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12月 7, 2020の投稿を表示しています

今 熊 野 観 音

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  最後に訪れたのは今熊野観音寺である。ここでは今紅葉祭を開いており、境内の紅葉が美しい。当寺もまた弘法大師の開いたお寺であり、西国三十三ヶ所の第十五番札所である。知恵の観音・頭痛除けの観音として、信仰されているようだ。ここでは紅葉の葉の陽を透かしたクローズアップを、何枚かカメラに収める。この今熊野観音を京の紅葉狩りの締めくくりとする。 今熊野観音の紅葉

泉 涌 寺

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  将軍塚より今度は泉涌寺に行くこととする。東山ドライブウェイを下がり五条坂を降って東大路通りに出て、泉涌寺道に入る。東山三十六峰の一嶺、月輪山の麓に静かに佇む泉涌寺は「御寺(みてら)」として親しまれているようである。 この地はもともと弘法大師が庵を結んだところで、最初は法輪寺と名付けられその後仙遊寺と改称されたが、鎌倉時代の初め順徳天皇の御代(一二一八年)に、当寺の開山と仰がれる月輪大師が時の宋の方式を取り入れてこの地に大伽藍を営んだ。その折りに寺域の一角より清水が湧き出たことにより、寺号を泉涌寺と改めたという。月輪大師は宋に渡って仏法に奥義を極め、帰国後は当寺において律を基本に天台・真言・禅・浄土の四宗兼学の寺として、大いに隆盛させた。時の皇室も大師に深く帰依し、一二四二年に四条天皇が当寺に埋葬されてからは、歴代の天皇の山稜がこの地に営まれることとなり、爾来皇室の御香華殿(菩提所)として篤い信仰を集めている。境内には仏殿・舎利殿を始め、天智天皇以降の歴代天皇の御尊碑を祀る霊明殿などの伽藍が配置されている。 大門を入ると、正面に仏殿と舎利殿が前後に並んでいる。最初に楊貴妃観音殿を見る。唐の玄宗皇帝は今は亡き楊貴妃を偲んで、等身大の聖観音菩薩座像を造らせたという。その像が建長七年(一二五五年)に中国より当寺に将来されたものであるという。優しく、優美であでやかなお顔をされた観音様であった。当日はちょうど本坊が公開されており、本坊に上がって庭園を鑑賞する。楊貴妃観音を拝した直後のためであろうか、このお庭も優美さと繊細さと気品に満ちた池泉鑑賞式庭園であると感じる。紅葉の数は少ないが、それがかえってこの庭が簡素で整った庭であるとの印象を強くするかのようであった。 泉涌寺 庭園

三 室 戸 寺

黄檗駅に出て、また京阪にのって三室戸駅で下りる。そこより歩いて二十分位の山裾に、三室戸寺の入り口がある。当山は西国観音霊場十番の札所で、本山修験宗の別格本山である。天平時代末期の光仁天皇の勅願により、いまから約千二百年前に創建され、本尊は千手観世音菩薩である。なだらかな坂道を登って行くと、右手に大きな紫陽花園、と躑躅の植え込まれた丘が見える。石段を登って行くと、本堂がある。本堂の前には、法金剛院と同じく蓮の植えられている大瓶が並んでいる。蓮の開花する時期には、さぞかし見事であろうと思われる。本堂にお参りして、その奥の三重塔を見る。江戸時代の建築物である。石段を下りて、今度は与楽園を見る。ここには中根金作氏作庭による枯山水と池泉庭園がある。それぞれに、庭としての構成は整ってはいるが、開いている土地に設えたという感じがありありとしており、やや風情に欠けるのは残念である。庭というものも寺院等の建物があり、そして塀や山などの庭の空間を限定するものがなければ、いくらできばえの良い庭であっても、残念ながら風趣を味わうことは出来ないものであると言う感じを強く持った。    夜もすがら 月をみむろと 我ゆけば           宇治の川瀬に 立つは白波  花山天皇御製  

黄 檗 山 萬 福 寺

白雲庵を出て、黄檗山萬福寺に入山する。当寺の概略には「洛南宇治、妙高峰の裾野、萬緑の古松が千歳普遍の法を語るが如き景勝の地に、明朝様式の諸堂伽藍が整然と佇む黄檗山萬福寺は、日本三禅宗のひとつ、黄檗宗の大本山であり、本宗専門道場が置かれている」と記してある。開山は臨済宗正伝三十二世の隠元禅師である。禅師は二十九歳の時に中国福建省の黄檗山萬福寺において出家し、各地での十七年の修行の後、萬福寺の住持となった。その名声は日本にも聞こえ、日本より再三の招聘を受けるようになった。そしてついに一六五四年に長崎に渡来、後水尾天皇、四代将軍家綱、妙心寺住持の龍渓禅師など朝野をこえて多くの方の帰依を得られた。そして一六六一年に本山を普山されたという。中国の黄檗山は、臨済義玄の師である黄檗希運禅師の修行の地としても有名である。 入口の総門は朱塗りの四脚門で、左右を低く中央を高く作られている。屋根にはインドから伝わるマカラと言う想像上の動物が置かれている。門を入ると、右手に放生池があり、参道には菱形の石が敷かれている。山門の左手には、白雲関と言う明風の門がある。ここから白雲庵の名が取られたのだと思う。立派な三門を潜って行くと、正面が天王殿である。そこから斎堂のほうに廻り、魚の形をした木鐸を見て、本堂内にはいる。堂内には十八羅漢が祀られているが、本堂正面の卍くずしの組子と月台以外には、あまり中国風の造りはない。本堂より禅堂前を通って、回廊を下って、開山堂に行く。昔見たときの印象では、随分と中国風のお寺だなと思っていたが、今般見てみると、その感じがやや少ない。当寺の拝観券は木鐸の形をしており、そこには次の言葉が記されている。   謹 白 大 衆 (キン ペ ダー チョン)   生 死 事 大 (セン ス スー ダ)   無 常 迅 速 (ウー ジャン シン ソ)   各 宜 醒 覚 (コー ギ シン キョ)    慎 勿 放 逸 (シン ウ ファン イ)  

白 雲 庵

  今朝は九時過ぎまでゆっくりと寝たが、天気も良いのでお昼近くに西宮荘を出て、宇治に向かう。京阪淀屋橋から中書島迄急行で行き、そこから宇治線に乗り換えて観月橋、桃山南口、六地蔵、木幡を通って、黄檗に着く。駅より五分くらいで、萬福寺門前に着く。大阪外国事務課に勤務していた昭和四十六年頃に、始めて両親を大阪に呼んで、宇治、大津、京都と廻ったことがあった。その時に昼食を食べた白雲庵が、その門前にある。時間は一時過ぎであったが、そこで普茶料理を食べることとした。 門から入ると、茅葺きの小さな円形の建物がある。自悦軒と書いてあり、建物は大きな酒樽から作られているようである。その左手に白雲庵の建物がある。階段を下ったところの入口より入る。昔の建物とは違っていて、大きな広間があり、そこに座席が作られている。四千五百円の普茶料理を頼む。黄檗普茶料理の説明の紙によれば、ここの普茶料理は江戸初期の(一六六一年)隠元禅師渡来時に伝わった、明風の精進料理であるとのことである。普茶料理の名称の起こりは、普く衆に茶を供するの意と、赴茶(茶に赴く)の意から来ているとされる。いずれにしても禅門の茶礼(儀式法要などの行事が終わった後、前残のも野が一堂に会して、茶を喫しながら意見交換をしたり、協議をしたりする会のこと)の後労を犒うために、作法に従って出される謝茶(僧堂のご馳走)が普茶である。そして白雲庵の普茶は、その食式様式を正確に踏襲して、長方形朱色の飯台に盛られた簡易素朴な禅味の菜を、長幼の別なく一座に四人が会して、食する形式となっている。菜は本来の風味を生かすために、淡泊な味を本位に、色彩にも配慮して供される。その献立は二汁六菜を中心としているとのことである。菜単は次の通りである。 澄子(すめ 蘭茶)  麻腐(まふ 胡麻豆腐)  雲片(うんべん 吉野煮)  冷拌(ろんぱん 和合物)  笋羹(しゅんかん 季節の菜煮の盛合せ)  油ジ(ゆじ 味付天麩羅) 素汁(そじゅう すまし汁)  エン菜(えんさい 香の物)  行堂(ひんたん 季節御飯) 以上が、献立である。昔同じようなものを食べた筈であるが、その内容は湯葉などを使ったものが多かった記憶くらいしかない。したがって、今回始めて味わうのに等しい。量はやや多めであるが、あっさりとしていて素材を活かした味付けであり、美味とは

 三 宝 院

  当院は醍醐寺の中心子院で、一一一五年当山十四世勝覚僧正の創建である。入門すると、左手に有名な枝垂れ桜が、二本並んで桜花を七分程度咲かせている。円山公園と比べると、やはり南に位置するだけあって開花が早い。期待していた以上に花が開いており幸運であった。院内には国宝の表書院、勅使門、重文の玄関、葵の間、秋草の間、勅使の間、純浄観、護摩堂、宸殿などが並んでおり、極めて豪華な造りである。勅使の間より泉殿へ行く。右手は白沙の庭であるが、五分先の枝垂れ桜が一基咲いている。そこから表書院に入る。写真撮影は残念ながら、庭自体も禁止となっている。 特別名勝の庭は、慶長三年に豊臣秀吉が醍醐の花見に際し、庭奉行竹田梅松軒などに命じて築庭させたもので、名石藤戸石(千石石)は聚楽第より運ばせたものである。表書院の縁側に座って鑑賞する。右手に鶴島、左手に亀島があり、右より鶴島に木橋、そして亀島にかけて石橋、亀島より手前へも石橋、亀島より藤戸石の方へは土橋が架かつている。木と石と土の三様のさまざまな橋が、この庭の見所のひとつと言えそうである。大名庭園のはしりとして、名石・巨石をふんだんに使っているところも雄渾なイメージを鑑賞者に与える。左手前の表書院の下に潜っている池の配置も、なかなか興趣あり。この庭は秀吉の命で作り始められたが、秀吉没後に作庭を指示した義演や賢庭によって、当初の計画の半分の広さに縮小されたという。鶴島と亀島は賢庭の手によるものと言われている。彼が造った金地院と石の使い方が似ており、豪華で力強い意匠である。亀島は鶴島の二倍程度の大きさがあり、桃山時代の特色を示している。池の向こう中央にある三尊石組みの真ん中が藤戸石である。その左には賢庭の組んだ三段の滝があり、その左手が枕流亭である。今度は純浄観側より鑑賞する。右手の景観の雄壮さに比してこちら側はやや牧歌的であり、枕流亭へと架かる土橋はどこか田舎の風景を思わせるものがある。この庭はさすがに見応えのある、変化に富んだ名庭であると感じた。 本堂の方へと登って、瓢箪と盃形の苔地紋を見る。帰りには門前の枝垂れ桜を幾葉かの写真に撮る。醍醐よりは、再度奈良街道を南下し、六地蔵・桃山・深草・伏見稲荷の方面を経由して、京都駅に戻る。

醍 醐 寺

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  奈良街道を南下すると、醍醐寺に着く。当寺は醍醐山の全山を寺域とする巨刹で、真言宗醍醐寺派の総本山である。山麓は下醍醐と呼ばれて金堂、五重塔そして塔頭の三宝院などがある。当山は弘法大師の孫弟子の聖宝理源大師が八七四年に醍醐山上に草庵を結び、准胝(じゅんてい)、如意輪両観音を安置したのが草創である。その後九〇七年に醍醐天皇の勅願で薬師堂が創建され、九五一年には五重塔が出来上がっている。しかし応仁の乱で堂宇の大半を焼失。慶長三年(一五九八年)の秀吉の花見を機に、豊臣家の援助で再興された。創建以来真言宗小野法流の根本道場として、また修験道当山派の本山として(理源大師は役行者の行績をあきらかにするため大峯山を再開、修験道の中興の祖とされている。現在も当寺は萬を越す山伏つまり修験者が所属している)、日本仏教史上枢要な位置を占めている。宝聚院(霊宝館)の前を通って、三宝院へと行く。枝垂れ桜が見事であった. 醍醐寺 枝垂れ桜