青 蓮 院


青蓮院は天台宗総本山比叡山延暦寺の三門跡のひとつであり、天台宗の五つの門跡寺院五ヶ室のひとつでもある。最澄が比叡山を開いた折りに造った僧侶の僧坊の内のひとつが青蓮坊であり、それがこの青蓮院の起源である。鳥羽法皇が十二代座主行玄大僧正に帰依し、平安末期に行玄を第一世として創建。自らの皇子をその弟子としたのが門跡の始まりである。皇子覚快法親王が第二世となりそのあとを嗣いだのが、愚管抄で有名な第三世慈圓である。慈圓は台密の巨匠でありながら法然・親鸞を庇護し、法然の寂後その門弟源智(平重盛の孫)が創建した勢至堂は、慈圓が法然に与えた院内の一坊跡で、これが知恩院の起源となったのである。また親鸞は九歳の時に慈圓に就いて青蓮院で得度しており、その寂後は院内の大谷にて墓と御影堂が営まれたのが、本願寺の起源である。それ故本願寺の法主は、明治まで当院で得度しなければ公に認められなかったという。また当院の脇門跡として、門跡を称することが認められたという。天台宗の祖最澄、そうして天台座主にして当院第三世の慈圓、その庇護を受けた法然の知恩院、親鸞の大谷本願寺と、仏教の大思想の大きな流れが、この地を源流としていることに想いを馳せると、青蓮院の日本仏教の歴史に於ける位置の偉大さがよく判る。慈圓はまた後鳥羽上皇より託された道覚親王を後継とする考えであったが、承久の乱後鎌倉幕府に阻止された。しかし慈圓没後二十年にして、道覚親王は第六世門主となりまた天台座主となったのである。

 

   ひでは おなじながめに かえるまで

          れ 春のあけぼの       慈圓

   見ぬ世まで のこさぬ ながめより

          昔にかすむ 春のあけぼの      良経

   ふこと 誰にのこして ながめおかむ

          心にあまる 春のあけぼの       定家

 

塚本邦雄著の「世紀末花伝書」によれば、これらの歌は六百番歌合の中で、「春曙」として詠われたものという。大僧正慈圓の兄は藤原兼実でありその日記「玉葉」が著名であるが、その子が新古今の華・摂政太政大臣藤原良経である。良経にとって慈圓は叔父であり、後鳥羽上皇を軸とする新古今の和歌のサロンにおいて、二人共に重要な役回りを果たしている。豊臣氏滅亡後、当院は徳川家に知恩院全域を取り上げられ、現在の領域となった。また後桜町天皇(一七六〇年頃、十代将軍家治の世)は天明の大火による皇居炎上後、当院を仮御所として用いられたという。 東山魁夷の絵で印象深い「大楠の木」(樹齢四〇〇年親鸞上人の手植えと伝えられる)を見つつ入山。まず宸殿に廻る.

前庭に横たわる桃の花が色鮮やかであった。宸殿より小御所へ廻り、そこより龍心池を中心とする庭園を見る。粟田山の山畔を利用した池泉回遊式庭園で、相阿彌作と伝えられる。横に細長い池の中央に龍の背を思わせる岩島が浮かび、その向こうには築山に刈り込みが配され十一重石塔がある。手前に架けられている石の反橋は跨龍橋と呼ばれ、滝は洗心滝という。池の手前中央には舟着石も置かれている。心を落ち着かせる親しみやすいお庭である。小御所より本堂へ廻る。ここから宸殿を望むと、確かに粟田御所と呼ばれる風情がある。堂内には日本三不動のひとつとして知られる、不動明王二童子画像が祀られてある。当院のは青不動の画像で、顔の表情、火炎共になかなか迫力がある。不動明王は密教の仏であるので、青・黄・赤・白・黒の五色に配されることがある。青不動、黄不動、赤不動、目白不動、目黒不動がそれである。その中にあって青色の方位は中央であり、不動明王の中の上位に位置しているという。本堂を出てまた小御所に戻り、縁側の一文字手水鉢を見る。風趣のある結構な形をしている。そのあと華頂殿に行き、そこよりまた庭を眺める。庭の左手には好文亭があり、その廻りの庭は小堀遠州の作とも伝えられている。

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