知 恩 院

 青蓮院の門前で、ぜんざいを食べる。そこより南下すると、知恩院の黒門に着く。黒門坂はまるで城郭の一部のようである。これまで知恩院というと三門の前を通るのみで、知恩院そのものには全く訪れたことがなかった。今回が初めての拝観である。知恩院は浄土宗総本山であり、青蓮院の一部を慈圓より譲られて、一一七五年に法然上人が念仏の根拠地としたと言われる。法然はその流罪後、今の勢至堂の辺りに住んだが、一二一二年に当地で没した。法然入寂後二十三回忌の年に、門弟源智上人が知恩院を創建、のち織田信長、豊臣秀吉さらには徳川幕府の庇護のもと栄えた。法然上人は一一三三年に美作国(岡山県)で里の領主漆間(うるまの)時国の一人子として誕生。幼時は勢至丸と呼ばれた。九歳の時に父親が夜襲で亡くなり、その遺言(恨みを晴らすに恨みを持ってすれば、人の世には恨みは無くならない。汝は出家して万民の救われる道を求めよ)に従って比叡山に入山し、その後青龍寺で修業と勉学に励んだ。そして一一七五年に南無阿弥陀仏の念仏を唱えることが仏に救われる道であると確信し、浄土宗を開宗したのである。

北門より入り、方丈へ廻る。まず刈り込みの枯山水の庭を見る。それから知恩院七不思議のひとつである鶯張りの廊下を通って、その廊下の鴨居にかかつている大杓子を見た後、方丈庭園へと下りる。そこには一本の枝垂れ桜が今を盛りと咲き誇っている。青い空に桜の花の桃色が映えて、誠に見事である。この大方丈は江戸初期の建物であるが、ここにはかつて足利尊氏が夢窓国師を開祖とした常在院があったとのことである。大方丈、小方丈前の庭園は当時の庭を受け継いだもので、鉤型に折れた地割りは南北朝の様式と言われる。この庭園は当時の原型の上に、寛永十八年三代将軍家光の時に片桐石見守が方丈を再建、同時に妙蓮寺の僧玉淵坊が量阿彌とともに作庭に加わったと伝えられている。この玉淵坊は江戸初期に活躍した石立僧で小堀遠州とも関係が深く、桂山荘(桂離宮)の作庭にも関わったと言われている。大方丈南庭は大きな池に望んでおり、右手にある大灯籠が目立つ。南庭は川のように思われる池に面しており、左手に青石橋があるのが特徴的である。この橋は紀州徳川家より寄進された青石を用いて造ったものである。石そのものには面白いものがあるが、庭全体としての印象はやや薄い。

小方丈南庭は皐月の低い刈り込みで造られた枯山水で、当寺の国宝、阿弥陀如来来迎図(京都国立博物館に寄託中)にちなんで青石が二十五菩薩を、そして刈り込みが来迎雲を表すことから「二十五菩薩の庭」と呼ばれている。方丈より出て家光公によって建てられた御影堂の前を通って、三門への急な坂を下りる。この三門は二代将軍秀忠により建てられた門で、高さ二十四メートル、横幅二十七メートルの木造の門としては世界最大のものである。一六二一年創建であることから、三百七十年を経ているわけであり、その間京洛の様々な歴史と人の世の移り変わりをじっと静かに見据えて、時代時代の人々のそれぞれの思いをそのひさしに留めているのであろうかと思う。

知恩院の庭園


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