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12月 15, 2020の投稿を表示しています

不 退 寺

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不退寺は平城天皇の孫であった在原業平の建立になるお寺である。この地は平城天皇が嵯峨天皇に譲位した後に茅葺きの御殿を造営し、「萱の御所」と呼ばれたこともあるところである。この平城天皇の即位に至るまでには、また様々な事件が起きている。まず道鏡を寵愛した称徳天皇(孝謙天皇)のあと、天智系の白壁王が光仁天皇として六一歳で即位。そして高野新笠を母とする山部親王を擁する藤原百川の陰謀で、井上皇后・他戸(おさべ)皇太子が廃されて獄死。その山部皇太子が即位して桓武天皇となったが、この折りにも造長岡京使・藤原種継の暗殺に絡んで、実子安殿(あて)親王を後継とするために早良皇太弟が淡路島に流される前に、乙訓(おとくに)で憤死している。こうして安殿皇太子は桓武没後即位して、平城天皇となったが、その直後にも異母弟伊予親王の謀反の疑いが発覚、伊予親王は母の吉子と飛鳥の川原寺に幽閉され自殺している。平城天皇は自らの即位の裏側で死に至った早良親王と伊予親王の怨霊から逃れるため皇太弟であった嵯峨天皇に譲位したわけである。しかし平城上皇は重祚を狙って、平城京遷都を命令。二所朝廷が対立。そして平城上皇の寵愛する藤原仲成・薬子の兄妹の官位が剥奪されたのに激怒した平城上皇は、東国に挙兵しようとするが失敗。上皇は出家し、薬子は自殺する。これが藤原薬子の乱である。以上が平城天皇の即位に至るまでの歴史と、平城天皇自らの略歴であるが、最後は敗者として出家した平城天皇の皇子・阿保親王の第五子であり臣籍降下した在原業平は、嵯峨天皇の子孫である天皇家に対してかなり屈折した思いを抱いていたであろうことが疑いのないところであろう。それが清和天皇の女御となる予定の藤原良房の姪・高子との恋愛事件である。清和天皇は嵯峨天皇の曽孫であり、皇統は嵯峨天皇、その皇太子・仁明天皇、その皇太子・文徳天皇、そして文徳の皇太子・清和天皇の順である。こうしてみると業平の高子への懸想と恋愛は、敗者側からの反逆であり挑戦であったのだろう。しかも高子入内の時の清和天皇の年齢は十七歳で、高子は八歳年上の二十五歳である。年齢的には業平との間の方が自然であるようにも思える。この事件は「源氏物語」を書いた紫式部に、光源氏とその異母兄・朱雀院のお后候補であった朧月夜との入内前の恋愛事件として描かれている。この事件のために朧月夜は后候補としてではなく内侍として入内

不 退 寺

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  海龍王寺より、不退寺に向かう。地図を見てみると秋篠寺の東側には秋篠川が南下しており、不退寺の南側を佐保川が蛇行しており、この二つの川に挟まれたその中間に平城京の大極殿趾がある。秋篠川は秋篠寺、西大寺、尼ヶ辻の唐招提寺、薬師寺の東側を流れて、大和郡山市の東北で佐保川と合流している。一方佐保川は春日山の裏手より発し、若草山を迂回し東大寺と般若寺の間を流れ、不退寺、海龍王寺、法華寺と来て新大宮で南下し秋篠川と合流している。秋篠川と合流した佐保川は高瀬川などと合流しつつ、額田部町あたりで大和川(初瀬川)と合流することとなる。大和川は宇陀郡の室生の奥より、室生寺、榛原、吉隠(よなばり)、長谷寺、と西行し、そこから西北に天理を抜けて佐保川と合流し、明日香から北上する飛鳥川や北より南下してきた富雄川、そして生駒から南下して龍田神社の側を流れてきた龍田川とも合流して、王寺を抜け金剛生駒山地の南端の谷間を通って、大阪平野へと出る。その藤井寺は天皇陵の集中しているところであり、応神天皇陵・安閑天皇陵・清寧天皇陵・日本武尊陵など十を超える前方後円墳が見られるところである。大和川はこのあと松原を通過して住吉区と堺市の間で大阪湾へと流れ込んでいる。大和川は今は住吉大社よりかなり南で海に流れ込んでいるが、その蛇行しているところから見れば、昔住吉大社が海に面していた頃には大和川は住吉大社の側で、難波の海に注いでいたのかもしれない。 こうしてみると平城京は秋篠川と佐保川の流れに沿った都であり、飛鳥京・藤原京は飛鳥川によってなる都であった。そうしてこの二つの川の合流するところが、聖徳太子の斑鳩宮であるということを考えると、上代においては川が如何に都にとって重要であったかということの証左であろう。また平城京そのものが春を紡ぎ出す女神である佐保姫に縁のある佐保川の流れに位置し、その佐保川が初瀬川と合わさり大和川となり、斑鳩宮の近くを流れる秋の山野を彩る女神の龍田姫に縁のある龍田川と合流して難波の海へと流れ出るというのも、いかにも奥床しい。春の花・秋の紅葉という自然の美を讃えその力を認めていた古代人にとって、川の流れを佐保姫・龍田姫というように人称化し、春秋の女神を信じることは極めて当たり前のことであったのだろうが、そこには日本古来の自然と睦み合いながら人生を送って行くという大きな智慧が底流にある

海 龍 王 寺

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法華寺の東隣にある海龍王寺に行く。このお寺は平城京の北東隅にあったので、隅寺または脇寺と呼ばれているそうである。天平三年(七三一年)光明皇后の御願によって藤原不比等の旧宅を仏閣と改め、唐より帰還してきた僧・ 玄昉 (げんぼう)を開基として創建された。 玄昉 は唐よりの帰還途中に暴風雨にあったが、東支那海の狂瀾怒濤に漂いながら海龍王経を唱え、九死に一生を得て種子島に漂着、貴重な経綸を持って帰京している。その功により 玄昉 は僧正に任ぜられ、この海龍王寺の住持となったのである。この 玄昉 は吉備真備とともに、聖武天皇の側近として仕えた僧である。 草の生い茂った参道を進み、入山して境内に入る。境内には本堂と西金堂が立っているが、全体として荒廃したお寺という印象を受ける。本堂に上がる。堂内には鎌倉時代の作と言われる、十一面観音が安置されている。鎌倉時代の作であり、宝冠や瓔珞など極めて装飾性が高く、作りも華奢である。しかし御仏のお顔立ちは気品に満ちており、心惹かれた。京都の法金剛院にも鎌倉時代の作という十一面観音があったが、その観音様との類似性が強いように思う。お寺のパンフレットにはこの十一面観音の記述は無いが、もう少し注目されて良い仏様のように感じた。 またこのお寺には国宝の五重小塔があることでも有名である。 海龍王寺  

法 華 寺

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  秋篠寺より法華寺に廻る。この法華寺は光明皇后御願に成る日本総国分尼寺として始められた、法華滅罪之寺である。そしてこの地所はもともと藤原不比等(鎌足の子)の邸宅趾であった。藤原不比等は皇統が天智系より天武系に移った後も、智努王(ちぬおう)の夫人であった橘三千代を迎えてこれと結婚し、その娘光明子を聖武天皇の后とすることで政権の実権を握った実力者であった。創建は七四〇年頃といわれるので、秋篠寺より五十年余り前である。 門を潜ってはいると、右手に横笛堂がある。そこから鐘楼を左手に見ながら、本堂前に来る。本堂は豊臣秀頼と淀君が片桐且元を奉行として再建した、寄せ棟造りの桃山建築である。本堂に登り、十一面観音菩薩を拝する。この菩薩は光明皇后のお姿を写したものと言われているが、実際には弘仁期(平安時代八〇九年 ~ 嵯峨天皇の御代)の作であることからこれは事実ではないが、光明皇后への讃仰のなせる業なのであろう。本堂内陣に拝する十一面観音像は晴天のため、障子を通して入る陽光が極めて明るくそのお顔もはっきりとよく見える。この御仏も極めて人間的で且つ艶めかしいが、伎芸天のあまりに洗練された清浄な艶めかしさに接した直後のためか、やや生々しすぎるという感じが強い。これは明るすぎて陰影がなさ過ぎるということにも、起因しているのかもしれない。堂内には横笛が滝口入道と交わした文がらをもって作られたという横笛像がある。これは「平家物語」や高山樗牛の「滝口入道」に描かれている悲恋話である。横笛はかっての恋人であった建礼門院の雑司・滝口入道を慕って嵯峨を訪れたが、入道に拒まれてしまう。そして入道は女人禁制の高野山に入ってしまう。伏見で尼となった横笛が、憂悶の情を法華寺の尼に書き送ったその文をもって作られたのが横笛像と言われている。他に重要文化財の維摩居士像もある。 法華寺 本堂