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11月 25, 2020の投稿を表示しています

宝 篋 院

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  庭園は受付横の折戸を押して入るようになっている。中に入ると同時に、「照る花紅葉」の世界が開ける。期待していた以上の素晴らしい紅葉の世界を愛でながら苑路を進み、本堂のほうへと入って行く。 本堂から眺めると苔と石組みで構成された部分はあるが、その他は楓樹と苔に覆われた回遊式枯山水庭園である。本堂の裏手の書院前には、坐鑑式の枯山水庭園と露地がある。そこより苑内を周遊。裏手には竹林もある。しかしこのお寺はやはり、何と言っても本堂南面の紅葉の庭が圧巻である。黄・橙・赤橙・赤・紅・真紅と、色とりどりの紅葉が庭全面に拡がっており、まさに錦繍の世界であった。 宝 篋 院

宝 篋 院

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嵐電の嵐山駅を降りて清涼寺に向かつて北上して行く。もうかなりの人々が紅葉を見終えて、駅のほうへと戻って来ている。途中JR嵯峨野線を渡ったあたりで、小雨が降り始める。傘も帽子も持っていないので、少し雨宿りをするも雨は降り止まない。小雨なのでそのまま歩いて行くと、お店で帽子を売っているところがある。冬になれば帽子も必要かと思い購入して外に出ると、もう小雨は上がっていた。 清涼寺前を左折して突き当たったところが、宝篋院である。この寺は平安後期の白河天皇の勅願寺として建てられ、当初は善入寺と命名された。 その後南北朝時代に夢窓国師の高弟黙庵が再興し、爾来臨済宗となっている。そして室町幕府二代将軍の足利義詮の帰依を受け、没後その菩提寺となっている。そして義詮の院号に因み、寺名も宝篋院となったのである。黙庵は又南朝の楠木正行と相識り、正行に没後を託されていた。正行は四条畷での高師直との合戦で討ち死にをし、黙庵は生前の交誼によりその首級を善入寺に葬った。義詮は黙庵より正行の話を聞き、その人柄を褒め称えて自らもその墓の傍らに葬るべく黙庵に頼んだとのことである。 宝 篋 院  

 天 球 院

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 天 球院は一六三一年に、姫路城主・池田輝政の妹である天久院により創建された。この折りに地中より瑞宝が出たので、天球院と命名されたようである。 方丈内部は狩野山楽・山雪の筆による襖絵で飾られている。やや装飾過多な感じで、狩野永楽の筆致との差があるように思う。金碧画であることも、また風情がない。風韻と言うものが感じられないのは、魂を込めて描いてないからであろうか。 庭は苔庭の中央に大木の松を配している。その松の根の張り方は面白い。そして松の周囲に石を配置し、右手に宝篋院塔がある。遺憾ながら、特別拝観料の千円の値打ちがないのは残念である。

大 法 院

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  大法院に寄る。当院は一六一二年真田幸村の兄・信幸の孫である千種大納言有能の側室・長姫を開祖とするお寺である。真田家とその縁戚の千種、久我、内藤四家の香華寺である。信幸の院号が大法院と言うそうである。またこのお寺には、佐久間祥山の墓もあるようである。  庭は苔庭であり、右手に待合い席その手前に灯籠、正面は背の低い竹があり左手に茶室を配している。木立があるため、庭はやや薄暗い。この庭は露地庭で、飛び石・垣門・灯籠・蹲い・袖摺りの石・腰掛待合などがある。庭の構成は外露地、中露地、内露地の三段構成になっている由。露地庭に面したところに坐して、抹茶を頂く。

退 蔵 院

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  退蔵院は正面の庫裏が立派なお寺である。袴越しの大玄関より、方丈へと入る。方丈前庭は庭らしい作意のない庭で、趣なし。方丈の西側に枯山水がある。 これは狩野元信作庭の庭である。石組みの滝口から流れる白沙は、石橋を潜り中之島を巡って、左手の海へと出て行く。その左端にもまた石橋が架かつている。枯れ滝には玉石を配し、蓬莱島の石が割れているのも風情あり。小さな庭ではあるが、凝縮感あり。石組みや石そのものの形も面白く、眺めていて飽きのこない庭である。  余香苑へと廻る。入り口に新しい石庭がある。そこから下って行くと、水琴窟もある庭となっている。池の手前から、庭を観賞する。この庭はややなだらかな斜面に造られた庭である。右手奥に石組みで滝を造っており、そこからの流れが池に注ぎ込んでいる。左手には躑躅の大刈り込みがあり、その上に傘亭がある。右手の滝の名は龍王滝といい、藤棚の下からの眺めは優しく女性的で落ち着きがある眺めである。調和感と安らぎを感じさせる名園と思う。

大 心 院

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  大心院は応仁の乱が終わった義尚の時代(一四七九年)に、管領の細川政元が上京に建立したものを、細川幽斎(藤孝)が妙心寺に移築したものである。その子三斎(忠興)もこのお寺を外護したと言う。  方丈前庭は、花壇のようなものが造られており風情に欠ける。書院の前庭を阿吽庭と言い、白沙を流水風に流してやや赤目がかった味わいのある石を配した枯山水である。その他にも五色十七個の石を庭の各所に置いている。苔の陸地と州浜形の曲線も面白く、なかなか興趣のある庭となっている。 大心院の庭園

桂 春 院

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  最初に桂春院を訪れる。当院は織田信長の長男信忠の、そのまた次男である津田秀則により当初見性院として創建された。その後美濃の豪族であった石河(いしこ)貞政により、現在の建物が造られている。石河貞政は幼少より豊臣秀吉に仕えて重臣となり、江州長浜城主となっている。しかし後の関ヶ原の戦いでは徳川家康に従い、爾来直参旗本となった武将である。そしてこの石河貞政の法名が、桂春院と言う。 当院の栞によれば「禅宗とは、坐禅の修行によりて単刀直入内に向かつて自己何者ぞ、人生とは、存在とは畢竟何か、と真っ向に追求し、直下に分別意識の極限を飛び超えて真理を体験し、只仏に直参することを生命とする。人間がその存在の根底より呼び起こす魂の郷愁として(絶対成るもの、永遠なるもの)に全人格を投げ出し、そこに新しい自己を発見し、人生の意義に目覚め、一種の安心性、安住性、千万人といえども我行かんという心の悟りを得るもので、それは多くの宗教中最も根源的な、最も純粋な宗教である」とのことである。言わんとするところは何となく判るが、この文章は相当に読みにくいものであると思う。 庭園に関しての記載は、次の通りである。「庭園には遊楽の場を目的とした相対的な美意識の立場にある山荘池泉回遊式鑑賞庭園と、真実の自己を究明する場を目的とした禅精神の影響による知性を超越した絶対的な美の立場である枯山水庭園がある。枯山水の庭は(三万里程を寸尺に縮む)筆法であり、それは石も樹木も白沙も青苔も無限の広さ大きさを持ち、大自然に帰一する禅精神の極高・静寂・脱落・有限性の表徴であり、高度の芸術である」と書かれている。  まず清浄の庭を見る。これは坪庭に井筒を利用して紀州の奇石を配した枯れ滝の庭で、大仙院と同じく渡ろう・宋風窓あり。次ぎに侘びの庭である。これは青苔と石組のみで、余り風情はない。次いで方丈に廻って真如の庭を見る。方丈南側の崖を躑躅の大刈り込みで覆い、その向こうの一段と低いところに石組みを七・五・三に配して、十五夜の満月を表現している庭であるという。そしてそのまた向こうにある生け垣が、背景との境を為している。庭の向こうに二階建ての日本家屋があるのが、残念である。 桂春院の庭園