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11月 28, 2020の投稿を表示しています

龍 安 寺

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  龍安寺よりさらに欲張って仁和寺まで行くが、残念ながら四時を回っていたため庭園は既に閉まっていた。それで五重塔を写真に収めて帰路に就いた。 桜の時季の鏡容池

龍 安 寺

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  石庭の石についての感想) 左端の大きな石は獅子の頭のようであり、又拡大した写真で見ると一角の鬼の頭が左を向いているように、目と鼻が浮き出て見える。次の横に細長い石は、その左の石と共に獅子の背が川の中より出ているようにも見える。又瀬戸内海に浮かぶ島のようでもある。三番目の石組みは、獅子の頭と右手前が子獅子の頭、その向こうが 子獅子の背のように見える。大の立石と中の横石と小の石と並び、この三つの石のバランスも良い。大きな石は須彌山のようにも思える。その右手の四番目の石組みは、左が横幅広く段層が入っており、石が正方形をやや潰したような四角で、この二つの石組みがとても造形的に見て面白い。五番目の右端の石組みは肌色が強く花崗岩の山のようである。小さな石が左と右に埋め込まれており、海原に浮かぶ島のイメージである。各々の石組みがそれぞれの特徴を持って、しっかりとその慥かな位置に自らの形姿を決めているかのようだ。そしてまるで石そのものが舞台での俳優のように、見られていることを意識しているかのように、拝観客に思わせるのも不思議なものである。細川政元の指図により、山水河原者が造り上げた庭であろうが、これほどまでに石に個性と存在感を与え、配置の絶妙さにより我々の精神を落ち着かせる力を持たせたことに、感嘆の声をあげざるを得ない。 龍安寺 糸桜

龍 安 寺

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  又この石組みは人の世の移り変わりの中にあっても、ただ厳然としてそうして寂としてここに存在し続けてきたという事実。時間の重みの前にあっては、自らの一時の心の迷いなどは如何ほどのものかという感が強くなるものである。石組は自然はそして宇宙は、何も変わることがない。そこに存在するのは、無常感のみである。その事実がかえって、人の悩みを慰めることになるのだ。この世の中における自己は孤独であることが当たり前であり、人の輪の中にあって一時期喜びに浸ったとしても、根元的には人間はこれらのひとつひとつの石と同じように、ひとり孤独に存在しているのだ。そう言った人間存在の宇宙の中における孤独を、この庭は我々に教えてくれるかのようだ。傷ついた人間が、さらにその傷口を大きくすることで蘇生して行こうとするように、人間は根源的に孤独な存在なのだという厳然たる事実が、かえって心に迷いや悩みを持つ人間にとって救いとなり慰めとなるというこの逆説。悲しみに打ちひしがれている人間にとって、悲しみの極みの音楽がかえって深い慰めとなるという不思議さと、いかに似通っていることか。人間という存在の不可思議さを覚えないではいられない。井上靖も「石庭」という散文詩に、同じような思いを開陳している。   「ここ龍安寺の庭を美しいとは、そも誰が言い始めたのであろう。人は  いつもここに来て、ただ自己の苦悩の余りに小いさきを思わされ慰め  られ、そして美しいと錯覚して帰るだけだ」   龍安寺のパンフレットには、次のように英文で説明が付いている。     [ The  Rock  Garden ] This simple yet remarkable garden measures only thirty meters from east to west and ten meters from south to north. The rectangular ZEN garden is completely different from the gorgeous gardens of court nobles constructed in the Middle Ages. No trees are to be seen; only fifteen rocks and white grave

龍 安 寺

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  歩いて十五分くらいで龍安寺に着く。茶店でうどんを食べる。龍安寺は大雲山龍安寺といい、臨済宗妙心寺派に属しているお寺である。 ここはもともと徳大寺家の別荘であったものを、一四五〇年(室町中期第八代将軍足利義政の頃)管領細川勝元が譲り受けて寺地とし、妙心寺の義天玄承を開山として創建されたものである。応仁の乱(一四六七 ~ 七七年)で消失したが、勝元の子政元が再興した。石庭は政元が母の三回忌の時に、方丈と共に造築したと言われている。その後江戸時代後期の寛政九年に、火災で方丈・仏殿などを消失している。従って現在の方丈は、そののちの再建なのであろう。 山門より入り、鏡容池を見る。昔訪れたときはこんなに大きな池にも拘わらず、全くその存在の記憶も無い。ただ石庭のみが記憶に残っている。この池は徳大寺家により築かれたもので、藤原時代の名残を留めているものとのことである。今は池の中央に弁天島があるが、平安時代の貴族達が舟を浮かべて詩歌・管弦を愉しんだ頃は、蓬莱島を中心に、瀛州・方丈・壺梁の三島が浮かぶ、神仙蓬莱の池であった。池の北側の大珠院には、真田幸村の墓があるそうだ。鏡容池を一周する。大珠院の後ろに、山々がなだらかにうねっており、平安時代より景勝の地であったことがよく判る。この鏡容池は金閣寺の鏡湖池、銀閣寺の錦鏡池と共に、京の三つの鏡と呼ばれている。鏡とは建物や庭や周囲の景観を映すことから、そのように名付けられたようである。 涅槃堂を経て方丈前を通り、庫裏への石段を登る。方丈に登り、石庭を見る。流石に日本一の石庭と言われるだけあって、石の形姿、石組みそして石の配置には実に慥かなものがあると思う。方丈左手の縁側に座して鑑賞。ここよりのみ石組みの全景が全てカメラに収めうる。しかし、十五全ての石を見渡せる位置は無いとのことだ。石組みは左側の中央に五つ、次いで左三分の一の後方に二つ、それから中央よりやや右手かつ前後の中央よりやや後方に三つ、そして四つ目の石組みは三つ目の石組み右手後方に二つ、そして最後の石組みは四つ目の石組のやや右前方に三つという風に置かれている。基本的には正面中央に坐して見るときのバランスを考えて、五つの石組みが配置されているのであろうが、実に絶妙な均衡の上に一つ一つに石組みが置かれている。中国の寓話をモチーフとした「虎の子渡し」とか、大海に浮かぶ島々あ

金 閣 寺

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  参道より総門を入ると、鏡湖池の南東に出る。葦原島を手前にして、金閣の秀麗華美な形姿が池面に映えている。この場所にはかつて釣殿があったようであり、瓢箪の形をした池が左手奥にも深く入り込んでいたようである。釣殿があったということは、ここからの景観がそれだけ見所であったということになる。池に沿って紅葉山に至る柴戸のところまで来る。その柴戸の向こうは、立入禁止となっている。ここからは金閣が殆ど正面に見える。本来この庭は舟遊式であり、舟で景観を愉しむべきであるが、それが叶わないのであれば、せめて池の周囲を一巡できるようにすればよいのにと思う。 金閣は三層から成っているが、金箔を張っているのは上二層であり、二層と一層の間には屋根がないため、遠望すると二層のイメージが強くなるようだ。一層は法水院(寝殿造り)、二層目が潮音洞(武家造り)そして三層目が究竟頂(くっきょうちょう)(禅宗仏殿造り)となっており、三つの様式を見事に調和させた室町時代の代表的な建造物である。この正面からの構図もなかなか良いので、何枚かの写真を撮る。 本堂の前庭は枯山水となっている。書院の前には陸舟の松という見事な松がある。舟の舳先のように下から上へと競り上がった枝と、帆のように刈り込まれた垂直の枝とでなる松である。これは義満の盆栽を、帆掛け船の姿に似せて造り上げたものと言われている。書院の前より又島々を見る。鶴島・亀島・出亀島・入亀島・向こうに淡路島とあるようだが、一ヶ所からは全ての島は見えない。ただ各々の島は、案内図で見るよりは大きく見える。各大名から贈られた赤松石・畠山石・そして葦原島には細川石もあるようである。又葦原島(これは豊葦原瑞穂の国、すなわち日本を示すもの)には、西芳寺の三尊石組を模したものもあるようだ。将軍義満が、いかに夢窓国師の造った西芳寺に惹かれていたかという証左であろう。金閣の側には夜泊まり石もある。右手の出島には、灯籠が一基置かれてある。全体としてみるとこの庭には松が多いが、これは金色に対応するものとして、常緑の松をその配色を考慮して多用したのかもしれない。池に舟を浮かべて島々を巡りながら、この蓬莱神仙様式を踏まえた池泉舟遊式庭園を、思う存分愉しんでみたいものである。舟の中からの目線では、又違った角度からの景観が開けるのであろう。金閣の北側に廻る。かつて金閣は池中にあり、そ