落 柿 舎

 この落柿舎は十七世紀後半に活躍した、芭蕉門下の向井去来の寓居跡である。

落柿舎の名の由来は江戸時代にある商人が、落柿舎の柿を買い取る約束をしたところ、大風のために一夜にして柿の実がすべて落ちてしまったという故事による。

   柿主や こずえはちかき あらし山    去来

去来は芭蕉十哲の一人であり、芭蕉も元禄二年から三度落柿舎を訪れている。

     五月雨や 色紙へぎたる 壁の跡     芭蕉

 芭蕉十哲の名前は、下記の通りである。

     (年齢は芭蕉四八歳の「猿蓑」刊行時の年齢)

           杉山杉風(さんぷう)   四五歳

         向井去来(きょらい)  四一歳

         服部嵐雪(らんせつ)  三八歳

         森川許六(きょろく)  三六歳

         越知越人(えつじん)  三六歳

         宝井其角(きかく)   三一歳

         内藤丈草(じょうそう) 三〇歳

         志太野坡(やば)    三一歳

         各務支考(しこう)   二七歳

         立花北枝(ほくし)   不詳

 芭蕉は一六四四年に伊賀上野で生まれ、二九歳で江戸に出る。江戸・深川に棲んでいた四〇歳の頃に、芭蕉を名乗る。四一歳の時に「野ざらし紀行」の旅に出る。

       野ざらしを 心に風の しむ身かな

      古池や 蛙飛び込む 水のおと

「笈の小文」の旅、「更級紀行」と続き、四六歳で曽良と「おくのほそ道」の旅に出る。一二月落柿舎を訪れ、翌年大津・義仲寺無名庵に棲む。四八歳の折りに又落柿舎を訪れて、「嵯峨日記」を草し、同年に「猿蓑」を刊行。五〇歳の時に伊賀上野にいったん帰省。そして京都、又伊賀、奈良、大阪を巡る。

      この秋は 何で年寄る 雲に鳥

      秋深き 隣は何を する人ぞ

五一歳。前年の悪寒下痢がぶり返し、容態悪化。病中吟

      旅に病んで 夢は枯れ野を かけめぐる

      清滝や 波に散り込む 青松葉 

同年病死。弟子の去来・其角らが、遺骸を船で淀川を遡って伏見に運び、大津・義仲寺に葬る。

落柿舎


コメント

このブログの人気の投稿

県 神 社

天 龍 寺

金 閣 寺