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  本好き、文学好きのあなたに目からウロコの吉報! どこからでも読めます。きっと引き込まれて途中でやめられません。 この世に人間が生まれ長い年月を経てほかの生き物からまったく別のものになることができたのは「文字」と「言葉」を持ったからです。そうしてできた先哲,先賢の数多の文学は、必ずやあなたの世界を広げ心を躍動させます。 古今東西の言葉の花束が、本の題名を西行の和歌から借りたこの詞華集 『花に染む心』に満載されています。   お求めはアマゾン通販で、税込み1500円です。     

六 義 園

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  六義園に着いたのは四時頃であったが、幸いにもまだ開門してあった。そこで門を入ってすぐの処にある枝垂れ桜を見に行く。 ここの枝垂れ桜はまさに今が満開であり、薄桃色の花々が夕方の陽を透かして、幽艶に咲き誇っている。閉門間近なのでさすがに人影も少なく、ゆっくりと見事な枝垂れの大木を鑑賞できた。ただ一本だけの枝垂れ桜というのが、又なんともいえず風情を感じさせる。 以上で『日本美との邂逅』の写真と文章の掲載は終了致します。コロナ禍の厳しい現状の中で、長時間を費やしてお読み頂いて有難うございました。 彼は誰ときの六義園の枝垂れ桜

王 子(飛鳥川親水公園)

  上野から京浜東北線で王子に出る。駅のすぐ西側にある音無川親水公園に行く。この王子は、もともと若一王子宮という熊野神社の一支社を当地に勘定したところから名前が出ており、紀州の熊野との縁が深い。熊野にも音無川や飛鳥山があり、そこから名前がとられたという。飛鳥山は将軍家光の折に、桜の名所として有名となったが、その後吉宗が紀州家より将軍を襲名してからは、王子神社はますます将軍家の信仰厚くなり、武士階級は上野で花見をし、庶民の花見はこの飛鳥山になったという。音無川親水公園のたもとには、卵焼きで有名な扇屋という料亭があり、王子支店在籍中は何度か利用したことがある。親水公園の桜は、残念ながら未だ三分咲き程度であり、時季的にやや早すぎた。そこで今度は王子駅より駒込にある六義園に行く。

姫 路 城

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  大手門より入城する。三の丸公園の向こうに大天守閣の偉容が現れる。左手には千姫牡丹園がある。千姫は二代将軍秀忠の長女として生まれ、美しく聡明で愛らしい花のようなプリンセスであった。七歳で豊臣秀頼に嫁いだが、大阪夏の陣で炎上する大阪城を脱出、江戸への帰路桑名城主本多忠政の子忠刻と出会い恋に落ちて程なく結ばれた。千姫十九歳の時のことである。そして本多家の姫路移封に伴い千姫も忠刻と共に姫路に移った。その千姫のために築かれたのが、西の丸の長局である。菱の門より入り、西の丸の長局の外観を見て、はの門、二の門を通り、乾小天守を見ながらほの門を潜る。大天守の裏を通って備前丸に出て、大天守の内部に入る。内部は七層となっており、松本城と比べると一回り以上大きな造りであり、上りの階段と下りの階段が別々となっている。最上層まで登る。お昼にビールを飲んだ為、階段を上るのに大変な汗をかく。最上層は見晴らしが良くて、そして涼風が室内を通り過ぎて行く。大天守閣より下りて、播州皿屋敷で有名なお菊の井戸の前を通って、内堀より天守閣を望む。ここからは天守閣がまさにその名の通り、白鷺のような麗姿を見せる。この姫路城の天守閣の姿の美しさは大天守そのものの姿もさることながら、それに西小天守、そしてさらに乾小天守がまるで大天守に付き添うかの如く並び立っている、そのバランスの優美さにある。そしてまたその城郭を取り囲む白い土塀と、様々な櫓や門等の建物が、その城塞としての機能美をいっそう引き立てるのである。  姫路からの帰りは新快速を使う。垂水あたりから塩屋にかけての、海沿いの眺めが綺麗である。 姫路城の城門

姫 路 城

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    好古園を出て姫路城の大手門へ廻る。姫路城は世界文化遺産として指定されている。我が国は一九九二年に世界遺産条約を批准、その後日本で初めて世界文化遺産として指定されたのが、この姫路城と法隆寺である。 姫路城の歴史は次の通りである。千三百年の前半に播磨の守護職赤松則村がこの地に砦を気付いたことが、姫路城の歴史の始まりである。その後小寺氏、黒田氏がこの城を根拠地としたが、黒田官兵衛孝高の時、彼の勧めで羽柴秀吉が天正八年(一五八〇年)西国攻略の根拠地として入城、翌年三層の天守閣を完成させた。その後は羽柴秀長、木下家定と続いたが、関ヶ原の役の後徳川家康の女婿池田輝政(五二万石)が入封し、慶長六年より八年の歳月を費やして、大規模な城域を造り上げ、姫山に五層七階の天守閣を築き上げた。池田氏三代の後本多忠政(十五万石)が入封し、長男忠刻とその正室千姫(徳川秀忠の長女)のために西の丸を完成させ(一六一八)、今日に見られるような姫路城の全容が造り上げられたのである。 白鷺城

好 古 園

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  百日紅と櫓をポイントとして写真を撮してみる。この庭の奥は竹の庭となっている。日本の竹のうちの、代表的な十五種類を植えているそうである。枯山水こそなかったが樹木を使って、日本の庭の様々な形態を武家屋敷風に築地塀で区分けして造り上げており、まだ庭が新しいため風情の十分でない部分もあるが、全体としてはなかなか見事な庭園となっていると感じた。  江戸時代最後の姫路城藩主酒井氏は、前任地前橋で藩校「好古堂」を創立しており、当地への移封に伴ってその藩校を、この庭園の入り口付近に移設したという縁より、この庭園は「好古園」と名付けられた由である。お屋敷の庭の所には、その昔江戸新吉原より高尾太夫が落籍されて棲んでいたとも言われている。 好古園

好 古 園

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  バスに乗って市内に戻り、姫路城大手門前で降りる。そして以前テレビで見たことのある好古園に入る。この地は昔姫路城の西御屋敷跡であり、姫路市生百周年を記念して、平成四年に開園した庭園である。西御屋敷跡と武家屋敷跡を地割り、通路など昔のままにして九つの庭園郡を造り上げており、設計監修は京都大学の中村一(まこと)教授によるものである。 屋敷門を潜ってまずお屋敷の庭にはいる。桧造りの活水軒に入る。中はホールと食堂、喫茶室が設けられている。渡り廊下を経て、潮音斎に入る。この建物は堂々とした造りの大きな池に面しており、正面には雄滝があり、その右手には姫路城の櫓が遠望でき、見事な眺めである。室内は良く冷房が利いており、この庭を訪れる人のための配慮が感じられる。次に苗の庭を経て、流れの平庭に入る。この庭は貴族の屋敷に造られていた曲水をテーマとした庭である。その曲水を、塀の向こうに遡ると、落葉樹ばかりを配した夏木の庭、そして松の庭へと続く。松の庭の奥には、花の庭があり百日紅の花が白色と紅色に咲き乱れていた。その次には茶の庭を見る。庭園は芝生に樹木を配しているだけの簡素な庭である。裏千家家元の設計、監修による双樹庵という立派な茶室があったが、時間が十分にないため中には入らなかった。この建物は姫路城の天守閣のほうを向いているとのことである。それから築山池泉の庭に入る。この庭は池に面して左手に臨泉亭が造られており、借景として姫路城の櫓が眺望できる、なかなかに風情のある庭であった。 好古園