清 涼 寺

 清涼寺は十世紀末から十一世紀の藤原道長全盛期に南都東大寺の僧で、入宋して五台山に参詣した奝然(ちょうねん)の発願により、その遺志を継いだ弟子たちが棲霞寺の一隅を借りて建立したものである。棲霞寺自体は、元々嵯峨天皇の十二皇子であった左大臣源融(八二二―八九五)の嵯峨の別荘棲霞観が、その没後嵯峨源氏の一族により棲霞寺となったものであり、広大な敷地を持っていたのである。

源融の時代のことに触れてみると、八二一年には後に藤原氏の本流となった藤原冬嗣が右大臣となっており、八三九年には最後の遣唐使が終わっている。また八四一年には承和の変で伴健岑(とものこわみ)、橘逸勢らが謀反の嫌疑で失脚している。(これは藤原良房の謀略と解釈されている)。そして八五〇年には仁明天皇と良房の妹順子のあいだに生まれた文徳天皇が即位。八五七年には良房は、太政大臣となる。八五八年にその文徳天皇が没すると、わずか九歳の清和天皇を即位させ、良房が摂政となる。八六六年には応天門の変により、その炎上の嫌疑を掛けられた伴大納言善男・中庸父子が伊豆に流されている。同年在原業平と浮き名を流していた良房の姪高子が、八歳年下の清和天皇の女御として入内。八七二年に良房が没すると、その養子基経が摂政となり、藤原氏の摂関政治が始まる。八七六年清和天皇は九歳の陽成天皇に譲位。この陽成天皇は粗暴な振る舞い多く、摂政基経と対立。俗に言う清和源氏は清和天皇の出ではなくて、陽成天皇の皇子元平親王から出ているという説もある。八八四年陽成天皇は基経の圧力に屈し退位、祖父文徳の異母弟光孝天皇が即位。八八七年光孝天皇が没し、すでに源氏の姓を賜って臣籍降下していた定省親王が宇多天皇として即位。八九九年には桓武天皇の皇孫高望王らに、平朝臣の姓を与える。(この高望王が伊勢平氏の祖である)八九一年藤原基経が没すると、宇多天皇は親政をとり、藤原氏の摂関政治は一時中断する。八九二年宇多天皇は藤原氏の専制を押さえるために、菅原道真らを登用して参議とする。八九七年宇多天皇が醍醐天皇に譲位。八九九年藤原時平が左大臣、菅原道真が右大臣として並び立つ。九〇一年菅原道真が道長の女婿である醍醐天皇の弟斉世(ときよ)親王を、皇位につけようと企てたとして太宰府に流される。また九〇五年には初の勅撰歌集である「古今和歌集」が紀貫之らにより撰上される。九三〇年醍醐天皇が朱雀天皇に譲位。藤原時平が摂政となり、藤原氏の摂関政治が復活。

源融の生きた時代は、上記のごとく籐橘のうちの橘氏と、大伴の末裔である伴氏が承和の変及び応天門の変で失脚し、天皇を巡る三氏のうちのバランスが崩れてゆく時代であった。そして藤原氏の抬頭に対抗するものとして、親王を臣籍降下させ源氏の姓を与えて国政に参加させ、藤原氏の専制を押さえ込もうとした時代に左大臣まで登った源氏が、まさにこの源融であった。源融は七十四歳で没するまで栄華風流を極めた代表的な平安貴族であり、東六条に河原院と呼ばれた邸宅を持ち、宇治と嵯峨に別荘を持っていた。宇治の別荘は後に藤原道長のものとなり、その子頼道の時に平等院となっている。又すでに大覚寺(八七六年)となっていた父帝嵯峨天皇の嵯峨院の近くに棲霞観と言う別荘を持ち、そこで晩年は仏教に深く帰依したと言われている。この経歴から見れば、源融はまさに紫式部の「源氏物語」の主人公光源氏その人と重なっており、ために光源氏のモデルとも言われている。

この源融の建てた別荘棲霞観が後に棲霞寺となり、その一隅に奝然の発願した清涼寺が建立されたというのも興味深い。奝然は太秦の秦氏の出身であり、東大寺の僧であったが、当時はすでに天台宗比叡山が隆盛を誇っている時代であった。彼は東大寺の宗学である華厳の教学を基礎に、比叡山などの新しい教義や実践も修め、比叡山と対抗する又それ以上の大霊場を京都の近くに打ち建てようと言う生涯目標を掲げた。当時天台宗比叡山は中国山岳仏教の霊場である五台山仏教を取り入れており、奝然は当時日本仏教界で注目されていた五台山を訪れてその教義を修し、そして京都の西北の高山である愛宕山に大伽藍を建立し、一大霊場としようと構想したのであった。この山西省五台県にある五台山は華厳経にある文殊菩薩の住地であると信じられており、ために台州天台山と並んでその宗教的な意義が決定的なものとなったのである。この五台山には北魏時代(三八六―五三三年)以来多くの寺院が建立され、仏光寺・清涼寺・大華厳寺・金閣寺・竹林寺などの名前の寺があり、清涼寺の名前の由来はその一つにある。奝然は九八三年に入宋を果たし、台州に到着し、天台山を訪れた。その後杭州、蘇州を経て揚州に到着。揚州から運河を北上し、宋の首都ベン京(開封)に着いた。太宗皇帝との謁見を許され、「優填王(うてんおう)所造栴檀釈迦端像」礼拝も許された。この像は釈迦在世時に、釈迦がトウリ天にいる母のために法を説いたときに、優填王は釈迦の不在を悲しんで釈迦の像を造らせてあがめたという説話の根本像として、インドより渡来したものと信じられていた。その後彼は五台山を訪れ洛陽、龍門を経て帰京し、密教の研究に打ち込んだ。そして翌年帰日のため太宗皇帝と謁見し、新版大蔵経を賜っている。そして台州に到着すると、「優填王栴檀釈迦端像」を原型とする模造を制作し、お経・喜捨物・五臓模型・請願文などを胎内に封入した。これらは偶然の機会から昭和二八年に発見され、小規模な正倉院と言われるほどの貴重な資料となっている。

本堂に登り、国宝の釈迦如来のその又模刻像を見る。国宝のほうが「優填王栴檀釈迦端像」の模刻と伝えられる有名な如来像である。もともとの像がインド伝来と伝えられているが、この如来像のお顔もどちらかというとインド風であり、流れるような衣文(えもん)もガンダーラ風を感じる。背中には胎内封入物を入り口がある。本堂より庫裏にゆく途中には池の中に弁天堂が浮かんでいる。庫裏の前庭は小堀遠州作とあるが、苔庭でやや手入れが悪く、鑑賞に値しないと感じる。本堂を辞して、霊宝館へ行く。ここには棲霞寺本尊の阿弥陀三尊像(国宝)が展示されている。この像は嵯峨天皇第十二皇子である源融の子息が、父公の供養のために造立した尊像である。源融は光源氏のモデルとされる風流貴公子であり、この尊像も光源氏の面影を伝えるものと言われている。三尊ともに涼やかで気品のある美男子のお顔をされていると思う。そのほかには重要文化財である普賢菩薩騎象像と文殊菩薩騎獅像が立派であった。二階には国宝の釈迦如来立像胎内納入品二十六品目が展示されてある。そのうち特色のあるのが五色のシルクで作られた「五臓六腑」である。

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