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12月 17, 2020の投稿を表示しています

大 洞 弁 財 天

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  彦根駅について、タクシーで龍潭寺にむかう。運転手さんの話ではその近くにある大洞弁財天も一見に値するとの由、龍潭寺前に着きまずその日本三大弁財天の一つであるという大洞弁財天への山道を登って行く。 当弁財天は、石田三成の佐和山城趾のある山の北端に位置している。院号は長寿院と言い、江戸幕府の日光普請奉行でもあった四代藩主井伊直興が創建したお寺である。日光の大工をたくさん連れてきて、日光の東照宮と同じく権現造りの豪華さを持つ建物として造り上げられたので、通称彦根日光とも呼ばれているそうだ。楼門の左右には日月の二神像を配し、彦根城の鬼門を厄払いすると共に、軍事的役割を持っていたとされる。竣工は一六九六年犬公方綱吉の元禄時代であり、閑谷学校の聖廟と同じ頃の建物である。同時代人としては、井原西鶴、松尾芭蕉、円空、楽一入、菱川師宣、徳川光圀、尾形光琳などがあげられる。当弁財天は近江七福神の一つでもあり、建立のときに西国・秩父・阪東の二百八十一カ所の砂をすべて集めて埋めてあるとのことである。従ってここを参拝するのみで上記三カ所の巡礼をしたことになるようであり、商売繁盛・学業成就の御利益があるそうである。 堂内の弁財天は左手に玉、右手に剣を持っており、風貌は家康公を模したような感じがあり、また左右には龍の脇士があるのも珍しい。欄間には権現造りの様々な彫刻があり、まさに小東照宮である。そもそも天部とは、仏教がそれ以前の既成宗教であるバラモン教などからそれらの神々を同化したものであり、明王とともに天部もそれらの民間信仰の神々を、仏法も守る善神として転化したものである。天部は梵天・帝釈天それから四天王(増長天・広目天・持国天・毘沙門天)のように邪気を踏みつけながら仏国土の四方を守護する怒りの男神ばかりでなく、豊かな肉体と美しい容姿を持つ女神もおり、それが弁財天と吉祥天である。吉祥天が福徳円満・五穀豊穣の神として信仰されたのに対し、弁財天は水の恵みの神として商売繁盛・学業成就の神として信仰されてきた。これ以外にも伎芸天という女神もいる。 大洞弁財天

安 土 城 趾

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  大阪駅より十時半の新快速米原行きに乗車、京都までは約三十分、それから四十七分の合計一時間十七分で彦根に到着の予定である。近江八幡の駅近くでは、関白豊臣秀次(秀吉の甥)により築城された八幡城の城山が見える。山の麓からはケーブルカーが登っている。近江八幡の街も秀次の十年後の自裁により取り残されたが、その中から逞しい近江商人が育ってきたのであろう。近江八幡の駅を出てやや進むと、前方に山の連なりが見えてくる。その左端の小高い山が安土山で、安土城趾となっている。なだらかな横長の山でここにかの信長が、「平安楽土」の文字の中より「平安」京に対抗するものとして「安」と「土」を取り出して命名した安土城を築き上げたのである。フロイスなどを始めとする宣教師たちが、京を経てこの安土城までやって来た時代もあったのである。電車は安土山の右の裾野を通過して行く。 安土城跡

永 平 寺

  朝十時の雷鳥で大坂を出発。福井へ二時間余りで到着。京福電鉄の福井駅で蕎麦を食べ、永平寺へ向かう。東古市でバスに乗り換える。約三十分で永平寺に到着する。門前の土産物商店街は賑やかである。お寺には通用門より入山する。左右は大きな杉木立の道で、自然の森閑さが伝わってくる。総受所に入ると、このお寺を訪れる人々の多いのに驚かされる。総受所のある吉祥閣は、宿泊所にもなっている。吉祥閣の日本間で、堂宇内はすべて左側通行である等の注意を受ける。 まず東司(便所)より堂宇に入る。東司と浴室は山門を中心に東西にある。山門より北へは中雀門、仏殿、一文字廊、法堂(はっとう)と並んでいる。東司の上には僧堂、その反対側は庫院(くいん)である。まず僧堂より見る。僧堂は座禅をし食事をしかつ眠るところであり、まさに修業道場である。次に中雀門を通って仏殿へ行く。ここは祈祷の場であり、本尊は現在仏の釈迦牟尼仏であり、左手に過去仏の阿弥陀仏、右手に未来仏の弥勒仏の三世如来を祀っている。一文字廊を通って承陽殿へ行く。ここは開山道元禅師の御真廟である。石段の上を履き物無しで歩いてお参りをする。仏僧は毎朝夕、ここにお参りをするそうである。次いで法堂に行く。ここは貫主説法の道場で、朝の勤行や各種法要儀式はここで執り行う。聖観音菩薩が奉祀されており、千名の衆僧を収容することが出来るほどの広さがある。そこより大庫院(台所)、浴室を経て山門へ。唐様総欅造りの重層楼門で、七四九年の改築で堂宇内最古のものという。廊下には合図のための分厚い板が掛けられてあり、毎日打っているためか、真ん中に大きな穴があいている。祠堂殿は先祖供養の御堂である。広島と福井の両亡父のために、瓦志納を行う。経本、念珠、月刊誌を頂く。 永平寺の由来は、次の通りである。京にあった道元は、自らが高名となるに従って、自分の名声が世俗のために使われることを嘆くようになっていたが、そこに鎌倉武士で大檀那の波田野義重公の勧めがあり、越前の国志比庄に移って一二四四年に開創した出家参禅の道場が始まりである。十万坪に境内に大小七十の伽藍が建ち並び、樹齢六八〇年の鬱蒼とした老杉に囲まれた佇まいは、古色蒼然とした霊域を創り上げている。 道元は一二〇〇年に京都に生まれ、八歳で母の他界に逢い、十三歳で比叡山横川に出家。二十四歳で中国に渡り天童山の如浄禅師について

閑 谷 学 校

  焼き物の里を後にして、閑谷学校へ行く。創設者である藩主池田光政が、この地を選んだらしい。谷間の静寂な山の懐となっている場所で、確かに風趣に富む優しい感じの土地である。一六六八年に最初の手習い所を設け、その後重臣津田永忠らによって拡張された。学校へは所領も与えられ、光政がいかに庶民教育を大切にしたかが伺われる。学校は高さ一メートル半以上、幅も一メートル以上の石壁で囲まれている。門・講堂の屋根はすべて備前焼の瓦で敷かれており、受ける印象は中国宗風である。学校は全寄宿制であり、小学生くらいの子供も入寮させており、教育への情熱が偲ばれる。光政公は実に開明の名君であったのであろう。孔子廟もあり、山田方谷もここで傑出した人物を教えたようである。

伊  部

  藤原啓記念館より、伊部(いんべ)の街・備前焼の里に入る。金重利陶苑(号陶弘)に入って、釜を見せて貰う。登り釜、電気釜を見てそれから轆轤を回しているところも見せて貰う。電気釜はちょうど釜を開けたところであり、陶器がまだ藁灰の燃えかすの中に埋もれているところも見せて貰った。 備前焼の由来は須恵器より始まっており、釉薬を使わず素地のままで強い火で長い間焼きしめ、火加減により現れる窯変の絶趣洵に掬すべきものと書かれてある。桃山時代に茶道具として好まれ、その後江戸時代には藩主池田家の保護により、現在まで連綿と釜の火は続いている。自然の焼成による焼き肌との綜合的な美観が備前焼の持ち味で、焼色も主に次のようなものがある。胡麻焼、桟切(さんぎり)焼、緋襷(ひだすき)焼、青焼、また石はぜと呼ばれるものは、陶土の中に含まれた自然の石が焼成の際に土と石との収縮の差で器物の肌に弾けて、一見傷のようであるがそうではなく自然の柄となり、その美しさが珍重されている。 利陶苑で記念になるものを買おうとして最初は安価なものを見ていたが、やはりじっくりと見るとやはり高価なものの方が味がある。電気もしくはガスと炭との焼成の差もあるのであろう。結局徳利とお猪口を一つずつ買い求める。

牛  窓

  邑久より岡山ブルーラインに乗って、牛窓(うしまど、奈良時代にこの地区の港であり、文化の受け入れの窓であった)の北を通り、片上湾を橋で越えて日生(ひなせ)に着く。鹿久居荘という料理旅館で昼食。刺身弁当と蛸の踊りを食べる。 そこから片上湾に面した藤原啓記念館へ行く。明治三十二年生まれの藤原啓は、代用教員の職を擲って上京。作家を目指したが志ならず、郷里に戻ってきた。その後正宗白鳥の弟の勧めで四十歳にして備前焼を始める。金重陶陽の指導を受けて、土を愛し酒を愛する人生の友としての交友を結び後に共に人間国宝となっている。陶陽の作品が厳しく精悍なのに比して、啓の作品はおおらかで素朴であると言われている。記念館は一階と地下の造りとなっている。館内にはあまり訪れている人はいない。地下に降りると、貸し切りであった。

竹 久 夢 二 生 家

  橋を渡って邑久町に入り、竹久夢二の生家を訪れる。夢二の生家は造り酒屋であったが父親の時代に没落し、夢二は一時期九州の方へ移り住んでいたようである。十六歳まで福岡におり、八幡製鉄所で図面引きをしていたこともあったが、十七歳で上京、早稲田実業に入るがコマ絵が認められて中退、挿し絵画家としての人生を歩き始める。年上で出戻りの絵葉書屋の「たまき」と恋に落ち、二十四歳で結婚。このたまきをモデルに夢二式美人画が生まれる。夢二は明治画壇の重鎮藤島武二の門下の「三ジ」として、藤田嗣治、東郷精治と並び称せられる。夢二のたまきとの結婚は三人の子を成しながらも破局となり、夢二二十六歳で離婚。しかしその後もたまきとの愛欲関係は続いたという。三十三歳で女子画学生の笠井彦乃(愛称山路しの)と結ばれ京都二寧坂で同棲、しかしこの生活も彦乃が胸を病んで二十五歳で没することで終わりを告げた。彦乃の死後は藤島武二のモデルお葉と同棲したという。 夢二の絵は芸術としてみるよりも、そのほのぼのとした温もりと純粋な目で見て描かれた美を味わうべきであろう。夢二の美人画は初めて恋というものを知り、男との愛欲を知り染めた乙女が、まだその幼さと純情さとともに、初々しい色気を醸し出している風情を描いたものが多いように思われる。そうしてそう言った乙女から女へと変遷して行く、その危うい過渡期にある儚い美しさこそが、夢二にとって永遠の憧れの女性であったのであろう。そして実生活の中では、その憧れの女性とは「たまき」であり、「しの」であったのであろう。

 西 大 寺 観 音 院

  曹源寺よりさらに西に進んで、西大寺に至る。毎年二月の第三土曜日深夜に行われる裸祭で有名な、真言宗のお寺である。正しくは西大寺観音院と言い、七五一年安隆上人の開山と伝えられる。時代は天平勝宝孝謙天皇の御代で、東大寺法華堂、新薬師寺本堂が建立され、東大寺の大仏開眼供養が行われた頃である。吉井川の側に立つ伽藍で、その門前町が今でも商店街として残っている。お寺は西大寺という名前より受けていた想像よりは規模が小さく、堂宇も小さく纏まっている。その中で、三門が中国風なのが印象的であった。     御詠歌   みほとけの 恵みも深き 芦田川              ぐぜいの船も 尊とかるらん         オンバサラ タラマ キリク ソワカ

曹 源 寺

  東山公園を横切って、曹源寺に到着する。当寺は藩主池田家の菩提寺であり、臨済宗妙心寺派に属する中国地方きっての巨刹である。門前の道の左右は高級住宅地となっており、石橋を渡って入門。少し歩くと立派な三門があり、この寺の威風をよく表している。本堂の右手に書院があり、入園料を入れる箱がおいてある。外人の雲水が出入りしていた。柴戸を開けて、庭に入り池泉鑑賞式庭園を見る。この庭園は後楽園と同じく、津田永忠により作庭されたものである。書院正面に心字池があり、手入れは行き届いていないが、左手には枝垂れ桜を配しており趣あり。しかし書院のすぐ前の芝生は荒れている。また枯山水の庭はその左手奥にあるが、これはあまり感心しない出来映えである。後世の人が改造したのかもしれない。

岡 山 後 楽 園

  十時過ぎに岡山に到着。岡山駅より後楽園に向かう。鶴見橋を渡って、庭園入り口に着く。後楽園は旭川の中之島を使って造られており、河岸も見事に整備されている。西外苑を通って、正門へ向かう。西外苑は芝生と所々に大木も植わっており、庭園への導入部としてはなかなか良い。 後楽園は備前藩主池田綱政が家臣津田永忠に命じて、十四年の歳月をかけて造らせたもので、完成は一七〇〇年、五代将軍綱吉の元禄時代である。一七〇〇年前後の同世代の人物としては、十七世紀の後半は酒井田柿右衛門、黄檗宗の隠元、石川丈山、野々村仁清、井原西鶴、松尾芭蕉、菱川師宣、水戸光圀、狩野探幽がおり、十八世紀の前半は尾形光琳、近松門左衛門、尾形乾山、石田梅岩などがいる。園の名称は、亭を主とすれば茶屋屋敷、園を主とすれば後園と呼ばれていたが、明治四年に後楽園と改められた。江戸時代を代表する回遊式庭園で、面積は十三ヘクタールもある。 馬場の方より水路を越えて、芝生の植えられた広場に出る。沢の池の砂利島、池の向こうの唯心山、そしてその右手に烏城(岡山城)が展望でき、これこそが後楽園の景観であると言うべきものが一望に見渡せる。ただ一つ気になったことは、芝生というものは明治以降になって輸入したものであろうから、それ以前にはこの広々とした広場はどのようになっていたのであろうかという疑問である。芝生の植わっていない景観というものは、又違った印象を与えるのでは無かろうか。 曲水に沿って、園路を鶴鳴館の方へ歩む。曲水の中は長い藻が生えている。茶亭延養亭も華美でない落ち着いた柔らかい印象を与える建物である。花葉の池を巡り、大立石を見る。瀬戸内海よりいくつかに砕いて運び込み、また合成したという巨岩で、陰陽を表しているそうである。その裏側は昔旭川より船を引き入れていた跡もあり、烏城より船に乗って曲水を通って延養亭に着き、茶室に入ったとのことである。築山の唯心山に登り、園内を一望。築山より下りて、流店(るてん)を見る。曲水の流れを流店に引き入れており、水流の少ない折りは、本流を板でせき止めて流店に流すように出来ている。藩主が上に座って酒を飲み盃を流れに浮かべて流し、それを家臣が受け取りまたその盃で酒を飲んだところから「お流れ頂戴」という言葉が出来たとのことである。流店の向こうは菖蒲畑となっており、ここでの酒宴もまた風雅なものであ

四 天 王 寺

  大阪のガイドブックを見ると、日本最古の官寺は四天王寺と書いてある。それで表敬の意もこめて、当地赴任の最初のお寺参りは四天王寺とする。  地下鉄の駅より南に相当歩いて、四天王寺の中門より境内へはいる。先ず六時堂を参拝する。午前十一時頃であったが、沢山の人たちが祈願に参っており、薄い木片に名前やおまじないを書き付けたものを、お坊さんに祈祷して貰っている。六時堂の前は亀が放たれた池となっている。その池の向こうに、亀井堂というのがあり、祈祷して貰った木片を、亀井堂の中にある小さな池につけて、占いをして貰っている。このお寺ではまだ、仏への信仰がしっかりと地元に根付いており、お寺そのものが本来の機能を発揮して、生き生きと活動している、と言う感じを強く持った。  四天王寺の縁起は、聖徳太子の戦勝祈願にある。太子は蘇我氏とともに物部氏と戦を行うこととなった。その折に太子は救世観音に戦勝祈願を行い、勝利の暁にはこの地にお寺を建立することを約束され、物部氏を倒した後、推古天皇元年五九三年に当寺を建立されたということである。鎮護国家の道場としてまた済世利民の実践場として、当寺は政治・外交・文化の中心地となったようである。  昭和二十年三月の戦災により、金堂・五重塔・講堂・仁王門は灰燼に帰したが、昭和三十八年に再建され、飛鳥時代のままに四天王寺式伽藍の、仁王門・五重塔・金堂・講堂が一直線に南北に並び、その周りを回廊が巡っている。金堂には本尊の救世観世音菩薩が安置され、その四方に四天王が配置されている。救世観音はまだ新しく金色に輝いているが、返ってその為に威厳が少ない感じがする。周囲の壁画は中村岳陵画伯により描かれており、釈尊の誕生・カピラ城出城・降魔成道・初転法輪・涅槃の順に、釈尊の生涯を彩色豊かに描いてある。五重宝塔は相輪の部分が塔全体の三分の一もあるほど長く、くわえて屋根の勾配が緩やかであるため、各層の屋根と屋根の間がやや狭すぎるという印象がある。講堂は聖徳太子が講義をされた場所で講法堂と呼ばれ、堂内は夏堂と冬堂に分けられている。夏堂には阿弥陀如来座像が、冬堂には十一面観世音像が安置されている。この御堂の壁画は郷倉千靱画伯によるもので、玄奘三蔵法師の「仏教東漸」の事跡が描かれている。  宝物館で国宝「扇面法華経冊子」などを見て、太子殿(聖霊院)にお参りして息子達に学

 萬 野 美 術 館

  次に御堂筋に面した萬野美術館を訪れる。この美術館の創立者、萬野裕昭は明治三十九年生まれで海運・不動産・外食産業などを手広く手がけて財をなしたという。古美術を中心として蒐集しており、茶室裕裕庵も館内に造られている。国宝が三点あり、その一つに玳玻天目茶碗がある。天目は福建省の建窯で妬かれた黒釉碗であり、黒く発色した鉄釉の器物を天目と呼ぶ。天目の中で有名な物は、油滴・曜変・禾目とあるが、油滴の斑紋は釉中の酸化第二鉄が表面上に浮いて結晶した物である。曜変は黒い釉面に大小の結晶が浮かび、その周りに暈天状のぼかした虹彩を持つ物である。世に現存する物は五点のみと言われている。玳玻は天目釉の上にさらに失透性の藁灰釉を振りかけ、黒字に飴色の斑紋を持っている。この萬野美術館にあるものは、玳玻天目散花文茶碗と呼ばれている。なかなか見事な茶碗である。当美術館はビルの中に茶室も造り上げており、まさにビル街の「壺中の天」である。

そ の 他 ・ 出光美術館

  昨日より大阪外為部に着任し、引継を受けている最中である。宿泊は心斎橋から長堀通りを少し東に行った所にある DO SPORTS PLAZA である。ホテルより歩いて二―三分の出光美術館を見に行く。 この美術館はもともと出光左三が愛蔵していた美術品公開のため、昭和三十九年にまず福岡に設立され、昭和四十一年には東京に開館され、その後平成元年に大阪にも開館されたものである。日本の美術品を中心に蒐集しており、書画陶磁器などが主なコレクションとして展示されている。その中でも有名なものに仙厓義梵がある。仙厓(一七五〇―一八三七)は臨済宗古月派の僧であり、書画を良く嗜んだ。彼は美濃の清泰寺で得度し、その後武州(横浜)の東輝庵を経て、栄西禅師にゆかりのある博多聖福寺の住職となった。 その他は尾形乾山の作品がある。乾山は京焼きの祖、仁清の弟子で、彼は享保吉宗公の時代を生きている。兄弟である尾形光琳の絵を施している作品もある。乾山は仁清に比べて贋作が多いとのことである。当館の休憩所は眺望が良く、お茶やコーヒーのセルフサービスもあり、さすが出光だけのことはあると思った。