寺と本尊薬師如来を造られたのが法隆寺(斑鳩寺)の始まりと言われている。推古天皇に至る皇統は、欽明天皇(即位五四十年)、欽明天皇の第二子・敏達天皇(即位五七二年)、欽明天皇の第四子・用明天皇(即位五八七年)、欽明天皇の第十二子で蘇我馬子に弑された・崇峻天皇(即位五八八年)、敏達天皇の后であり聖徳太子の叔母に当たる推古天皇(即位五九三年)である。これを見ると欽明天皇は在位三十二年であり、為に欽明天皇の皇子が三人も天皇として即位したことが判る。そして中でも上宮太子の御父・用明天皇は在位一年で病のために崩御しており、その遺願である法隆寺の建設に聖徳太子が情熱を傾けたわけである。  南大門より入って西院伽藍を望む。この位置から見る五重塔をはじめとする西院伽藍の眺望が好きである。この法隆寺の建築美観は中門と講堂を前後に回廊が四方に巡らされており、その中に千四百年を経た五重塔と金堂が構築されているところにあると感じる。伽藍内に入って五重塔と金堂、講堂を見る。講堂は火災により焼失していたものを、平安時代の九九〇年に再建したものである。中には薬師三尊と四天王があるが、残念ながら余り惹かれるものがない。 法隆寺 大伽藍

旧 大 乗 院 庭 園

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  難波より近鉄の特急で、近鉄奈良駅に着く。最初に奈良ホテルの建物を見に行く。瓦屋根の本館は格調高い桃山御殿風総檜造りで、創建は大正時代であり約八十年前となる。中に入ると内装は和・洋が巧みに調和し、白木のままの高欄、格天井、欄間等に御殿風の雰囲気が偲ばれる。新館もあり、こちらは吉野風の造りである。本館の玄関脇の八重桜が、見事な花振りを誇示して居るかのようであった。 奈良ホテルより歩いて旧大乗院庭園へと行く。平成七年の一月に来たときにはJRの保養所に許しを得て庭園内を歩いたが、二年余ぶりに訪れてみると庭園の南側の民家が無くなっており、そこに名勝大乗院庭園文化館が造られていた。パンフレットによればこの文化館は庭園の管理を行っている日本ナショナルトラストが、日本宝籤協会の助成を得て建設したものだそうである。和風建築のなかなか立派な造りであり、中は休憩室、資料室や展示室と共に日本座敷の休憩室や茶室が造られており、館内から庭園をゆっくりと鑑賞できるようになっている。 大乗院は興福寺の門跡寺院として平安時代から室町時代に盛えた子院であり、本来は現在の奈良県庁のあるあたりの一乗院の隣りに建てられていた。しかし治承四年(一一八〇年)の兵乱で平重衡の為に、東大寺の大仏殿、七重塔、興福寺と共に焼き払われてしまった。その後鎌倉時代にこの地に移されている。しかし庭園そのものは禅定院の庭として、もともと平安時代からこの地に存在していたようである。その後室町時代前期に大乗院の門跡であった尋尊が、当時の庭師の第一人者であった善阿弥に依頼して改造したと伝えられており、善阿弥が関与した唯一の遺構として貴重なものであるという。文化館から見るとちょうど正面に赤い太鼓橋が見え、池の周りも改修したらしく汀に州浜が拵えてある。パンフレットによれば平成七年度から本格的な発掘調査を行っており、平成十二年度正式公開を目標に復元整備工事が行われているそうである。池の造りからすると池泉舟遊式の庭園であり、平安王朝時代の宸殿造りの様式の名残がよく判る。大乗院はこの地に移ってから寺運隆盛であり、現在の奈良ホテルの所には丈六堂・天竺堂・八角多宝塔・釈迦堂があり、園池の近くには寝殿や雑舎があったという。しかし一四五一年の元興寺の出火により、堂塔の殆どが消失してしまった。今見るとちょうど正面の小高い丘の上に奈良ホテルがあ