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12月 3, 2020の投稿を表示しています

常 寂 光 寺

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  この常寂光寺の開山は、究竟院日シン(示+真)上人である。室町時代の終わりの一五六一年に生まれ、幼にして六条の日蓮宗大本山、本圀寺(ほんこくじ)に入りわずか十八歳で同寺の法灯を継いでいる。宗学と歌道への造詣が深く、三好吉房(秀吉の姉婿)、瑞龍院日秀(秀吉の実姉)、小早川秀秋(木下長嘯子)の実弟、秀吉の甥)、加藤清正、小出秀政、などの帰依が深かった。桃山時代の文禄四年(一五九六年)秀吉建立の東山方広寺大仏殿千僧供養の砌(みぎり)、不受不施の宗旨を守って出仕せず、やがて本圀寺を出て角倉栄可(了以の従兄弟にして舅)および了以の寄進した名勝小倉山に常寂広寺を創建したという。    苔衣 きて住みそめし 小倉山           松にぞ老いの 身を知られける   日シン上人  山内に入り仁王門のところまで行くと、もうそこには三脚を建てたカメラマンが幾人もいる。このお寺は三脚を許可している数少ない寺の一つのようであるが、カメラマン達が散策に来た人達の通るのを、邪魔だといわんばかりなのには閉口させられる。この仁王門はもともと本圀寺の南門として南北朝時代に建てられたものを、移築したものである。この仁王門の写真を何枚か撮り、本堂の右手の方へと登って行く。登り切った広場の裏に、銀杏の木が見事に黄金色の枝々を蒼空に伸ばしているのをO さんが見つけ、それもカメラに収める。 そこから本堂前を通って多宝塔へと登って行く。多宝塔のあたりからは今日の町並みが遠望できて、なかなか眺めがよい。多宝塔をもう少し登ったところに、時雨亭趾がある。嵯峨にある三ヶ所の時雨亭趾のうちの一つである。あとの二つは二尊院と厭離庵でありいずれも定家山荘趾と言われていたが、現在は国文学者の考証により定家の造営した小倉山荘趾は常寂光寺仁王門より北で、二尊院の南の位置であったとされる。厭離庵近辺は定家の子、為家の住んだ中院山荘趾とする説が大勢を占めているようである。ここの時雨亭趾には石碑が置かれているが、歌聖藤原定家の縁を偲ぶ人達が多かったことを、この三ヶ所の時雨亭趾は物語っているのであろう。定家がこのあたりの景観を詠った和歌三首は、次の通りである。    結びおきし 秋の嵯峨野の 庵より               床は草葉の 露になれつつ    小倉山 しぐるるころの 朝な朝な       

太 秦 広 隆 寺

仁和寺より太秦に廻り、広隆寺を訪れる。広隆寺は推古天皇十一年(六〇三年)に建立された山城最古の寺院であり、四天王寺・法隆寺などと共に、聖徳太子建立の七大寺の一つである。古くには蜂岡寺と呼ばれたが、現在は広隆寺と呼ばれている。蜂岡寺は日本書紀によれば、秦河勝が聖徳太子より本尊弥勒菩薩を賜って、建立したものだと記されているそうだ。同じく日本書紀によると、秦氏は応神天皇の時代に日本に帰化し、養蚕・機織りの業を主たるものとして、大陸や朝鮮半島の先進文明を日本に輸入し、農耕・醸造などの産業にも貢献している。 境内に入り、まず上宮王院太子殿を拝観する。そのあと霊宝殿に行く。霊宝殿はかなり立派な造りであり、内部も広く整然と様々な仏像が安置されている。このお寺を訪れるのも、ほぼ二十四年振りである。当時仏像は割と小さな木造の御堂に、横一列に配置されており、もっと間近に御仏を拝顔することが出来たように思う。しかしこの霊宝殿は四方に様々な仏像が配置されてあり、その中央に弥勒菩薩半跏思惟像が見事な証明効果のもとに安置されている。照明の効果が良いせいもあるが、弥勒菩薩像はむかし見たときよりは、ずっと神々しく気高い印象を受けた。  

仁 和 寺

阪急で四条大宮まで行き、そこからタクシーで御室仁和寺に向かう。仁和寺は大変な人出である。普段は無料で入園できる境内には、今日は桜の時季とて入場券を求めて入る。御室の桜は花(鼻)が低いので、お多福に譬えられるが、ここの桜は京都でも咲くのがもっとも遅いため、「名残の桜」と言われているそうだ。品種は大半が「有明」で他には「車返し」「欝金(うこん)」など数十種類の里桜が二百余種植えられているようである。しかし流石四月も末となっているため、殆どの桜はすでにその花びらを散らせてしまっている。境内を周遊する。もう木々の青葉が出始めており、その新緑と五重塔の景観が清々しい。一回りしたあと、茶店でお弁当を買い求めて、木陰でお昼を頂く。  

清 涼 寺

  清涼寺は十世紀末から十一世紀の藤原道長全盛期に南都東大寺の僧で、入宋して五台山に参詣した奝然(ちょうねん)の発願により、その遺志を継いだ弟子たちが棲霞寺の一隅を借りて建立したものである。棲霞寺自体は、元々嵯峨天皇の十二皇子であった左大臣源融(八二二―八九五)の嵯峨の別荘棲霞観が、その没後嵯峨源氏の一族により棲霞寺となったものであり、広大な敷地を持っていたのである。 源融の時代のことに触れてみると、八二一年には後に藤原氏の本流となった藤原冬嗣が右大臣となっており、八三九年には最後の遣唐使が終わっている。また八四一年には承和の変で伴健岑(とものこわみ)、橘逸勢らが謀反の嫌疑で失脚している。(これは藤原良房の謀略と解釈されている)。そして八五〇年には仁明天皇と良房の妹順子のあいだに生まれた文徳天皇が即位。八五七年には良房は、太政大臣となる。八五八年にその文徳天皇が没すると、わずか九歳の清和天皇を即位させ、良房が摂政となる。八六六年には応天門の変により、その炎上の嫌疑を掛けられた伴大納言善男・中庸父子が伊豆に流されている。同年在原業平と浮き名を流していた良房の姪高子が、八歳年下の清和天皇の女御として入内。八七二年に良房が没すると、その養子基経が摂政となり、藤原氏の摂関政治が始まる。八七六年清和天皇は九歳の陽成天皇に譲位。この陽成天皇は粗暴な振る舞い多く、摂政基経と対立。俗に言う清和源氏は清和天皇の出ではなくて、陽成天皇の皇子元平親王から出ている という説もある。八八四年陽成天皇は基経の圧力に屈し退位、祖父文徳の異母弟光孝天皇が即位。八八七年光孝天皇が没し、すでに源氏の姓を賜って臣籍降下していた定省親王が宇多天皇として即位。八九九年には桓武天皇の皇孫高望王らに、平朝臣の姓を与える。(この高望王が伊勢平氏の祖である)八九一年藤原基経が没すると、宇多天皇は親政をとり、藤原氏の摂関政治は一時中断する。八九二年宇多天皇は藤原氏の専制を押さえるために、菅原道真らを登用して参議とする。八九七年宇多天皇が醍醐天皇に譲位。八九九年藤原時平が左大臣、菅原道真が右大臣として並び立つ。九〇一年菅原道真が道長の女婿である醍醐天皇の弟斉世(ときよ)親王を、皇位につけようと企てたとして太宰府に流される。また九〇五年には初の勅撰歌集である「古今和歌集」が紀貫之らにより撰上される。九三〇年醍醐天皇が