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11月 9, 2020の投稿を表示しています

銀 閣 寺

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  方丈も各部屋の戸をはずして開放しており、部屋の畳の中央にある花籠に花を挿したりしている。方丈と東求堂の間の壺庭に、銀閣寺型手水鉢が置かれてある。これは角張った形のもので、なかなかモダンな感じの作りである。そこから池に浮かぶ白鶴島、仙袖島を見ながら、龍背橋を渡る。更に臥雲橋を越えて、月待山に登って行く。銀閣、銀沙灘あたりもライトアップされていて幽玄な雰囲気が漂うが、この月待山もフットライトと共に所々紅葉している楓を照らし上げており、そのライトアップの光が点滅するのが又何とも言えず雅である。石段を上がって行くと、上の方に湧水があり、これを茶の井・相君泉と言う。この辺りはかつて銀閣寺の上部庭園があったところで、斜面には崩れた石組みがあり、枯れ滝石組みの跡と言われている。そうして相君泉の辺りには、禅室西指庵があったと想定されている。 銀閣寺 この銀閣寺は臨済宗相国寺派の別院で、正式には慈照寺という。ここは八代将軍足利義政がもともと東山殿として造営したものである。義政は元来政治向きには興味が薄かったのか、応仁の乱が起こると(一四六七年 ) 将軍職を実子義尚(よしひさ)に譲って、西方寺の庭園を範とした東山殿の造営に着手し(一四八二年)、七年の歳月をかけて造り上げたが、銀閣が上棟した翌年に五十五歳でこの世を去っている。この庭園はもともと池泉舟遊式で池ももっと大きく、銀閣は池に迫り出していたのではないかと言われている。いずれにしても政治の世界を嫌って造園に夢をかけ、夢窓国師を崇拝した義政が、こうして銀閣を造り上げそして東山文化がここから生まれ出たのである。京の町は応仁の乱と言う戦乱の最中にあったにもかかわらず、この東山で一人造園に没頭していた元将軍義政と言う人間がいなくしては、東山文化は存在しえなかったというところに歴史の面白さを感ずる。 相君泉のところから、山の中腹を巡る順路を行く。途中で銀閣のライトアップが見事に見えるところがあり、そこで京の夜景を背景に写真を撮る。園路を下りて、洗月泉を右手に見て、また錦雲池に出てくる。ここから見る銀閣は、その右手にある向月台と共に一番見事である。銀閣の外観そのものは極めてシンプルである。出路に来ると、左手は竹藪となっており、造園の工夫を思わせる。

銀 閣 寺

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仕事の終わった後京阪淀屋橋より、久しぶりに京阪電車に乗り京都に向かう。途中枚方の駅を通過する。昔小学生一年の時に、ここには父と一緒に菊人形を見に来たことがある。京阪終点の出町柳の駅で降りる。そこからタクシーで銀閣寺に向かう。今出川通りの突き当たりが、銀閣寺である。疎水の支流の辺りに来ると、料亭などが並んでおり風情がある。翌日が祭日なので、人出が多い。タクシーを降り銀閣寺橋を渡って進むと、すぐ先に行列の最終列がある。参拝客が多いので、入門を制限しているようである。十五分ぐらい並んで進むと、総門に着く。 入門して右手に曲がると、そこに有名な銀閣寺垣がある。昔二度くらい訪れたことがあるのに、この銀閣寺垣については殆ど記憶がない。「東山水上行」と銘打っての夜間拝観である。銀閣寺垣の先にある中門を入ると、庫裡がある。その前庭は、白沙と松の庭である。足許に明かりが灯されていて、仄かに薫香の匂いが漂う。小門を潜って、庭に入る。まず銀沙灘が前面に広がっているのが目につく。これは当初の作庭にはなかったもので、谷間から流れてきて池にたまる白川砂をすくい上げ、それを利用して後世に作られたものと言われている。いずれにしても斬新なデザインであり、それが巧まずして一つの芸術作品となっているのが面白い。 夜の銀閣寺

清 水 寺 成 就 院

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  清水寺へ向かう。そして三時半過ぎに成就院へ入る。もとは赤松氏の邸宅趾であったという当院は、応仁の乱の後に清水寺を再興した願阿上人により創建されたお寺である。現在の建物は寛永九年(一六三九年)に、徳川家光により再建されている。 庭園の作者は相阿彌が原作者でその後小堀遠州が補修したという説と、松永提督が作者であるという説があるらしい。いずれにしても江戸初期の名庭の内の一つである。雪月花の庭の内の「月の成就院庭園」として有名で、その他にも「典雅温淳体の庭」などとも呼ばれている。そして当院には西郷隆盛と一緒に入水した、月照和尚もかつていたという。 庭は右の音羽山の山畔を用い、湯屋谷と向かいの高台寺山を上手く使った作庭となっている。右の山畔は円形と四角形・長方形の刈り込みを使って被っている。池の中には烏帽子岩と蜻蛉灯籠を配した中島、そしてその右手に籬(まがき)島がある。そして池のこちら側の手前には、瀬戸内海の大島産の自然石で造った・誰が袖形手水鉢がある。そして池の右手の方には、愛らしい形をした手鞠灯籠も置かれている。右手山畔は枯れ滝の石組みで、その手前の池には橋が架かつている。また高台寺山の方には、庭のほぼ真正面に灯籠を置くことで遠近感を出しているようである。高台寺山と音羽山の作る稜線が、実に見事である。背景も借景等も含めてすべてに趣あり。 訪問当日の観庭印象は次の通り。 「鶴島と亀島が、池の中央左右にあり。特に亀島の烏帽子岩と蜻蛉灯籠に焦点が行くようになっている。鶴島は板の橋で山畔式の築山に向かつて繋がっており、右側は右肩上がりの斜面となっている。その後ろにある樹木がやはり山の斜面に沿って右肩上がりに植えられている。そしてそのまた後ろの音羽山も右肩上がりの斜面をなしており、三重の右肩上がりの構図が出来上がっており、それがこの庭の一つのアクセントでもあり、魅力ともなっているように思われた。また蜻蛉灯籠の上の辺りが、稜線の作る逆三角形の頂点となっており、空が景観の上部に逆三角形で拡がって行く。この構図は正伝寺の庭も同様であり、庭の景観を額縁で切り取るとすると、これが安定感を与える構図になるのであろう。そしてこの構図はまた、景観の中央に鑑賞者の焦点を持ってこさせる効果があるのかもしれない。また庭の向こうの刈り込みの生け垣が、右側の右肩上がりの線に対し、横に水平に線

両 足 院

  最後に両足院を訪れる。両足とは元来如来の別号であり、二徳兼備の尊者を意味するようである。開山は龍山和尚 ( 一二八四~一三五八年 ) であり、鎌倉から室町にかけて元に四十年余りも渡っていた僧である。この時に同道していた林和清の子孫・浄因は、日本に饅頭の製法を伝えている。林家は今も烏丸に、饅頭屋町と言う名を残している。 庭園は方丈東側の松と石組みに苔の庭と、北側の池泉回遊式庭園とからなっている。書院から見ると、池の向うに茶室・水月亭と臨池亭が見える。京都府より名称庭園に指定されているが、天気が悪かった所為もあるが感銘少なし。

建 仁 寺 開 山 堂

  次ぎは、開山堂を拝観する。興禅護国院と称し、栄西禅師の廟所である。堂内は瓦敷であり、内陣の中央の方形石垣の中に栄西禅師の坐棺が埋葬されていると言う。庭は山門より開山堂への石畳が、菱形に並べてあるのが印象的であった。

久 昌 院

次に建仁寺の塔頭の、久昌院を見る。美濃加納城主・奥平信昌が三紅紹益和尚を開祖として一六〇八年に創建、信昌の院号の久昌院が寺号となっている。奥平信昌は織田・徳川軍が武田軍を破った長篠の合戦で、長篠城を死守した猛将であった。もとは定昌と言っていたが、この戦功により信長の名前から一字を貰って信昌とし、また家康の姫・亀姫を妻としている。 方丈前庭は池泉鑑賞式庭園であり、生け垣が二段となっているのが面白い。遠州好みの三畳台目の茶室がある。茶室の天井と点前座の天井が異なっているのが、謙譲の美徳を表していると言う事である。庭の前は苔と道が交差しており、やや整備が悪い感じあり。池の周りは護岸石と刈り込みで囲っており、燈篭が左右に一つずつある。右正面の石が滝を表しているのか、石の置き方もやや判然としないところが感じられる。武士の造った庭なので燈篭が置かれているのだろうか。二段の生け垣の右に、一本の葉振りの少ない木がある。その右は高い生け垣となっており、この構成は面白いと思った。  

建 仁 寺 本 坊 

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今度は建仁寺へと向かう。四条通から建仁寺へと入って行く道が、大変混雑している。建仁寺の入り口の少し手前に競馬の場外馬券売り場があり、今日は競馬の日であるための混雑のようである。この通りには祇園の歌舞練場もあり、御茶屋の多い祇園の真只中である。建仁寺は臨済宗建仁寺派の大本山であり、京都最初の禅苑として名高い。建仁二年 ( 一二〇二年 ) に鎌倉幕府二代将軍・源頼家が栄西禅師に帰依して建立したお寺である。創建当時は規制宗派に配慮して、台・密・禅兼宗の寺であったが、十一世大覚禅師・蘭渓道隆のときに唯一の禅刹となった。その後、室町幕府・豊臣氏・徳川幕府に支持されて、繁栄を続けてきている。 栄西禅師は備中吉備津宮神主の出で、十一才で仏門に入り、十四才で得度、叡山で顕蜜二宗を研鑚している。二十八才で入宋して半年後帰国、四十八才で再度入宋して天台山萬年寺の虚庵懐敝 ( きあんえじょう ) に師事して、臨済宗法脈第五十三代の衣鉢を継承。五年間の留学の後、帰国している。世は御鳥羽上皇の御代である。帰国後肥前で禅院を創立して弘通、圧迫に対して反駁し、「興禅護国論」を著わした。鎌倉に寿福寺を創建後、京都で建仁寺を建てている。以降京都と鎌倉を往復して活躍しており、また東大寺勧進職ともなり、大仏殿の復興にも尽力している。 本坊方丈は安国寺恵瓊(あんこくじえけい)が、安芸の国の安国寺より一四八七年建造の方丈を移築したものである。前庭は平庭枯山水で一面に白砂を敷き、門の左右に刈込を植え石を配した清浄感ある庭で、金戒光明寺の庭とよく似ている。門の向うに本堂が背景としてあるのも面白い。方丈左手も石庭となっており、五輪石塔が置いてある。石庭はそのまま西庭へも続く。西庭のところから庭に降りて、茶室を拝観する。 建仁寺本坊・方丈庭園