投稿

11月 16, 2020の投稿を表示しています

豊 国 神 社

  京都駅から七条大橋を渡って、「わらじや」の前を通過して左折し、豊国神社に着く。豊国神社の前にある公園のそばに、耳塚がある。ここは秀吉の朝鮮出兵の折りに持ち帰った敵の武将の耳を、供養のために葬ったところである。豊国神社内に入る。この神社の由緒は、次の通りである。豊臣秀吉は慶長三年(一五九八年)に、京都伏見城で六十二年の生涯を終え、遺命により東山連峰の秀峰、阿弥陀が峯に埋葬された。現在の豊国廟である。秀吉は後陽成天皇より、豊国大明神の神号を与えられ、その山腹の太閤垣(たいら)に権現造りの壮麗な社殿が造営され、神として祀られたという。その豊国社(とよくにのやしろ)は境域三十万坪の広大な規模であったという。しかしその豊国社は徳川の手によって破壊され、跡形もなくなってしまっていた。明治に入り、明治天皇のご沙汰により豊国社は別格官幣社に指定され、旧方広寺の大仏殿跡地に復興されたのが、現在の豊国神社である。 境内正面に立派な唐門がある。この門は旧伏見城の遺構で、西本願寺・大徳寺の唐門とともに国宝三唐門と呼ばれているそうである。宝物館に入る。館内には、鐵灯籠「天下一」や伝豊公御所用の獏御枕などがあるが、宝物館と言うにはやや逸品が少ない。境内を出て方広寺に行くが、ここは鐘楼がひとつあるだけの侘びしい造りのお寺である。方広寺は秀吉の作った木造寄せ木造りの大仏で有名である。その大仏は奈良の大仏より、三メートルほど高かったそうであるが、慶長元年の大地震で崩壊してしまった。その後秀頼が再興した大仏も、再度の地震で崩壊し、それが鋳つぶされて寛永通宝となった話も有名である。しかし今は「国家安康」と彫ったがために、家康を分断しようとする企みとして糾弾される源院となったその鐘が、ただ残されているのみであった。

高 台 寺

  紫野より、バスで河原町まで出て、そこからタクシーで高台寺に向かう。高台寺は夜の拝観できたことはあるが、昼間は見たことがないので、庭の写真を撮るつもりで入山する。先ず方丈にあがって、宝物の展示を見る。それから開山堂を拝観して、臥龍廊のうねった屋根を写真に撮った後、霊屋(おたまや)を見て、それから茶亭のあるところに上がってゆく。ここは前回は公開されていなかったので、始めてである。傘亭は屋根が竹と丸木で放射状に組まれており、唐傘を開いているように見えるところから、傘亭と命名されているが、正式には安閑窟と呼ばれる。傘亭と時雨亭は土間廊下でつながれている。時雨亭は二階建てとなっており、茶席は二階にある。その茶席から、北政所は遠くの大阪城が夏の陣で落城するのを眺めたと、伝えられている。有名な茶亭ではあるが、造りは至極簡素である。その茶亭から、竹藪のそばの坂道を下って降りる。 高台寺を出たところが、霊山観音である。ここは正式には京都霊山護国神社と呼ばれる。東山三十六峰の一つである霊山の麓に、明治維新で戦死した志士を祀るために、明治元年に創建された神社である。そこには高さ二十四メートルの霊山観音が鎮座している。柔らかな面立ちの観音が志士達の鎮魂を、祈り続けているようだ。

百 万 遍 知 恩 寺

イメージ
  次に京都大学の北側にある百万遍知恩寺を訪れる。この寺は浄土宗五大本山の一つであり、慈覚大師の草創により、もとは相国寺の北側の今出川通りにあった。一三三一年、第八世善阿が後醍醐天皇の命で大念珠を操って、七日間疫疾除滅のために百万遍の念仏を修した。その効あり、天皇より「百万遍」の号を賜ったという。御影堂、釈迦堂、阿弥陀堂等の立派な堂宇の立ち並ぶお寺であるが、今一つ心に残る印象的なものがないのは残念であった。  百万遍知恩寺 庭園

銀 閣 寺

イメージ
  秋の特別公開の寺巡りの第二回目は、昨年に夜の拝観しかしていない銀閣寺、百萬遍知恩寺、それと昨年見た特別公開の中でその端正な美しさで秀逸していた黄梅院とする。 河原町より車で四条大橋を渡り、川端通りを北上する。そして丸太町通りを右折して、岡崎神社の前を通り過ぎて白川通りに入り、すぐにまた右折して鹿ヶ谷通りに入る。住友の美術館である泉屋博古館の前を北上して銀閣寺前に着く。このルートは運転手さんによれば、あまり混まないで銀閣寺に到着できる道筋とのことである。銀閣寺の参道はもう入山のための長い列が出来ていた。しかし昨年の夜の拝観の時ほど待たないで、山内に入ることが出来た。 境内に入ると、大変な参拝者の数である。銀沙灘を見て特別公開の東求堂に上がる。ここはまた別料金となっており、なかなかしっかりしている。この寺はもともと足利義政の山荘として造営され、相国寺の禅僧達が相談相手となり、作庭に関しては善阿弥が制作にあった。本堂と東求堂の間の小庭に、銀閣寺灯籠が置かれてある。今見てもなかなかモダンな造りの灯籠である。まず仏間を見る。仏間には足利義政の念持仏と、義政自身の木像が安置されている。ついで室町時代の書院として貴重な遺構と言われる同仁斎の部屋に入る。この部屋は違い棚と連子窓のあるだけのきわめて簡素な部屋である。この部屋から眺める庭には、池はなく近くの月待山が迫って見える。 東求堂を辞して、庭に降り立ち池の側より東求堂を眺める。なかなかに瀟洒な建物である。銀閣観音殿の正面に立って、下層の心空殿と上層の潮音閣からなる柿葺きの観音殿を鑑賞して、門外に出る。帰り道の銀閣寺垣は、幾何学的な構成で印象的であった。 銀閣寺 銀沙灘

蓮 華 王 院(三十三間堂)

イメージ
  智積院より血塗り天井のある養源院の前を通って、三十三間堂にいく。このお寺は、高校の修学旅行の時に来たことがあるかもしれないが、その後O外事の時代にも訪れたことはない。入口は外国人の旅行者も含めて、大変な人出である。ここは本堂そのものが国宝となっており、正式名称は蓮華王院本堂三十三間堂である。 このお堂は千百六十四年に後白河法皇が、千一体の観音様を安置する仏堂を発願建立されたものである。その後京の大火により、堂宇・仏像の殆どが灰燼に帰したが、幸いにも千体仏のうち百五十六体と二十八部衆が救出された。その後千二百六十六年に後嵯峨上皇により再興の落慶法要が盛大に行われたという。御堂は単層入母屋造り、本瓦葺き、和様建築で柱間数が三十三もある世界でも類を見ない長い建物である。 内陣にはいる。北十五間に五百体、南十五間に五百体の合計千体の千手観音が列立している。その前に間隔を置いて、国宝観音二十八部衆が立ち並んでいる。この二十八部衆と百二十四体の千手観音は定朝から四代の孫弟子に当たる康助を始め、康朝・康慶・運慶等の手になるもので、一つ一つの美術的完成度は相当に高いように感じた。中央には蓮華座の上に高さ三メートルあまりある中尊千手観音座像が安置されている。これは大仏師運慶の長男、法印湛慶の晩年の大作である。この千手観音は正しくは「十一面千手千眼観世音菩薩」と言い、頭上には十一のお顔をつけ、両脇には四十本の手を持っている。「千手」とは、一本の手が二十五種類の世界において救いの働きをするので、四十の二十五倍すなわち千手を表すとされている。「千」とは無限無量の意味で、無限に多くの観音がこの世に満ち満ちているということで、それら全てを中央の千手観音一体に象徴させているのが、「千一体」の真の意味であるという。観音という仏はあらゆる人の苦悩や危険を全て救い助けて幸福にしようとする誓願を立てた菩薩と言われている。この御堂に入れば、千一体の夥しい数の観音に囲まれて、その一体一体から生ずる祈りが、この薄暗い御堂の中に立ち籠もっているかのように感じられた。御堂の裏手の回廊に展示されているものの中に、後白河法皇の愛した梁塵秘抄の歌が、展示されていた。      THE BUDDAH IS ALWAYS THERE. BUT ALAS, HE NEVER     COMES IN SI

智 積 院

イメージ
  宝物館を出て、門を潜って智積院の中にはいる。そこには立派な新金堂が建っている。当院の沿革によれば、昭和四十八年の弘法大師生誕千二百年事業として造営が開始され、昭和五十年に完成され、本尊は大日如来とのことである。しかし五年ほど前に来たときには、この本堂の印象がないのは不思議である。金堂横より上がって、名勝庭園を鑑賞する。この庭園は利休好みの庭といわれ、中国の廬山をかたどって造り上げられている。正面の石橋より右側は、祥雲禅寺時代に造られたもので、滝のある正面とその左側は江戸時代に入って修復されたものである。濡れ縁の右手、中央そして左手からと庭を眺める。こうしてみると、濡れ縁の左端の池が建物の下に入り込んでいるところからの眺めが一番である。正面の滝の落ちている築山はかなりの急斜面であり、それが丸みを帯びてぐっと前にせり出してきている。滝はその斜面の途中から落ちており、滝の出口のすぐ下に石橋が架かっている。築山の斜面全体には刈り込みと石が、バランスよく配されている。滝の水が池に落ちかかるところの石は、滝の水で穿たれたようになっているのも面白い。その右手には大きな石を立てている。左手奥にも池があり、正面の大きな池との境目に、石橋が架けられている。庭の右手の築山は、丸い刈り込みではなく斜面一面の刈り込みとなっている。右手の方は池がやや奥に引っ込んでおり、土橋が架けられている。そしてその手前の池の中央には、石橋が二つ繋がっている。上を見上げると、築山の斜面の向こうには、大きな樹木が壁を作るかのように並んでおり、これもまたこの庭の背景となって、全体の構図を深みのあるものにしている。築山の頂上には一基の灯籠と古木が並んでおり、なかなか味わいのある名園である。その後金堂の中の展示品を一通り見て、智積院を辞す。 智積院の庭園

智 積 院

イメージ
妙法院を出て、その南にある智積院を訪れる。この寺を訪れるのも五年ぶりくらいである。当院は真言宗智山派の総本山である。真言宗は弘法大師により、平安初期に開創されたが、それより三百年後の平安末期に興教大師が出て高野山において真言教学を刷新・再興した。興教大師はその後根来山に移った。そして根来寺は戦国時代には最盛期を迎えたが、秀吉に刃向かい一山悉く焼き払われてしまった。 この根来山の塔頭の一つが智積院であり、根来山の塔頭寺院の学頭であった智積院の玄宥僧正は、難を高野山・京都へと避けて根来の再興を願っていた。降って徳川家の時代となって、家康は、秀吉が愛児鶴松の菩提を弔うために建立した祥雲禅寺を、元和元年(一六一五年)大阪城の落城後すぐに、日頃帰依していた智積院能化(のうけ)に寄進した。 能化はこれを五百仏頂山根来寺智積院と改名したのが、現在の智積院の始まりである。真言宗智山派は成田山新勝寺・川崎大師平間寺等の大本山、名古屋の大須観音宝生院などの別格本山をはじめとして、全国に三千余ヶ寺を擁し、三十万の信徒を持っている。 入口の参道脇には、白と紫の桔梗が植えられていた。最初に宝物館に入り、国宝の障壁画を見る。ここに展示されているのは、長谷川等伯一派の楓図・桜図・松に秋草図などである。等伯は石川・七尾の生まれで、上京して狩野派の門を叩いたが、作風があわずに一派と対立、千利休と知り合い大徳寺に出入りしているうちに、その所蔵の名画に接して独自の画風を確立した。ここに飾られているのは、秀吉の時代に祥雲禅寺の障壁画として描かれたものである。桜図は等伯の長子久蔵二十五歳の作である。二本の桜を中心に、空間には弾力のあるしなやかな枝、画面全体に胡粉で盛り上げた直径六センチもある八重の花を蒔き散らし、地面には野の草花を配している。そして立体感を作り出す金雲や群青の池を描いている。画面は大胆な構図のもと、金と白とを基調とし、春爛漫の桜の景色を描き出している。久蔵はしかし翌年他界し、人生の無常を感じた等伯が、自己の生命力を傾けて描いたのが楓図である。画面中央に描き出された幹や枝の激しい動き、紅葉や秋草の写実性、空や池の抽象的な表現、色彩の強烈なコントラストとその一方でパステルカラー調の配色、それら全てが和合して生き生きと明るくそして絢爛豪華に楓樹を描き出している。画壇の主流をなす狩野派が、威

妙 法 院

イメージ
  玉座の間の濡れ縁に出て、瑪瑙の手水鉢を見る。案内の女性によれば、秀吉遺愛の品であり、材質は白大理石であり、柱の一部を切り取ったものを南方経由持ち込んだものらしい。それを寝かせて上部を穿って、手水鉢としたものである。桃山時代の、南蛮渡来の品の嗜好がよく判る。ここより見渡せる奥庭は、旧積翠園名残の庭であり、小堀遠州の作とも伝えられている。もともと流水の庭であったものを、流れが止まったため池としているが、池の底にコンクリートを張っているのがよく見えてしまい、その上築山あたりも剥げて土が露に見えており、実に風情に欠ける。左手の池の所には八つ橋が架けられており、そこには珍しい形の松も植えられているが、庭全体の手入れが全く不十分で、鑑賞するに耐えないのは残念であった。 大玄関を出て、大門の正面にひときわ高く聳え立つ庫裡(国宝)を見る。秀吉の千僧供養ゆかりの建物で、文禄四年(一五九五年)頃の建立である。棟高六十尺と言う大建築であり、桃山期の工匠の手になる名建築である。これまで見た庫裡の中では、最も規模の大きなものと言える。外に出て、もう一度庫裡の建物を見る。実に雄壮な造りであり、これが炊事用の建物だとはとても思えない。 妙法院の庫裡

妙 法 院

イメージ
  東山七条にある妙法院を訪れる。当院は、延暦寺の別院として当初比叡山の上に創立された天台宗の門跡寺院で、後に祇園そして当地へと移転してきた。当地に移ったのは江戸時代であり、その昔後白河法皇が構えた法住寺殿の広大な境域の中に建立され、大仏で有名な方広寺、さらには蓮華王院をも管領する東山随一の名刹として栄えたお寺である。代々法親王が住持され、霊元天皇の時期には、皇居炎上の際仮御所として使用されたこともある。 大変大きな構えの建物が連なっており、かつての往時を偲ばせる。宸殿の軒下には菊の御紋入りの提灯が掲げられており、むかしの仮御所としての風情を漂わせている。宸殿の一室は勤王派三条実美をはじめとする七卿が会議を行った部屋であり、「七卿落ち」の政変はこの寺から始まっている。 次に大書院の方に廻る。大書院南庭は中庭型式となっており、伏見桃山城の内庭を縮写したものである。瓢箪池の周りを刈り込みでかこみ、手前は白砂を敷いている。池の向こうはやや大きな刈り込みと樹木をあしらった、わりとこぢんまりとしたお庭である。庭の中央に灯籠を配しており、瓢箪池の中程には石橋が架かっている。この石橋は楠の化石を使用していると伝えられている。規模は小さいがそれなりの統一感を持った庭であった。大書院より御座の間、それに続く玉座の間を見る。ここは明治天皇のおなり御殿である。玉座に座れば正面と左手が障子戸となっており、お庭を見渡すことの出来る開放感のあるお部屋である。違い棚の上に掛けられている扁額は、「ばく清」(ばくー禾編、白、小、彡)とあり、その意は奥深く清いこと、転じて世の中の穏やかに治まるの意、とのことである。 妙法院の宸殿