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龍安寺

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  そこからまた鏡容地のほうへと下る。秋の京都は何処に行っても美しい紅葉を愛でることが出来るが、この龍安寺でこれほどまでに見事な紅葉を楽しむことが出来るとは思わなかった。 龍安寺 紅葉

龍 安 寺

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  地蔵院より国道九号線に入り、五条通りから一六二号線で天神川沿いに上って、花園から御室に出て、龍安寺に着く。門前の茶店でお団子を食べ、それから運転手さんお薦めの鏡容池奥の紅葉を見るために、山門より入る。山門前の拝観受付は方丈の石庭の拝観券であり、その他は無料であることも運転手さんより聞いていたため、拝観券を求めずに境内に入る。そして鏡容池沿いに、参道を進む。ちょうど弁天島の前の辺りにある楓の紅葉が、紅色がかつていて見事である。 弁天島や、屋形船をバックにして何枚かの写真を撮る。真田幸村のお墓のある大珠院や西源院の前を通って、庭園の奥に向かう。方丈本坊の前の参道あたりは、運転手さんの言葉の通り、紅葉がしっとりと色づいており、その色もやや淡い朱色、紅色、黄色をこき混ぜた感じで実に美しい。その参道を奥に進むと、石段の上に石碑の置かれているところがある。その辺りの紅葉もしっとりと落ち着いた色合いで、見事な錦繍を見せてくれている。 龍安寺 鏡容池

地蔵院

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  地蔵院は清閑な住宅街の真ん中に、ひっそりと佇んでいる。当山は正式名称を衣笠山地蔵院といい、夢窓国師を開山とする臨済禅宗の寺である。本尊は傳教大師最澄の作と言われる延命安産の地蔵菩薩を祀っているとのことである。 もともとこの地は鎌倉時代に歌人であった衣笠内大臣藤原家良が山荘を営んだ処で、南北朝時代になって、室町管領細川頼之が夢窓国師の高弟であった宗鏡禅師を招請して、伽藍を建立した。細川家の略系図によれば、初代細川公頼は足利よりの出となっており、頼之は三代目で一三二九年に三河の国に生まれ、将軍足利義満を補佐して管領職となっている。のちに頼之は武蔵守となって、南北両朝の和合に尽力したとある。日本外史にも細川頼之の海南行と言う詩が残っている。     人生五十功なきを愧ず     花木春過ぎて夏巳に中なり   満室の蒼蠅掃えども去り難し  起ちて禅榻を尋ねて清風に臥せん    また龍安寺の開基である細川勝元は頼之の四代後であり、細川幽斎藤孝は頼之の弟である頼有より八代後に出ている。山門を入ると、境内は紅葉につつまれている。紅葉の色合いは、秋雨が少なかったためかやや褐色に近いのが残念である。 堂前を右に折れて、方丈に入る。方丈入口の黄緑と薄紅色の混ざり合った、背の低い楓の木が風情あり。方丈に上がって、名勝庭園、十六羅漢の庭を見る。この庭は宗鏡禅師の作と言われるが、苔庭に十六羅漢の修行の姿を表す石組みが並べられ、正面中央に刈り込みが配してあるだけの、あまり造作のない庭である。しかしあまり特長はないが、落ち着きが感じられ、いわば長く見ても飽きの来ない顔をした庭であると感じた。羅漢とは、智恵の力を持って悩みを無くし正覚に達すること、または智恵を得、悟りを開いて世人から供養を受けるに足る聖者を言うとされている。方丈内には、細川三斎忠興の妻、ガラシャ夫人の詠んだ和歌が表示されていた。      散りぬべき 時知りてこそ 世の中の           花は花なれ 人は人なれ    細川ガラシャ  当院はまた一休禅師とも縁があり、禅師は後小松天皇の皇子として、一三九四年に子の地蔵院の近くの民家で生まれ、幼少のころ当院で修養されたといわれている。その後六歳で、安国寺に移って本格的な修行をしている。 地蔵院

粟生光明寺

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大阪駅より新快速で高槻まで行く。高槻で普通に乗り換えて、長岡京駅(旧神足駅)に着く。駅前には予約していた弥栄自動車のタクシーが止まっているが、運転手さんの姿がない。少しして運転手さんが駅から下りてくる。タクシーに乗って、今日の予定としては西山の寺社仏閣を廻りたい旨話す。そして先ずはじめは長岡天満宮に向かう。 天満宮に着いて錦水亭の方へと歩いて行く。この辺りの紅葉も、もはや盛りに近くなっている。これでは山の中のお寺の紅葉は、もう盛りを過ぎているなと思う。錦水亭の面している池は、工事中であり景色に風情無し。時間の関係でお宮そのものは見ないで、長岡天満宮より粟生光明寺に行く。 秋雨が少なかったせいか、ここの参道の紅葉も盛りを迎える前に枯れて縮れているものがある。写真などでこの参道の紅葉の見事さを印象づけられているだけに、大変に残念である。この寺は、法然上人が最初に念仏を説いた旧跡に、出家した熊谷直実(蓮生坊)が、念仏三昧院を建立したのが草創である。現在は西山浄土宗総本山になっている。参道を上がり、本坊前でまた脇道より引き返す。当初はこの寺より、三鈷寺、善峰寺、十輪寺、金蔵寺、正法寺、勝持寺(花の寺)と廻り、西山大原野のお寺を全て廻ろうと考えていたが、この様子では山中の寺の紅葉は全て終わっていそうである。 そこで方針を変更して、圓光寺、源光庵を見て、その後嵯峨野に行くこととする。その旨運転手さんに話すと、彼はこれから行く道筋に地蔵院というのがあるのでそこを見て、その後運転手仲間から今龍安寺の庭の紅葉が良いと聞いているので、そちらも廻ったらどうかとの話あり。それでその二つのお寺も廻ることとして、先ず地蔵院に向かう。 粟生光明寺  

天 龍 寺

  二尊院より南下して、小倉池のそばを通り大河内山荘の前を左に折れて、竹林の中を進むと、そこが天竜寺の北門である。こちらから天龍寺にはいるのは、始めてである。裏山の紅葉を見つつ、曹源池に出る。この庭の紅葉は未だ紅葉しているのが少なく、やや風情がない。 以前ここを訪れたときは、夕刻に近かったが、今回はお昼である。太陽の光は庭の正面に向かつて左手上から射しており、庭一面に十分な陽光が行き渡っているが、趣に欠けるのはなぜであろうか。やはり朝一番か、もしくはやや薄曇りの日の方が、庭の風情は高まるものなのかもしれない。  嵐峡に面した料理屋で、湯豆腐を食して嵯峨野を辞す。

宝 篋 院

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化野念仏寺より参道を戻る。このあたりは道の左右が、全て土産物屋となっておりこの奥嵯峨の地域まで、観光化の波が押し寄せてきているのがよく判る。瀬戸内寂聴の棲む寂庵はこの近くにあるようだ。いっぷく処・つれづれの店先に、緋色の和傘が立てられており、その後ろにあるもみじの紅葉と調和して、見事である。カメラを向ける。さらに下って、宝篋院に入る。昨年の秋に始めてこの寺に来たが、嵯峨野の紅葉の中ではこの寺がベストと感じた寺である。取り立ててこれという造作のない庭であるが、平庭一面の紅葉が美しい。しかし最盛期と言うにはやや早かった感がある。 宝篋院  

化 野 念 仏 寺

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  本日は嵯峨野巡りでの紅葉狩の日とする。京都に来てもう何度も嵯峨野には来ているが、この化野念仏寺に来たのは、二十三年ぶりである。化野は古くより、鳥辺野、蓮台野とともに葬送を行う野辺の地であった。あだし野の名の起こりは、「あだし」がはかない・悲しみの意味を持つことから、「あだしなる野辺」そして「あだし野」となったようである。他に「仇野」「阿陀志野」とも書くようである。兼好法師の「徒然草」にも   「あだし野の露消ゆる時なく鳥辺野の烟立ちさらでのみ住果つる習ならば如何に物の哀もなからん世は定めなきこそいみじけれ」   と記されている。寺伝によれば、当寺は約千百年前に弘法大師により、五智山如来寺として開創され、後に法然上人の常念仏道場となり、現在は華西山東漸院念仏寺と称して浄土宗に属している。本尊阿弥陀仏座像は湛慶の作である。山門への坂道を登る。この道にはもみじが紅葉して垂れ下がっており、朝の陽を透かして美しい。山内にはいると夥しい無縁石佛や石塔が、西院(さい)の河原に立ち並んでいる。地蔵盆の夕刻の千燈供養は、光と闇と石仏の織りなす荘厳浄土具現の光景として有名である。そこからインドのストゥーバを模したと言われる仏舎利塔を見て、本尊阿弥陀仏座像を拝す。境内には楓はまばらであり、やはり参道付近の楓の紅葉が最も印象的であった。     暮るる間も 待つべき世かは あだし野の            末葉の露に 嵐たつなり     式子内親王   誰とても 留るべきかは あだし野の            草の葉ごとに すがる白露    西行法師