投稿

12月 13, 2020の投稿を表示しています

秋 篠 寺

イメージ
「ある時天上では、大自在天王(シバ神)が大勢の天女達に囲まれて、天界の音楽や踊りを楽しんでいた。すると忽然として、大自在天王の髪の生え際から一天女が生まれ出た。その容姿の端麗なことはもとより、技芸に秀でていることは、並み居る天女達の遠く及ぶところではなかった。居合わせた天女天人達は一斉にその優れた才能を称えて、かの天女を伎芸天と呼んだ。伎芸天は、多く集まった天女天人達の中に立って、(もし、世に祈りをこめて田畑の豊作や、人生の幸せや、家庭の裕福などを願うものがあれば、私がその願いを悉く満足させよう。又学問や芸術に関する願いを寄せるものには、その祈願を速やかに成就させよう)と語った」                                    漢訳密教経典「伎芸天念誦法」より       秋篠や 外山の里は きりたちて           稲葉のすえを  わたるかりがね        西 行       秋篠の み寺をいでて かへりみる           生駒がたけに 日はおちむとす    会津 八一             諸々の み佛の中の 伎芸天           何のえにしぞ われを見たまふ    川田 順       秋篠の 伎芸天女の 印むすぶ           ゆび細々と 空に定まる       鈴木 光子       伎芸天女 寒きしじまの 夕にすら           匂ひこぼれて 立たせ給へり     松山 ちよ            秋篠は げんげの畦の 仏かな          虚 子             一燭に 春寧(やす)からむ 伎芸天       青 畝 秋篠寺 金堂跡  

秋 篠 寺

イメージ
本堂は二十数年前に来たときと同じで、本堂内に入ると、一番左手に伎芸天が祀られている。堂内は大勢の参拝客でいっぱいであり、最初は説明を聞くのみとなる。説明が終わり、一団体が去った後で、ゆっくりと伎芸天を鑑賞する。昔と比べると堂内の照明が一段と良くなっており、伎芸天がその照明の中に浮かんで見える。記憶の中にある伎芸天より、はるかに見ごたえがある。説明ではこの御仏の頭部(乾漆造)は千二百年前に造られたものであるが、肢体の部分(寄木造)は鎌倉時代に作成し仏頭と合成したとのことである。しかし両者は見事に調和しており、全く違和感がないのはそれだけ鎌倉時代の肢体の方の作者が、この伎芸天に魅せられていたためかもしれないと感ずる。伎芸天のかんばせを見上げる。お顔の表情は、夢見心地で法悦の境地を彷徨っているかのようである。浄化された悦楽の音楽を、伎芸天はその薄く開けた唇から、静かに薄暗いこの堂内の空間に漂わせているかと見える。束髪はやや薄い朱色がかかっていて、火災に遭われたせいかお顔が肢体の中で一番黒くなっているのも印象的である。右肩、右腰をやや後ろに引いて、左足の膝をやや前に出している。そしてお顔もやや左前方に傾けており、その姿勢がこの御仏に動きを与えていると思える。左手は掌をこちらに向けて少し前に出しながら伸ばしており、親指と中指、薬指で印を結んでいる。右手は肘を曲げて掌を見せながら前に掲げ、左手と同様な印を結んでいる。納衣は左腕は上膊部の半ばまで掛かり、右腕は肘の先まで納衣に被われている。肢体は鎌倉時代の作と言われるが、これもまた剥落しており、腰から上はやや白っぽく、腰より下は茶色のまだらとなっている。そのお顔と肢体のバランスが絶妙であり、鎌倉時代の作者はもしかすると火災に遭う前の御仏の体躯を、以前よりよく観察していたのかもしれないと思えるほどだ。横に廻って、御仏の背後を見ると、そこも又極めて肉付きよく豊満な肢体であることがよく判る。 肩から胸の上部にかけては、聖林寺の十一面観音と同じく巾広で豊満であるが、それが脇腹にかけて鋭角的に引き締まっており、その下のお腹はふっくらとしていてやや前に突き出されている。お顔の横の耳は、異様に大きく長く分厚いが、しかしお顔全体としてみると極めて自然な感じである。又束髪の頭の部分と、お顔の部分のバランスが、きちんととれていると思える。伎芸天はいわ

秋 篠 寺

イメージ
  戒壇院を出て、道を下って行くと、そこは依水園の正面である。そこから近鉄奈良駅に出て、近鉄で西大寺駅に着く。駅前より秋篠寺行きのバスに乗る。東門より入り、金堂跡の前を通る。そこには見事な苔が生えている。本堂境内に出ると、左手にある大元堂の前に木蓮が見事に咲いている。何人かの写真同好家が、三脚を建てて木蓮を撮している。木蓮を入れて、本堂を撮る。秋篠寺の沿革は、お寺のパンフレットによれば次の通りである。当寺の造営は奈良時代末期に始められたが、完成は桓武天皇の時代で、平安遷都とほぼ時を同じくしている。当地は又秋篠氏の所領であったことから、当時の草創は秋篠氏の氏寺であったという説もある。宗派は当初は法相宗であったが、平安時代以降真言宗に転じ、明治には浄土宗に属したが、今は単独の宗派をなしている。 秋篠寺 入口