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11月 7, 2020の投稿を表示しています

法 然 院

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  雨降りで暗くはあったが、山門への登り口は風情がある。山門がやや高くなっており、そこから堂内の白砂壇と池が見下ろせる。白砂壇の中を通る事で、心身を清めて浄域に入る事を意味するようである。本堂は本尊阿弥陀如来を須彌壇に祀ってある。方丈庭園は山畔池泉鑑賞式で、池に石橋が架かりその向うの山畔には階段があり、石の鳥居が見える。三尊石を置いた浄土庭園との事であるが、興趣は少ない。「善気水」が湧いているとの事であったが、これを見るのは逸してしまう。方丈庭園の奥にももう一つお庭があったが、これもあまり感心しない。山内には学者や芸術家などのお墓が多い。著名な人物としては、内藤湖南・九鬼周造・河上肇・谷崎潤一郎・福田平八郎などがいる。 法然院・入山

法 然 院

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  法然院 山門

洛 東 ・ 法 然 院

  最初に法然院に行く。当院は鎌倉時代の始めに、専修念仏の元祖である法然坊源空上人が、鹿ケ谷の草庵を営んだのが始まりと言う。この地で法然は弟子の安楽・住蓮とともに念仏三昧の別行を修し、六時礼讃を唱えた。一二〇六年、後鳥羽上皇の熊野臨幸の留守中に、上皇の寵姫であった女房の松虫・鈴虫が安楽・住蓮を慕って出家してしまった。この事が後鳥羽上皇の逆鱗に触れて、法然は讃岐に流罪、安楽・住蓮は死罪となり草庵は荒廃した。松虫・鈴虫も草庵で自害させられている。実はこの事件の前に、法然の教団による念仏仏教が盛んとなり、信徒も増えてきていた。これを警戒した北嶺 ( 比叡山 ) や南嶺 ( 南都興福寺 ) により、専修(せんじゅ)念仏の全面停止(ちょうじ)の奏上が出されており、ちょうどこのような状況のときに松虫・鈴虫事件が起きて、念仏停止となったのである。そうしてこの事件の折りに、親鸞もまた越後に流されている。草庵は久しく荒廃していたが、江戸初期 ( 一六八〇年 ) に知恩院第三十八世萬無和尚が発願し、弟子の忍より善気山萬無教寺として再興された。浄土宗内の一本山であったが、昭和二十八年浄土宗より独立し単立宗教法人となった。

六 角 堂

  ここは本堂が六角形をしているところから、六角堂と呼ばれているが、正式には頂法寺という。御池と四条烏丸の中間を少し入ったビル街の谷間に、六角堂はある。開基は聖徳太子であり、堂内には太子の念持仏の如意輪観音像が安置されているとのことである。本堂前の礎石は「へそ石」と呼ばれ、古来よりここが京都の中心と言われている。 今日は六波羅密寺、六道珍皇寺、六角堂と六の字の着くお寺を三つも廻ることとなった。特に目的の先の無いこうした日でないと、なかなか回れないお寺ばかりを巡ったが、これも又一つの気の置けないお寺巡りであった。

東  寺

次いで金堂に廻る。今のお堂は豊臣秀頼が発願し、片桐且元を奉行として再興されたもので、天竺用の構造法を用いた豪放雄大な気風の漲る桃山時代の代表的な建築と言われ、細部には唐・和風の技術も巧みに取り入れているという。金堂の中に入る。ここには薬師如来を中心に、右に日光菩薩、左に月光菩薩の脇侍を配している。これらの三尊像は桃山時代の大仏師である康正の作で、密教的な薬師如来の姿をとどめていると書かれてあるが、いずれのお顔も宗教的な崇高さを感じさせないのは残念である。薬師如来の台座の周囲に、十二神將を配置していたようであるが、これは残念ながら見落としてしまった。弘法大師は「祈りなき行動は盲動であり、行動なき祈りは妄想である」として、高野山を修禅の道場として開き、そこで得られた知恵を利他行としてこの東寺で実践されたという。弘法大師のように仏の教えを実践で世の中に具現すると言う、宗教の純粋さと情熱に溢れていた仏教の興隆期に祈りをこめて造立された仏像と、やや体制化された仏教のもとで造立された仏像の違いを目の当たりに見るようであった。金堂から出て、五重塔を背景にして写真を撮る。東門の手前まで来たところで、池に蓮の花が咲いているのが目に留まる。それでこの蓮の花を入れて、五重塔を撮す。  

東  寺

  東寺の東門前で下りて、境内に入る。お寺は東が大宮通り、西が壬生通り、そして南が九条通りに面した広大な敷地である。日陰の少ない境内を、まず観智院を探して歩く。この観智院は北大門を出たところにあったが、現在拝観謝絶中であった。そこでまた戻って、講堂と金堂を拝観することとする。 東寺は別名左大寺とも呼ばれ、平安京造営の折に、羅城門の東西に王城鎮護のために建てられた二つの官寺のひとつである。その後八二三年に嵯峨天皇がこの寺を弘法大師空海に下賜されてより、本格的な造営と活動が始まったという。また東寺は一寺一宗制の始まりともなり、空海の真言宗のみのお寺となったのである。鎮護国家・萬民豊楽を祈る教王護国経が修せられ、それが教王護国寺の寺名の由来となった。また空海は高野山を密教修行の地とし、東寺を真言宗開宗の根本道場として社会活動の拠点とされたという。 拝観受付より入る。この東寺の伽藍配置は、南大門から一直線に金堂、講堂、食堂が並んでおり、南面左右には、左手に徳川家光の寄進により竣工した総高五十七メートルの日本最高の五重塔が建ち、右手に密教の法を継承する重要な儀式である伝法灌頂が行われる灌頂院が置かれている。まず講堂内に入る。講堂(国宝)は八三五年に建立されたがその後戦火で消失し、現在のものは一四九一年に再建されたものである。堂内には大小の仏像が整然と並んでおり、これだけ多くの仏像の並んだ御堂を拝観するのは三十三間堂を除いては初めてであり、その見事さに驚かされた。ここには空海の説く密教の教えを表現する、立体曼陀羅(密教浄土の世界)の諸尊が立ち並んでいる。この曼荼羅諸尊は、中央に如来部、右手に菩薩部、左手に明王部が配置され、四隅に四天王それに右隅に梵天、左隅に帝釈天が置かれてある。右手より順に見て行く。まず四天王は東大寺の戒壇院のものと比べると、動きと装飾性が高く、顔もかなり動物的な感じがする。菩薩部には中央に金剛波羅蜜多菩薩(一番新しい仏像)があり、その廻りに右手前より時計回りで、金剛宝菩薩、金剛法菩薩、金剛業菩薩、金剛薩ダ(土へん+垂)菩薩が配置されている。この中では金剛宝菩薩が一番であった。お顔全体が凛と引き締まっており、しかも高邁な思惟を思わせる柔和で且つ高雅な眼差し、大きく山なりに反っている眉毛、すっきり押した鼻筋と引き締まった口許。国宝の四菩薩は同時期の作であ

擁 翠 園

今日は先輩より教えていただいた、今開園中の擁翠園を見に行く。地下鉄の鞍馬口駅で降りて、その近くのお店で場所を確認しながら行くと、京都貯金事務センターがある。なかなか立派な門構えであり、門前で擁翠園と郵便貯金のパンフレットを呉れる。それによれば擁翠園の沿革は次の通りである。一四〇五年に室町幕府の管領であった細川満元が、鹿苑寺創建の余材をもってこの地に邸宅と庭園を造園したのが始まりである。細川満元の没後この邸宅は禅寺に改められ、満元の院号に因み「岩栖院」と名付けられた。一六一〇年頃徳川家康により岩栖院の建物は南禅寺に移されてしまい庭園は荒廃していたが、この地を与えられた後藤長乗が、前田利常の助けを借りて邸宅を建て、桂離宮や大徳寺孤蓬庵などの庭園を設計した小堀遠州に依頼して、庭園を改築し直したという。邸宅は庭の大きな松の木に覆われていたため「擁翠亭」と名付けられ、又庭園は「擁翠園」と称されてきた。その後約三百年にわたり当園は後藤家の地として維持されてきたが、明治初年の廃刀令により、代々刀剣類の飾り金具彫刻、小判の鋳造などを手掛けてきた後藤家から持ち主が変わり、昭和二十六年に郵政省の所有するところとなり現在に至っている。 正門は後藤氏が徳川家康から賜った門で、「陣中幕張門」と呼ばれている。正門から入園し苑路を進むと、庭の入り口にある「唐破風鳥居」の所に来る。現在の鳥居は木造であるが、ここにはもともと厳島神社にあった石の鳥居が立っていたと言われる。平清盛が厳島神社にあった石鳥居を兵庫の福原に移し、その後室町時代後期に十二代将軍足利義晴が、この地に移し建てたという。しかし明治初年にその石鳥居は京都御所内にあった九条邸に移されたという。以前京都御苑の南にある厳島神社を見たことがあるが、その折りに石鳥居があったのを思い出す。京都御苑にある厳島神社は清盛が母の祇園女御のために安芸の国から兵庫の福原(築島)に勧請したものを、室町時代に同地へ移建したものだという。厳島神社の隣には、「拾翠亭」と言う九条家の書院風数寄屋造りの邸宅と庭園があり、かつては厳島神社も含めて摂関家である九条家の邸宅内にあったものと思われる。「擁翠亭」と「拾翠亭」と言うように、共に「翠」の字を使っていることから、この二つの邸宅には何か共通項があるのかもしれない。いずれにしてもこうして京都の名所旧跡を廻っていると、

西 本 願 寺

  今日は西本願寺の飛雲閣公開の最後の日と言うことで、午前中の新幹線に乗り一時過ぎに京都に着く。京都駅よりすぐにタクシーに乗り継いで西本願寺までやってきたが、最終日と言うこともあり入園を待つ人の行列が延々と連なっており、三時間待ちと言うことなので入園はあきらめて阿弥陀堂と御影堂を拝観する。 「本願寺グラフ」と言うパンフレットによると、当寺の大まかな歴史は次の通りである。本願寺は浄土真宗本願寺派の本山で、その位置より西本願寺とも言われている。浄土真宗は鎌倉時代の中頃に親鸞上人によって開創された。もともと本願寺は親鸞上人の廟堂から発展したもので、上人が九十歳で往生すると(一二六二年)東山鳥辺野の北、大谷に石塔を建て遺骨を納めた。その後一二七二年に現在の大谷廟堂の地に移されている。三代覚如上人はこの廟堂を本願寺と称して、真宗教団の中心地とした。その後室町時代中葉に八代蓮如上人が出るに及んで、本願寺は著しく興隆し比叡山の勢力圏である近江にも広く及んだ為、叡山僧徒の反目を買いついに一四六五年に本願寺は襲撃を受け破壊された。こうして大谷の地を退出した蓮如上人は近畿各地を転々とし、やがて越前の吉崎を根拠地として北陸の諸地を布教された。その後上人は再び近畿の地に戻り摂津・河内その他の地域の教化に努め、一四七八年には山科で本願寺を再建して、八十五歳で大往生を遂げている。蓮如上人は大坂・石山にも坊舎を建てたが、戦国の戦火の時代にあった証如上人の折に(一五三二年)山科本願寺は日蓮宗徒や細川氏らの攻撃を得て炎上した。為に本願寺は大坂・石山の坊舎に移り、ここを本山とした。このころ本願寺は加賀を勢力下に治め、一五五九年には十一代顕如上人に門跡が勅許されている。しかし一五七〇年に至り織田信長が西国への要路である大坂の地に目を留め、石山本願寺にその地の譲渡を求めてきた。その後十一年にわたる石山合戦の後、一五八〇年に正親町天皇の勅によって和議し、本願寺は紀伊・鷺森に移った。その後更に和泉・貝塚、大坂・天満へ転じたが、一五九一年に豊臣秀吉が京都・六条の現在の寺地を寄進したので、本願寺は旧縁の地へと戻ってきたのである。一五九二年に顕如上人が急逝、その後を長男の教如上人が嗣いだが、顕如上人の譲り状が三男准如上人宛となっていたため、教如上人は引退して北殿に住し裏方と呼ばれていた。徳川家康が政権を握ると(

誓 願 寺

  誠心院より少し上がったところに、誓願寺がある。当寺は深草山と号し、浄土宗西山深草派の総本山である。寺伝によれば飛鳥時代に、天智天皇の勅願寺として奈良に創建され、後に深草に移り、平安遷都におりに上京区に移された。現在地には天正十三年(一五八五年)に移され、秀吉の側室松丸殿の発願により、十二年の歳月をかけて壮大な堂宇が建立されたという。本堂には江戸時代の作である阿弥陀如来座像が祀られている。如来の白眼が薄暗闇の中に浮かんで、衆生を見据えているかのようである。寺宝の展示品の中では、「誓願寺縁起」三幅が見応えがあった。はじめの二幅は室町時代の土佐光信の筆になるものとのことである。(重要文化財)

誠 心 院(和泉式部の墓)

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  誠 心 院(和泉式部の墓)

誠 心 院(和泉式部の墓)

  秋の特別公開のお寺を廻るべく、阪急で京都に向かう。行楽シーズンのためか、四条河原町行きの特急には長蛇の列が並んでいる。四条河原町で腹ごしらえをする。天ぷらうどんにキムチを入れて貰って食べる。なかなかうまい。新京極の入口の交番で、特別公開中の誓願寺の所在地を確認する。若い警官が丁寧に教えてくれる。誓願寺に向かうべく新京極を上がっていくと、右手に誠心院というお寺があり、そこには和泉式部のお墓があると書いてある。中に入ってお寺の人に聞くと、墓地の奥の戸を開けた中に和泉式部のお墓があるという。木の戸を開いて入ると、そこに宝篋院塔の形をしたお墓がある。高さ三メートルはあろうかと思われる、立派なお墓である。その墓は新京極の通りに面しており、表通りからも網戸でなかをのぞくことが出来るようになっている。王朝時代の恋多き閨秀歌人であった和泉式部のお墓が、こうして京都の繁華街の真ん中に残されているという所に、京の町の奥深さと味わいがあると思われた。            あらざらむ この世のほかの 思い出に                今ひとたびの 逢ふこともがな        もの思えば 澤の蛍も わが身より                あくがれいずる たまかとぞ見る        黒髪の 乱れも知らず 打ち臥せば                まずかきやりし 人ぞ恋しき                         和 泉 式 部

京 都 御 所

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  京都御所 洲浜

京 都 御 所

  南庭は回廊に囲まれており、白砂を敷き詰めてある。白砂の持つ清浄さ、広がりは、神道からのものであろうか。それが後になって禅寺の庭に用いられたのも、面白い感じがする。南庭より北西の門を潜ると、清涼殿がある。ここは天皇の日常の住まいであり、御常御殿ができるまではここが生活の場であった。前には漢竹と呉竹が植えられている。この清涼殿には東廂、殿上の間(南廂)、母屋、夜の御殿などがあるが、奥の間は西廂であったようである。 次に小御所に回る。小御所は昭陽舎代とも呼ばれ、主に皇太子の元服式や立太子礼に用いられたが、幕府の使者や大名の拝謁などにも使用された。慶応三年(一八六七年)十二月九日の王政復古の大号令は、ここで発せられた。青紺がベースとなっている襖が、色彩鮮やかである。小御所の前庭を、御池庭と言う。大きな池を中心にした回遊式庭園で、前面に州浜を造り、そこには大きさの揃った丸石を敷いている。池には右手に大きな島があり、弧を描いた欅橋が架かつている。また左手のやや小さな島にも、橋が二つ架かつている。中央にある島には、灯篭が置かれている。樹木は松が中心で、その松葉は一つ一つが見事なまでに剪定されていた。小御所と並んで、御学問所がある。そこには正装の皇太子および皇太子妃と思しき人形が設置されている。その前庭を東庭と呼び、ここで蹴鞠が行われるようである。   東底より次いで御内庭に入る。ここには御常御殿があり、大小十五間からなる畳敷きの書院造りである。この奥座敷は、男子禁制であったと言う。御内庭は曲折した遣り水を、正面左手より右手に流しており、途中に土橋・石橋・木の橋を架けている。遣り水の水際には丸石を敷いており、また遣り水の流れの底にも丸石を敷き詰めており、水の流れがそのために極めて清浄に見える。燈篭や庭石も所々に配しており、植栽に工夫を凝らした曲水のお庭である。奥には茶室「錦台」と言うのも、設えてある。   京都御所のうち一般に公開されているのはここまでで、想像していたより小規模な造りとの印象であった。帰り口は、清所御門であった。

京 都 御 所

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  京都御所

京 都 御 所

  今日は秋の特別公開の最終日であり、入門したのは、南西にある宣秋門である。入場料は無料である。考えてみれば国の資産であり当たり前のことであるが、他のお寺などは四百円から六百円の入場料を取るのが当たりまえとなっているので、何か得をした感じがする。車寄せ、諸大夫の間、新車寄せの前を通って、紫宸殿のほうへと回る。南にある建礼門院のところには皇宮警察が番をしており、承明門の前には儀仗兵らしき二人が、不動の姿勢で立っていた。南東の建春門の前を通り、春興殿の手前の日華門より南庭に入る。大変な行列となっている。左近の桜、右近の橘が紫宸殿の前に植えられている。紫宸殿は御所の正殿で、即位礼や節会などの厳儀を行うところである。この紫宸殿はもともと里内裏のひとつであった土御門東洞院殿の紫宸殿であり、本来の平安京の大内裏は、ここより西北に二キロくらい離れたところにあった。そして即位礼は本来大内裏内の大極殿で行うものであったが、一一七七年平安末期に炎上後は再建されず、その後土御門天皇の即位礼までは太政官で行われてきた。しかしこれも失われて、応仁の乱となる。その次の後柏原天皇以来は、現在の紫宸殿で即位礼は行われ、それ以来この土御門東洞院内裏が、御所として拡張されてきたのであった。   現在の紫宸殿は桧皮葺き屋根の木造高床式で、純和風寝殿造りである。屋根の張りも優雅で立派であるが、天皇の礼殿として考えると、豪華と言うよりは質素ともいえる造りである。造りとしてはかえって二条城などの建物のほうが、装飾も絢爛であり豪華と思われる。しかし御所は神聖な天皇の政および生活の場として、伊勢神宮に見られるように簡素かつ清浄な美を持つものでなければならないのだろう。御門については、天皇のみが(外国元首も)建礼門を使用、皇后と皇太子(外国の首相)は建春門、北側の朔平門は皇后御常御殿の正門、西側北の皇后御門、皇子女の用いる清所御門、そして宜秋門(唐門、公家門)は摂家・親王・門跡・公家などが用いた門である。

蘆山寺

  みかの原 わきて流るる いづみかわ  いつみきとてか 恋しかるらむ   藤原兼輔    御所内に入り、仙洞御所の周りを歩いて、丸太町通りに向かう。京都御苑南端に、厳島神社がある。ここは九条家の邸内で、もともとは平清盛が安芸の国より厳島神社を兵庫・築島に勧請。それをこの拾翠池に移転したものであるという。市杵島姫命(いちきしまひめみこ)と祇園女御(清盛生母)を祀っており、家内安全・商売繁盛の神であるという。  

廬山寺の桔梗

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     廬山寺の桔梗

廬 山 寺

御所東側の廬山寺へと行く。当寺の正式名称は廬山天台講寺であり準門跡寺院であるが、九三八年に慈恵大師が船岡山に創建したものである。その後紫野などを経て、桃山時代に正親町天皇(おおぎまちてんのう)の領地を下賜されて当地に移っている。昭和四〇年に考古学者・角田文衛博士により、当寺の境内が紫式部邸趾であったことが判明、爾来紫式部のお寺として有名になった。皇室直属の御黒戸(尊碑殿)四ヶ院の中で唯一残存する摂家門跡であるという。現在の仏殿、御黒戸は徳川家斉の時代に光格天皇が勅命で再建されたものである。光格天皇は当寺で度々月見の宴を催されたという。  角田博士によれば、紫式部は曾祖父・権中納言藤原兼輔(堤中納言)の建てた邸内で育ち、名を藤原香子と言った。この邸宅で結婚生活を送り、一人娘の賢子を産み育てて、五十九歳ぐらいで没したとされている。はじめは藤式部と呼ばれたが、紫野で生まれたことや、紫の上の名より紫式部と呼ばれるようになったとの説もある。藤原冬嗣より数えて紫式部も藤原道長も共に六代目であり、主流と傍系との違いはあるが、まさに同時代に生きており、当然交流もあったと言われる。また光源氏には様々なモデルがいるが、藤原道長もモデルの一人と言われている。当寺に掲示されていた系図によれば、兼輔の娘(紫式部の伯母)は醍醐天皇に入内しており、土御門天皇を産んでいる。また賢子の子孫の一人も、天皇と結ばれており天皇家との関わりが深い。天皇家との関わりが深く、また傍系ではあるが藤原一族であったことより、紫式部の作品「源氏物語」が特別扱いされた面もあったのかもしれないと感じる。紫式部はユネスコにより世界の五大偉人の一人に選ばれており、世界最古の文豪とされている。  庭園は平安朝の感じを表現したもので、新しく造園されたものらしいが、白沙と苔の島、苔の陸地に松を配しており、独特の風情あり。  

瑞 春 院

  境内にある瑞春院を訪れる。他の観光グループと一緒に拝観する。まずは梅村景山による八方睨みの龍の襖絵の部屋、それから孔雀の間、雁の間と順次見てまわる。この寺は水上勉が十歳で若狭より入門して、「雁の寺」にその想い出を書いたことで有名なお寺である。孔雀の間の来迎三尊は阿弥陀如来を中心に、右に観音菩薩、左に勢至菩薩を配しているが、その両脇侍が雲に乗っているところが珍しい木造の御仏であった。 雲泉庭は昭和の作庭家・村岡正により造園されたもので、夢窓式庭園を復元したものである。心字池を持つ池泉鑑賞式庭園で、三十三石を配して観音巡りを表しているという。庭には久昌庵があり、これは不審庵を模したものである。その傍らに水琴窟があり、繊細な音色を響かせていた。当院の創建は一四六六年である由。

相国寺 開山堂

  相 国 寺 開 山 堂    タクシーで相国寺へ行く。堀川通りを下って今出川通りを東へ向かい、烏丸今出川に出る。ここは御所の北側で、相国寺への参道の両側には同志社大学がある。薩摩藩邸もこの辺りにあったようである。相国寺は三代将軍足利義満創建(一三九二年)で、正式には万年山相国承天禅寺と言う。創建時義満は左大臣であり、左大臣は中国で相国と言ったことから、相国寺と命名されたようである。臨済宗相国寺派の大本山であり、金閣寺・銀閣寺は当寺の山外塔頭である。  開山堂を特別公開中であり、ここは開山夢窓国師を祀っている。歴代の国師像が祀られている。しかし年表によれば、夢窓国師は一三五一年没となっているので、夢窓が実際に開山したのではなく、庭好きの義満が夢窓を偲んで開山としたのであろう。庭園は賀茂川の水を引き、庭の左側と正面中程に流水を通しており(これを龍淵水という)、流水の内側を白砂と石庭として、その向こうに苔と石と樹木を配置した独特の形式である。正面右手前に大徳寺本坊庭園と同じく、平たい石を埋め込んで平面のみを出している島を配置している。これは亀島を寓意しているものなのかもしれない。そうすると左奥の立石が、鶴島となるのであろうか。無一物という説明をしていたが、この庭も自然を抽象化し、また流れで庭を仕切ることによって空間を凝縮させると共に、その向こうの苔・石組み・樹木の配置で広がりを持たせるという、他に類を見ない庭の形式である。  中央左奥の楓樹が紅葉しており、美しい彩りを添えている。流れの向こう側の庭は室町時代前期の夢窓国師による作庭方法のイメージもあるが、前方の石庭から推察すると一六〇〇年前後の作庭となるのだろうか。極めて趣深し。

本法寺

  庭園は本阿弥光悦作庭のもの、と言われている。本阿弥家は光悦の曾祖父・清信(足利家に仕え、刀剣の鑑定・研磨を家業とした)が日親上人と同時期に投獄され、その時に帰依して以来の繋がりがある。天正十五年の移転の際、光悦は父・光二とともにその完成に尽力した。本庭は三巴の庭と呼ばれ、書院東側から南側へ回り込んだ鉤型の庭となっている。渡り廊下を越えて、庭正面の書院へ行く。そこには将軍家茂滞在の間がある。庭は東南の隅に枯れ滝石組みがあり三尊石があるが、中の石を斜めにすることで落水を象徴している。その手前に白砂が大海へと出るその出口に、石橋を架けている。三巴の名の由来は、古来庭園地割りの三ヶ所に巴形の低い築山が造られたことによる。現存のものは改造築などで、様相を随分と変じている。枯れ滝の左方に灯籠を置き、庭先の手前には切石十本による十角形の蓮地を設えている。 そもそも枯山水庭園は禅宗のものであったが、桃山時代には他の宗派にも普及した。そしてこの日蓮宗の庭にも、枯山水と灯籠と十角の池を持つ庭の誕生となったのであろう。しかし禅の庭はやはり簡素さと抽象性の中に良さがあるもので、時代が変わると庭も変容して行くものである。写真等で予想していたものよりは、手入れも悪くやや興趣少なし。

本法寺・庭園

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京都・洛中 本法寺

  本 法 寺         大徳寺より、本法寺へ向かう。堀川通りに面したバス停より、やや戻る。正式名称は日蓮宗本山叡昌山本法寺で、一四三六年(足利義教の頃)日親上人の開創によるお寺である。上人は立正治国論を義教に建言し、怒りを買い投獄され寺も焼却された。また上人は焼鍋を頭に被せられる刑罰なども受け、ために「冠鐺(なべかぶり)日親上人」とも呼ばれた。しかし上人の大慈大悲の法華弘通の大不動心は、花園天皇の叡感に叶って官地を賜り、本堂を再建している。天正十五年に及んで、豊臣秀吉の帰依を受けて、当地へ移転している。時の上人は第十世日通上人である。 はじめに長谷川東伯筆になる涅槃図(一五九九年)を見る。縦十メートル、横六メートルの涅槃図で、日本最大級という。