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11月 18, 2020の投稿を表示しています

大 仙 院

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  大仙院の創立は古岳和尚(大聖国師)であるが、以降笑嶺和尚(千利休が帰依)、春屋和尚(石田三成と関係あり)、古渓和尚(秀吉と対抗)、沢庵和尚(紫衣事件 — 徳川幕府に対抗)、玉室和尚、江月和尚と北派の名僧を輩出している。大聖国師は近江の国守、六角高頼の実弟であり、応仁の乱後の復興期に当院を創立している。  「 本来無一物 まどわず 衒わず 諂わず 」   ( PROPERLY SPEAKING, EVERYTHING IS NOTHING.     DO NOT HESITATE, DO NOT HAUGHTLY,     DO NOT FLATTER  )   大仙院、尾関宗園師・桃林和尚の言葉   「心は行動なり   行動は習癖を生む    習癖は品性なり  品性は運命を決する」 枯山水の成立について(大仙院パンフレット) ・ 禅宗の影響      ------ 鎌倉初期に渡来した禅宗の思想が、室町の初期よりは作庭に       影響、庭園の形態が極めて抽象的となった。 ・ 水墨山水画の影響      ------ 室町時代に愛好された北宋山水画が、作庭に大きく影響。 ・ 政治的、経済的影響      ------ 室町時代の文化の担い手であった足利幕府を中心とする、貴       族・大名などの指導階級の権力・権威が、室町中期以降失墜       し経済的にも逼迫。したがってこれまでのような規模壮大な       庭園(大覚寺、西芳寺、金閣寺など)を造営する経済力もな       くなってきた。 大山院 書院前庭北側

大 仙 院

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ついで昔訪れたことのある大仙院のお庭を見に行く。大徳寺は名庭園のある塔頭を多く有しているが、それは南北朝の名僧で自ら作庭もした大徳寺二世の徹翁(てっとう)禅師(霊山和尚)の伝統による。そのため歴代の愛庭家の僧が続出したという。そうして応仁の乱後の一休禅師による復興の頃から、枯山水の新様式がこの寺に定着したようである。 この大仙院は古岳宗亘禅師により創建された。入り口を入ると左手に鐘楼そして正面には塔婆がある。堂内の上がり口に、尾関宗園師の「今ここで頑張らず、いつ頑張る」という標語あり。方丈南庭は砂盛二つと生け垣と白沙のみの庭である。書院前庭は著名な枯山水の庭であり、作庭は一五三五年頃古岳禅師(大聖国師)によるものという。この庭は透渡殿(すいわたでん)でふたつにくぎられている。左側は平天石を生かした石組みが山と滝を示し、滝の下に石橋そして鶴島が配置され、白沙が透渡殿の下を流れて右側の庭に繋がっている。右側の庭は青みがかった舟石と蓬莱石(牛石)が配置されている。そして白沙はこの書院前庭から方丈の南庭の白沙の海原へと流れて行く構図となっている。書院前庭の左部分は狭い空間に堂々たる石組みが組まれ、最初はやや過密という印象を受けるが、よく見ると石組みや島が観る者に迫ってくるほどの気迫があり、雄渾な造りである。もう一度右手の庭を見る。蓬莱石の右手に秋冥菊(しゅうめいぎく・漢名秋牡丹、きんぽうげ科、中国原産)が石に寄り添い、語らいかけるかのごとくその花びらを石に向けて咲いている。白沙、白壁そして石の白い部分と符合するかのような白い菊花が印象的であった。北庭はこの枯山水の左側にあり、亀島それと自然石の蹲いのようなものがある。後年の改造と言われており、やや統一感がないと感じる。そこから奥庭へと行く。奥庭には青銅製の鶴が置かれてあり、風情に欠ける。なぜこのように立派な庭園を有する塔頭に、このような物を置いてしまうのか、疑問である。この庭は左手前に青と黒の縞模様の舟石、そして中央に赤茶色の枯れ滝石組みと層の入った石が置かれてあり、それを躑躅の刈り込みが囲んでいる構成となっていた。 大山院 書院前庭  

大 徳 寺 本 坊

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  再び大徳寺を訪れる。今秋の特別公開により、大徳寺本坊や興臨院などを拝観できるためである。大徳寺は平安の昔は紫野の茂る野原であったが、ここに臨済宗の大燈国師が大徳庵を営んだのが始まりである。その後大燈国師の徳望が拡がり、まず北朝の花園天皇が勅願所とし、次いで南朝の後醍醐天皇の勅旨も得て、一三二六年に大徳寺創建となった。その後応仁の乱などで衰退したが、十五世紀後半に一休禅師が再興。桃山、江戸時代にかけて興隆し、現在の威容を為した寺である。一休禅師以降も以天、東渓、古岳、春屋、古渓、玉室、沢庵、江月等の名僧を輩出した。大徳寺本坊へは庫裏より入る。庫裏は大竈の炊き口が並ぶ、重要文化財である。それに続くのが食堂(じきどう)、長い食卓が頭上に並べて架けられている。そして方丈前の板の間には、洋風の机と椅子が置かれてあり、その右手には坪庭と井戸がある。方丈庭園は小堀遠州の作と伝えられているが、この庭園は一六三六年に京都の豪商後籐益勝が方丈を寄進した際に、共に作庭されたという。沢庵和尚が紫衣事件で流罪(一六二七年)となり、その波乱の治まった頃である。作庭の作者は天佑和尚であるという説もある。 南庭は長方形の平庭で、方丈の正面に唐門が設けられている。方丈の縁側を歩くとそこはうぐいす張りとなっており、歩を進める度にきゅっ、きゅっと軽快な音を発する。方丈の庭は正面に日光陽明門のモデルとなったひぐらし門の原型である、花鳥の透かし彫りのある唐門がある。これは元聚楽第の正門で桃山時代に建造されたものである。それを村上周防守が拝領し、大徳寺境内山門の西側にあったものを、明治初年に移築したものである。その前には明智光秀寄進の明智門があったが、これは明治初年に金地院に移建されている。庭の手前は瓦敷きの廊下となっており、右手には門主の入る通用門がある。白沙はまっすぐの縦の線と蛇行線が交互に引かれてあり、その文様が面白い。正面やや右に二つの砂盛があり、その右に石が二つある。右の石は高く白沙から出ているが、左の石は平面のみ白沙から出ている石組の島である。鶴島、亀島を表しているものか。唐門の左右の石組みと木の配置、また左手奥には蓬莱山と滝それに滝壺を表している石(平天石 --- 伏せ石)が白沙に埋め込まれており、興趣あり。またその右側の横に長い石二つも面白い。全体としてバランスが取れており、二つの砂盛と石

龍 源 院

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  方丈の東にあるのが、我が国で最も小さな壺庭で、東滴壺と呼ばれる。小さいながらも個性があり、見ていて飽きの来ない庭である。長方形の庭の三方が濡れ縁となっており、残りの一辺は壁に面している。白沙に縦に線が引かれていて、その両端に円形が描かれている。そして庭の中央に石がひとつだけ置かれている。きわめてシンプルな庭の構成であるが、その創り上げている空間には統一感があり、心を静謐にさせるものがある。それはまさにこの庭が、ひとつの小宇宙を創り上げているからであろう。 龍源院 東滴壺

龍 源 院

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  北庭の龍吟庭は、須彌山型式の室町時代特有の枯山水庭園である。青々とした杉苔が、あたかも山海の如きうねりを見せており面白い。この世界は九つの山・八つの海からなっており、その中心にあるのが須彌山とのことである。この庭では、その須彌山を表している石を、やや右に傾かせているが、それが動的な効果を石組みに与えており興趣あり。そう言えば厳島にある山も彌山と呼ばれているが、この須彌山との関連があるのであろうか。説明によれば、須彌山は超絶対的な人格・悟りの極致を形容表現しているとのことである。 龍源院 龍吟庭

龍 源 院

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  三番目に訪れたのは、龍源院である。当院は臨済宗大徳寺の塔頭のうち最も古いお寺であり、その名の由来も大徳寺の山号である「龍宝山」と臨済禅の「松源一脈」の字より二文字を取って名付けられたものという。大徳寺は一五〇二年に大燈国師により開かれたが、当院はその後まもなく能登の領主畠山義元、九州の大友義長(宗麟の祖父)らにより、大円国師を開山として創建されたものである。 方丈前庭を一枝坦(イッシダン)と呼ぶが、これは開祖東渓禅師が釈尊の拈華微笑という一則の因縁により大悟せられ、その師より賜った室号、霊山一枝之軒より命名されたとのことである。大阪外国事務課に勤務していた独身の頃、もう今から二十一年以上も前になるが、その折に一人で当院を訪れたことがある。その時はこの一枝坦の庭は、灯籠と山茶花の庭であった。山茶花の老樹「楊貴妃」がその傍らの古い苔むした灯籠に、そっと寄り添うかのように立ち並んでいて、地面の苔の醸す暗い色調の中で、山茶花の紅の色がぼおっと煙るかの如くに艶やかだったことを思い出す。その樹齢七百余年の中国伝来と言われる銘木「楊貴妃」も、昭和五十五年についに枯れてしまったと言う。 この寺に最初に訪れたのが昭和四十六年頃であるから、その時より既に二十五年の月日が経過している。そして「楊貴妃」の咲いていた庭は、今は蓬莱山と鶴島、亀島の枯山水の庭へと変わっている。「年々歳々花相似たり、年々歳々人皆同じからず」と言うが、かつて見た山茶花の紅の艶やかさは、ただ私の記憶のなかにのみ残り、そうして、その記憶を持つ私が同じ場所に、こうして枯山水の庭を見ているというのも、なにか不思議な気がする。 龍源院 一枝担

瑞 峯 院

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  ついで瑞峯院を拝観する。当院は九州のキリシタン大名大友宗麟が、室町時代の一五三五年に方丈を建立、宗麟の院号より瑞峯院と呼ばれている。開祖は大徳寺開山の大燈国師から法系九十一世の大満国師である。方丈前の独坐庭は、寺号瑞峯をテーマにした蓬莱山式庭園である。蓬莱山の石組みの下は苔庭となっており、これが半島の如く伸びて白沙の大海に囲まれている。苔と白沙とそのうねりが大地と大海をよく表しているが、造形としてはやや単純で感銘、風情は少ない。十字架の庭と呼ばれる閑眠庭もあるが、いまひとつ興趣に欠ける感あり。二つの庭とも、昭和の作庭界の権威である重森三玲作である。 瑞峰院 庭園

高 桐 院

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大徳寺の門前に到着する。昭和五六年頃に、この門前にある「一久」で、本店営業部の同僚であったS君と精進料理を食べたことも思い出される。境内はちょうど大茶会の時期であり、和服を着た女性が行き交っている。塔頭のひとつは織田信長の菩提寺となっており、そこでも茶会が開かれている。信長の葬儀は、秀吉が大徳寺でおこなったと書かれてあった。この地、紫野は昔の御所の北方、船岡山の北東に位置する地域の総称であり、洛北七野の内のひとつで平安時代は皇族の狩猟地であったという。大徳寺は鎌倉末期・後醍醐天皇の時代に、大燈国師により創建された(一三二四年)。その後室町中期に一休禅師が再興したお寺である。 最初にまず高桐院を訪れる。このお寺は細川幽斎の長子、細川三斎忠興(法名松向寺殿三斎宗立)により一六〇一年に建立されたもので、開山は幽斎の弟の玉甫紹琮和尚である。三斎は織田信長、豊臣秀吉、徳川家康の三時代を巧みに生き抜いた智将であり、また利休七哲の一人として茶道の奥義を極め歌道も嗜んだ、文武に秀でた哲理の人であったと言われる。正室ガラシャ夫人は明智光秀の息女であったが、三斎は光秀にも組みせず明晰な洞察力を持ってその時代を生き抜き、八十三歳で没して当院に埋葬されている。その墓石は利休の秘蔵した鎌倉時代の石灯籠であり、秀吉の所望に対して利休はその裏面を欠き、疵物として秀吉の請を避けたという謂れのあるものである。そしてこの石灯籠は利休割腹の後細川三斎に遺贈され、その灯籠が三斎の墓石となっているのである。「天下一」の灯籠と呼ばれ、銘は「無双」または「欠灯籠」とも言う。書院は利休の邸宅を移したもので、その中に二畳台目の名茶席・松向軒がある。清厳和尚によるその命名の由来は、常に松声を聞き且つ趙州無舌の茶味を嗜む、因って松向と名付くとある。三斎により建てられたもので、茶室にしては珍しい黒壁は瞑想の場の感あり、簡素な中にも幽玄の雅味をたたえた名席といわれる。庭園は楓樹を苔庭の上に配し、その配置の仕方も庭園の中程に数本、奥に十本あまり並べるという野趣ある造りで、楓樹も樹齢が古いためか丈が高くなっている。その為楓の葉は屋根にかかる高さとなっていて、見上げれば黄緑色の星が中空に懸かつているが如きである。