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天 龍 寺

  二尊院より南下して、小倉池のそばを通り大河内山荘の前を左に折れて、竹林の中を進むと、そこが天竜寺の北門である。こちらから天龍寺にはいるのは、始めてである。裏山の紅葉を見つつ、曹源池に出る。この庭の紅葉は未だ紅葉しているのが少なく、やや風情がない。 以前ここを訪れたときは、夕刻に近かったが、今回はお昼である。太陽の光は庭の正面に向かつて左手上から射しており、庭一面に十分な陽光が行き渡っているが、趣に欠けるのはなぜであろうか。やはり朝一番か、もしくはやや薄曇りの日の方が、庭の風情は高まるものなのかもしれない。  嵐峡に面した料理屋で、湯豆腐を食して嵯峨野を辞す。

宝 篋 院

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化野念仏寺より参道を戻る。このあたりは道の左右が、全て土産物屋となっておりこの奥嵯峨の地域まで、観光化の波が押し寄せてきているのがよく判る。瀬戸内寂聴の棲む寂庵はこの近くにあるようだ。いっぷく処・つれづれの店先に、緋色の和傘が立てられており、その後ろにあるもみじの紅葉と調和して、見事である。カメラを向ける。さらに下って、宝篋院に入る。昨年の秋に始めてこの寺に来たが、嵯峨野の紅葉の中ではこの寺がベストと感じた寺である。取り立ててこれという造作のない庭であるが、平庭一面の紅葉が美しい。しかし最盛期と言うにはやや早かった感がある。 宝篋院  

化 野 念 仏 寺

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  本日は嵯峨野巡りでの紅葉狩の日とする。京都に来てもう何度も嵯峨野には来ているが、この化野念仏寺に来たのは、二十三年ぶりである。化野は古くより、鳥辺野、蓮台野とともに葬送を行う野辺の地であった。あだし野の名の起こりは、「あだし」がはかない・悲しみの意味を持つことから、「あだしなる野辺」そして「あだし野」となったようである。他に「仇野」「阿陀志野」とも書くようである。兼好法師の「徒然草」にも   「あだし野の露消ゆる時なく鳥辺野の烟立ちさらでのみ住果つる習ならば如何に物の哀もなからん世は定めなきこそいみじけれ」   と記されている。寺伝によれば、当寺は約千百年前に弘法大師により、五智山如来寺として開創され、後に法然上人の常念仏道場となり、現在は華西山東漸院念仏寺と称して浄土宗に属している。本尊阿弥陀仏座像は湛慶の作である。山門への坂道を登る。この道にはもみじが紅葉して垂れ下がっており、朝の陽を透かして美しい。山内にはいると夥しい無縁石佛や石塔が、西院(さい)の河原に立ち並んでいる。地蔵盆の夕刻の千燈供養は、光と闇と石仏の織りなす荘厳浄土具現の光景として有名である。そこからインドのストゥーバを模したと言われる仏舎利塔を見て、本尊阿弥陀仏座像を拝す。境内には楓はまばらであり、やはり参道付近の楓の紅葉が最も印象的であった。     暮るる間も 待つべき世かは あだし野の            末葉の露に 嵐たつなり     式子内親王   誰とても 留るべきかは あだし野の            草の葉ごとに すがる白露    西行法師

龍 安 寺

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  龍安寺よりさらに欲張って仁和寺まで行くが、残念ながら四時を回っていたため庭園は既に閉まっていた。それで五重塔を写真に収めて帰路に就いた。 桜の時季の鏡容池

龍 安 寺

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  石庭の石についての感想) 左端の大きな石は獅子の頭のようであり、又拡大した写真で見ると一角の鬼の頭が左を向いているように、目と鼻が浮き出て見える。次の横に細長い石は、その左の石と共に獅子の背が川の中より出ているようにも見える。又瀬戸内海に浮かぶ島のようでもある。三番目の石組みは、獅子の頭と右手前が子獅子の頭、その向こうが 子獅子の背のように見える。大の立石と中の横石と小の石と並び、この三つの石のバランスも良い。大きな石は須彌山のようにも思える。その右手の四番目の石組みは、左が横幅広く段層が入っており、石が正方形をやや潰したような四角で、この二つの石組みがとても造形的に見て面白い。五番目の右端の石組みは肌色が強く花崗岩の山のようである。小さな石が左と右に埋め込まれており、海原に浮かぶ島のイメージである。各々の石組みがそれぞれの特徴を持って、しっかりとその慥かな位置に自らの形姿を決めているかのようだ。そしてまるで石そのものが舞台での俳優のように、見られていることを意識しているかのように、拝観客に思わせるのも不思議なものである。細川政元の指図により、山水河原者が造り上げた庭であろうが、これほどまでに石に個性と存在感を与え、配置の絶妙さにより我々の精神を落ち着かせる力を持たせたことに、感嘆の声をあげざるを得ない。 龍安寺 糸桜

龍 安 寺

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  又この石組みは人の世の移り変わりの中にあっても、ただ厳然としてそうして寂としてここに存在し続けてきたという事実。時間の重みの前にあっては、自らの一時の心の迷いなどは如何ほどのものかという感が強くなるものである。石組は自然はそして宇宙は、何も変わることがない。そこに存在するのは、無常感のみである。その事実がかえって、人の悩みを慰めることになるのだ。この世の中における自己は孤独であることが当たり前であり、人の輪の中にあって一時期喜びに浸ったとしても、根元的には人間はこれらのひとつひとつの石と同じように、ひとり孤独に存在しているのだ。そう言った人間存在の宇宙の中における孤独を、この庭は我々に教えてくれるかのようだ。傷ついた人間が、さらにその傷口を大きくすることで蘇生して行こうとするように、人間は根源的に孤独な存在なのだという厳然たる事実が、かえって心に迷いや悩みを持つ人間にとって救いとなり慰めとなるというこの逆説。悲しみに打ちひしがれている人間にとって、悲しみの極みの音楽がかえって深い慰めとなるという不思議さと、いかに似通っていることか。人間という存在の不可思議さを覚えないではいられない。井上靖も「石庭」という散文詩に、同じような思いを開陳している。   「ここ龍安寺の庭を美しいとは、そも誰が言い始めたのであろう。人は  いつもここに来て、ただ自己の苦悩の余りに小いさきを思わされ慰め  られ、そして美しいと錯覚して帰るだけだ」   龍安寺のパンフレットには、次のように英文で説明が付いている。     [ The  Rock  Garden ] This simple yet remarkable garden measures only thirty meters from east to west and ten meters from south to north. The rectangular ZEN garden is completely different from the gorgeous gardens of court nobles constructed in the Middle Ages. No trees are to be seen; only fifteen rocks and white grave

龍 安 寺

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  歩いて十五分くらいで龍安寺に着く。茶店でうどんを食べる。龍安寺は大雲山龍安寺といい、臨済宗妙心寺派に属しているお寺である。 ここはもともと徳大寺家の別荘であったものを、一四五〇年(室町中期第八代将軍足利義政の頃)管領細川勝元が譲り受けて寺地とし、妙心寺の義天玄承を開山として創建されたものである。応仁の乱(一四六七 ~ 七七年)で消失したが、勝元の子政元が再興した。石庭は政元が母の三回忌の時に、方丈と共に造築したと言われている。その後江戸時代後期の寛政九年に、火災で方丈・仏殿などを消失している。従って現在の方丈は、そののちの再建なのであろう。 山門より入り、鏡容池を見る。昔訪れたときはこんなに大きな池にも拘わらず、全くその存在の記憶も無い。ただ石庭のみが記憶に残っている。この池は徳大寺家により築かれたもので、藤原時代の名残を留めているものとのことである。今は池の中央に弁天島があるが、平安時代の貴族達が舟を浮かべて詩歌・管弦を愉しんだ頃は、蓬莱島を中心に、瀛州・方丈・壺梁の三島が浮かぶ、神仙蓬莱の池であった。池の北側の大珠院には、真田幸村の墓があるそうだ。鏡容池を一周する。大珠院の後ろに、山々がなだらかにうねっており、平安時代より景勝の地であったことがよく判る。この鏡容池は金閣寺の鏡湖池、銀閣寺の錦鏡池と共に、京の三つの鏡と呼ばれている。鏡とは建物や庭や周囲の景観を映すことから、そのように名付けられたようである。 涅槃堂を経て方丈前を通り、庫裏への石段を登る。方丈に登り、石庭を見る。流石に日本一の石庭と言われるだけあって、石の形姿、石組みそして石の配置には実に慥かなものがあると思う。方丈左手の縁側に座して鑑賞。ここよりのみ石組みの全景が全てカメラに収めうる。しかし、十五全ての石を見渡せる位置は無いとのことだ。石組みは左側の中央に五つ、次いで左三分の一の後方に二つ、それから中央よりやや右手かつ前後の中央よりやや後方に三つ、そして四つ目の石組みは三つ目の石組み右手後方に二つ、そして最後の石組みは四つ目の石組のやや右前方に三つという風に置かれている。基本的には正面中央に坐して見るときのバランスを考えて、五つの石組みが配置されているのであろうが、実に絶妙な均衡の上に一つ一つに石組みが置かれている。中国の寓話をモチーフとした「虎の子渡し」とか、大海に浮かぶ島々あ