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12月 2, 2020の投稿を表示しています

落 柿 舎

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  この落柿舎は十七世紀後半に活躍した、芭蕉門下の向井去来の寓居跡である。 落柿舎の名の由来は江戸時代にある商人が、落柿舎の柿を買い取る約束をしたところ、大風のために一夜にして柿の実がすべて落ちてしまったという故事による。    柿主や こずえはちかき あらし山    去来 去来は芭蕉十哲の一人であり、芭蕉も元禄二年から三度落柿舎を訪れている。      五月雨や 色紙へぎたる 壁の跡      芭蕉  芭蕉十哲の名前は、下記の通りである。      (年齢は芭蕉四八歳の「猿蓑」刊行時の年齢)            杉山杉風(さんぷう)    四五歳          向井去来(きょらい)  四一歳          服部嵐雪(らんせつ)  三八歳          森川許六(きょろく)  三六歳          越知越人(えつじん)  三六歳          宝井其角(きかく)   三一歳          内藤丈草(じょうそう) 三〇歳          志太野坡(やば)    三一歳          各務支考(しこう)   二七歳          立花北枝(ほくし)   不詳  芭蕉は一六四四年に伊賀上野で生まれ、二九歳で江戸に出る。江戸・深川に棲んでいた四〇歳の頃に、芭蕉を名乗る。四一歳の時に「野ざらし紀行」の旅に出る。         野ざらしを 心に風の しむ身かな       古池や 蛙飛び込む 水のおと 「笈の小文」の旅、「更級紀行」と続き、四六歳で曽良と「おくのほそ道」の旅に出る。一二月落柿舎を訪れ、翌年大津・義仲寺無名庵に棲む。四八歳の折りに又落柿舎を訪れて、「嵯峨日記」を草し、同年に「猿蓑」を刊行。五〇歳の時に伊賀上野にいったん帰省。そして京都、又伊賀、奈良、大阪を巡る。       この秋は 何で年寄る 雲に鳥       秋深き 隣は何を する人ぞ 五一歳。前年の悪寒下痢がぶり返し、容態悪化。病中吟       旅に病んで 夢は枯れ野を かけめぐる       清滝や 波に散り込む 青松葉   同年病死。弟子の去来・其角らが、遺骸を船で淀川を遡って伏見に運び、大津・義仲寺に葬る。

大 河 内 山 荘

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  天龍寺の北口から出て、竹林の中の道を通って、大河内山荘に入る。まず大乗閣のあるところに登ってみるが、二三本の山桜が咲いているのみである。山荘内にはあまり桜の花は咲いていないので、お抹茶席でお薄を頂いて山荘より出る。 小倉池の側を通って常寂光寺を覗いてみるが、ここには桜がほとんどない。そこで二尊院に向かうが、途中に落柿舎があるのに目が止まる。ここも永らく見ていないので、立ち寄ってみる。 大河内山荘 大乗閣

天 龍 寺

  天龍寺について、本坊に上がる。この本坊に入るのは初めてである。染井吉野の桜がほとんど終わっている時期のためか、拝観者はきわめて少なく、本坊の庭園正面に出ても他の拝観者はほとんどいない状況である。夢想国師作庭の庭園を鑑賞して、本坊内の襖絵に描かれている雲龍も見る。 本坊を出て庭園を巡って、北口に向かう。北口の手前左に公園があり、そこには染井吉野、枝垂れ桜がまだしっかりと花を付けて見事な桜の園を作り上げていた。染井吉野や枝垂れ桜のみならず、八重の白梅・紅梅そして早咲きの皐月などが入り乱れて、色鮮やかな花園を創出していた。訪れる人はあまり沢山いなかったが、皆こんな場所に見事な花見の場所があることに、驚いているようであった。

嵐  山

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  今日の桜探訪は、まず阪急の嵐山駅に始まる。駅のプラットホームの西側に、春爛漫と咲き乱れる見事な枝垂れ桜がある。朝の陽光を受けてこの紅枝垂れは実に見事な色合いをして、青空に映えている。枝垂れ桜のうち、薄桃色の枝垂れは染井吉野よりも早咲きであるが、この種の紅枝垂れは染井吉野の盛りの過ぎた四月半ば過ぎに、見頃になるようである。従って花見の順番は、薄桃色の紅枝垂れそして染井吉野、それから紅枝垂れの順になるのである。 そこから歩いて嵐山公園に出る。公園の中の枝垂れ桜は、すでに大半の花を落としてしまっていた。しかし一部の桜はまだ沢山の花を付けている。そして、嵐山は薄桃色の山桜の色で、斑模様の色合いをなしている。渡月橋を渡って、保津川の河畔を歩いてゆくと、又舞妓さんツアーに出会う。舞子姿はまたこの嵐山に似合うものである。そこから少し歩くと、「吉兆」の料亭の生け垣の上に数本の紅枝垂れが咲いている。それを何枚かの写真に撮ったあと、そこから天龍寺の方へ向かう。途中にある豆腐料理の「嵯峨野」にも中庭にある紅枝垂れが、瓦屋根の上に幾本も咲き乱れていた。 嵐山 中之島 枝垂れ桜