大 河 内 山 荘 リンクを取得 Facebook × Pinterest メール 他のアプリ 12月 02, 2020 天龍寺の北口から出て、竹林の中の道を通って、大河内山荘に入る。まず大乗閣のあるところに登ってみるが、二三本の山桜が咲いているのみである。山荘内にはあまり桜の花は咲いていないので、お抹茶席でお薄を頂いて山荘より出る。 小倉池の側を通って常寂光寺を覗いてみるが、ここには桜がほとんどない。そこで二尊院に向かうが、途中に落柿舎があるのに目が止まる。ここも永らく見ていないので、立ち寄ってみる。大河内山荘 大乗閣 リンクを取得 Facebook × Pinterest メール 他のアプリ コメント
書 写 山 圓 教 寺 12月 21, 2020 観音菩薩は人間の悩みが様々なために、三十三の身に姿を変えて救済に当たる、最もなじみ深い菩薩である。西国霊場もその数にちなんで三十三ヶ所ある。花山天皇が書写山に来て性空上人に教えを聞き、その帰り道に那智まで観音を祀る由緒の寺を巡ったのが、西国巡礼の始まりになったという。圓教寺の名は花山天皇の命名であるが、それには輪圓具足の教えの寺という意味がある。輪圓とは丸い圓のことで徳を意味し、具足は方所がないと言う意味である。そこより徳において欠けたるところのない、最も成就した状態を意味し、圓教寺はそこより自己完成の道を教える寺と言うことになる。この西国二十七番札所の御詠歌は次の通りである。 はるばると 登れば書写の 山おろし 松の響きも み法(のり)なるらん 平安中期には紫式部、清少納言、和泉式部と我が国を代表する女流文学が、ほぼ同時期に花開いた類稀な時代である。その中で最も恋愛経験が豊富で、多情な閨秀歌人として奔放な歌を詠んだ和泉式部が、この書写山と縁があるのもおもしろい。 和泉式部は父大江雅到の下僚の橘道貞と二十歳前後で結婚、和泉の守であった夫の任地に赴任するのを好まず京に留まり、その間に冷泉天皇の第三皇子為尊親王の愛を受け入れて、道貞と離婚、父からも勘当される。その親王も若くして他界し、次はその弟の敦道親王からの求愛を受けて共に暮らす。ところがその夫もまた若くして亡くなってしまう。その後和泉式部は藤原道長に請われて、一条天皇の中宮彰子の女房として宮廷に入る。和泉式部は中宮彰子のお供で書写山に登ってくるが、性空上人はこれに会おうとしない。和泉式部は上人に会えない無念さを、 暗きより 暗き道にぞ 入りぬべき 遥かに照らせ 山の端の月 と詠んだ。上人はこの歌に感動し、次の歌を詠んで一行を呼び返したという。 日は入りて 月まだい出ぬ たそがれに 掲げて照らす 法のともしび 和泉式部の歌にこめられた愛憎の葛藤と、無常観からの救済を待つ気持ちの切実さが、性空上人の胸を打ち、この後上人は一行のそれぞれに教えを教示したという。 まず西... 続きを読む
宝 篋 院 11月 29, 2020 化野念仏寺より参道を戻る。このあたりは道の左右が、全て土産物屋となっておりこの奥嵯峨の地域まで、観光化の波が押し寄せてきているのがよく判る。瀬戸内寂聴の棲む寂庵はこの近くにあるようだ。いっぷく処・つれづれの店先に、緋色の和傘が立てられており、その後ろにあるもみじの紅葉と調和して、見事である。カメラを向ける。さらに下って、宝篋院に入る。昨年の秋に始めてこの寺に来たが、嵯峨野の紅葉の中ではこの寺がベストと感じた寺である。取り立ててこれという造作のない庭であるが、平庭一面の紅葉が美しい。しかし最盛期と言うにはやや早かった感がある。 宝篋院 続きを読む
寧 楽 美 術 館 12月 10, 2020 依水園の庭園を辞して、園内にある寧楽美術館を見る。ここでは「三島を中心とした唐物茶陶」の展示会を開いている。三島は高麗青磁から転化した粉青砂器で、李朝初期の十五世紀に南部方面で作陶された。忠南公州郡の鶏龍山窯が最も名高いそうである。手法的には中国磁州窯の作法と似通っているが、李朝特有の素朴な美しさを持つ。三島の分類には次のようなものがある。 三島 --------- 器面の一部または全体に、細い花文や渦文などを印花の手法で びっしりと押し、白土を塗り込んでから透明釉をかけて焼き上 げるもの。 彫三島 ------ やや大柄の白黒の象嵌文のあるもの。象嵌三島とも言われる。 刷毛目 ------ 白土を刷毛で塗って透明釉をかけたもので、これに線彫りと掻 き落としで文様を表したものを彫り刷毛目と呼び、鉄絵文様を 絵刷毛目と読んでいる。 粉引 --------- 全体に白土をかけてから施釉したもの。これに鉄絵文様を加え たものを、絵粉引きという。 つぎに高麗青磁であるが、これは元来中国の越州窯の影響の下に始まっており、北方青磁や定窯の作風も取り入れて、十一 ~ 十二世紀の頃には中国の青磁に勝るとも劣らない見事なものに成長した。秘色青磁に倣って翡色青磁の名で呼ばれる最盛期の高麗青磁は、明るく静かな美しさを持ち、丁寧な彫り文様や浮き彫り文様によって飾られて、高麗青磁の粋とも言うべきものであると言われている。 高麗青磁独特の象嵌青磁は十二世紀中葉に始まったと考えられるが、十三世紀から十四世紀にかけて元の支配下に置かれたため、十四世紀後半には作風も荒れて三島に移行したとされている。 ( 技法について ) 陰花 ---------- 青磁の素地に鋭い針や櫛状のもので、細い線彫り文様を彫り つけたもの ... 続きを読む
コメント
コメントを投稿