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南 禅 院

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  疎水沿いの最勝院をのぞく。低い幹の楓の古木あり。ついで南禅院へ行く。この南禅院は亀山天皇(鎌倉中期、一二六〇年頃在位)の離宮、禅林寺殿の遺跡であり、南禅寺発祥の地である。庭園は鎌倉時代末期の代表的池泉回遊式庭園であり、周囲を深い樹木で包まれた幽邃閑寂の趣格別である。作庭は亀山法皇とも夢窓疎石(一三五一年没)とも言われ、天竜寺・苔寺と共に京都三名勝史跡庭園の一つである。 方丈正面から右手にかけて山畔を利用した庭であり、正面に上池(曹源池)があり龍の形になっているという。中央に蓬莱島と亀島あり。その池の左奥には滝口の石組みがあり、奥深い山の上から滝が連なって落ちているように見える。方丈右手には下池があり、ここには心字形の島がある。記録によれば築庭当初は吉野の桜・難波の葦・龍田の楓などが移植され、井出の蛙も放たれたという。池手前のすすきが秋の風情を醸し出しており、方丈のなかでは茶事が行われていたようである。 左手より滝口へと向かう。方丈正面から見たときには、滝は高みから連なって落ちていたように見えたがそれは目の錯覚であり、実際は山畔の中程に石組みで滝をかたどり、水を取り入れているのであった池の裏側の幽暗な景色を見ながら、上池と下池の間に架かる橋を渡る。濃い緑と紅葉が程良く配合された、美しい秋色を愉しむことが出来た。 南禅院 庭園
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南 禅 寺 本 坊

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永観堂より南禅寺に向かう路も、また風情がある。湯豆腐を食べさせる聴松院の前を通って、南禅寺の山門のところに出る。山門の楼上にも、沢山の人が登っている。当寺は瑞龍山太平南禅禅寺と正称し、臨済宗南禅寺派の大本山である。鎌倉時代の半ば過ぎの一二九一年に亀山法皇が自らの離宮を施捨して開山仏心大明国師に創建させたものである。 臨済宗の各派本山の創建時は、次の通りである。建仁寺が一二〇二年、南禅寺が一二九一年、大徳寺が一三二四年、(室町幕府一三三六年)そして相国寺が一三八二年である。南禅寺は諸堂・伽藍を完成した二世南院国師を創建開山としている。初めは龍安山禅林禅寺と号したが、その後すぐに瑞龍山太平南禅禅寺と改称した。 山門は天下龍門と号し、上層の楼を五鳳楼と呼ぶ日本三大門の一つとして有名である。現在の門は藤堂高虎が大坂夏の陣で倒れた将士の菩提を弔うために再建したもので、石川五右衛門の「絶景かな」の伝説で有名となっている。 「絶景かな、絶景かな。春の詠め(ながめ)は価千金とは、小さなたとえ。 この五右衛門の目からは万両。最早、日も西に傾き、誠に春の夕暮れの桜は、 取りわけ一入一入ハテ麗かな眺めじゃなぁ」                      歌舞伎「楼門五三楼」より  山門を見上げた後、南禅寺本坊の方丈へと入る。狩野探幽、永徳等の金色の襖絵が立ち並んでいる。書院より方丈(清涼殿)の広縁に出る。正面に坐って、庭を観賞する。白沙の敷かれた庭の右端には、七つの刈り込みがある。庭全体の三分の二を右から楓、椿、松の三本の木で分割し、左手に親虎を思わせる大きな石を配し、それから右側へ五つの石つまり子虎を配している。三本の木の高さは左の松、ついで右の楓そして中の椿の順であり、それらの間に配された刈り込みが優しい印象を与える。大きな石はいずれも肌色、灰色、白色の斑模様の石である。手前の亀のような石の形が面白い。平面のみを表に出した石が、どの庭に於いても興趣あるのは何故であろうか。石の殆どが土の中に埋まっているということは、重心が地下にあることを思わせ、見る人に安定感を与えるためであろうか。また三本の木で三分されているのは、蓬莱、方丈、瀛州(えいしゅう)を表しているのかもしれない。日が陰ってきたかと思うと、時雨が降り始めた。庭の観賞には晴天より曇天、それよりも時雨て

永 観 堂

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  真如堂の正門より出て左へ曲がり歩いて行くと、黒谷さんへ出る。平安神宮と岡崎公園の間の路を東行すると白川沿いの路に出て、永観堂へと着く。流石に京の紅葉の名所と言われるだけあって、大変な人出である。 当寺は弘法大師の弟子真紹が開き清和天皇より禅林寺の名を賜ったが、中興開山の永観の徳を偲んで永観堂と呼ばれている。本尊は「見返り阿弥陀」と呼ばれ京都六阿弥陀の一つである。臥龍廊と呼ばれる屋根付きの階段廊下を登ると、幸せに恵まれるとのことである。紅葉は見事であったが、如何せん人出が多すぎてゆっくりと紅葉狩りを味わうことは出来そうもない。それで苑内を簡単に見て回って、早々に退散する。 永観堂の紅葉

真 如 堂

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  わらべ歌      ああ真如堂       (ああしんどいな)         飯黒谷さん       (めしくったか)         ここらで一服永観堂   (ここらでいっぷくええだろう)              お茶漬けさらさら南禅寺 (お茶漬け更々何千目) 真如堂 三重塔                                                   

真 如 堂

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  本堂に入る。浄土曼荼羅(当麻観経曼荼羅)が開陳されていた。本坊へ向かう。その途中の庭に本歌「燈明寺石燈籠」(九基名物のうち鎌倉時代)があり、三井家より寄贈されたものである。傍らにシャシャンボウと言う石楠花科の見事な木が植えられてあり、その右には蹲いの面白い形をしたものもある。書院は東山を臨んでおり、そこに涅槃の庭(昭和六三年作)というのがある。枯山水であるがまさに釈迦が涅槃をしているかのごとき石組みが苔の陸地に囲まれており、その手前の白砂の渦巻きのなかに水晶石のようなやや透明な石が置かれているのも興趣あり。右手の島には二本の大きな松があり、後方の生け垣の向こうは叡山が借景として見える。作者は判らなかったが、石組みなどの構成も落ち着いており、なかなかの名庭であった。本堂の回廊より撮した紅葉が、見事であった。 真如堂 涅槃の庭

真 如 堂

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  今日は紅葉を見るために、東山を南下することとした。京都駅より地下鉄で丸太町へ、京都御所の南西よりバスに乗り、丸太町通りを東へ向かい、白川通りを少し北上したところでバスを降りる。真如堂は吉田山の南にあり、急な坂道を登って境内に入る。 当寺の正式名称は鈴声山真正極楽寺といい、天台宗の寺院である。建立は九八四年であり、一条天皇の母藤原詮子(道長の妹)の願により叡山の僧・戒サン(竹+弄)上人を開山として創建された。時はまさに藤原道長全盛の時期で、紫式部が「源氏物語」を書いていた時代である。その後当寺は転々としたが、一七一八年に現在地に再建された。 本尊は阿弥陀如来立像で、藤原時代の慈覚大師円仁の作と言われる。この如来像は日本三如来の一つで、「頭振りの阿弥陀」「うなずきの阿弥陀」と呼ばれている。これは完成後作者円仁が「修行者の本尊にならせ給え」と祈ったところ、頭を三回横に振った。驚いた円仁が数日後「都に出て衆生、分けても女人を救い給うや」と問うたところ、こんどは三回うなずいたと言う伝説によるものである。以来庶民特に女人の間に信仰が篤い。ご本尊に供えるお茶湯は「末期の水」として有名であり、信仰するものは年老いて家人に下の世話をかけずに往生できると言われている。当院は開創以来歴朝皇室や歴代将軍と深い縁があり、北条家・足利家・信長・秀吉・家康などの信仰も篤かった。また三井家・冷泉家・池坊家の菩提寺でもあり、向井去来もここに眠る。三重の塔や本堂付近の紅葉が見事で、三脚を建てたカメラマンがたくさんいる。 真如堂 境内