龍 安 寺

 歩いて十五分くらいで龍安寺に着く。茶店でうどんを食べる。龍安寺は大雲山龍安寺といい、臨済宗妙心寺派に属しているお寺である。

ここはもともと徳大寺家の別荘であったものを、一四五〇年(室町中期第八代将軍足利義政の頃)管領細川勝元が譲り受けて寺地とし、妙心寺の義天玄承を開山として創建されたものである。応仁の乱(一四六七 ~ 七七年)で消失したが、勝元の子政元が再興した。石庭は政元が母の三回忌の時に、方丈と共に造築したと言われている。その後江戸時代後期の寛政九年に、火災で方丈・仏殿などを消失している。従って現在の方丈は、そののちの再建なのであろう。

山門より入り、鏡容池を見る。昔訪れたときはこんなに大きな池にも拘わらず、全くその存在の記憶も無い。ただ石庭のみが記憶に残っている。この池は徳大寺家により築かれたもので、藤原時代の名残を留めているものとのことである。今は池の中央に弁天島があるが、平安時代の貴族達が舟を浮かべて詩歌・管弦を愉しんだ頃は、蓬莱島を中心に、瀛州・方丈・壺梁の三島が浮かぶ、神仙蓬莱の池であった。池の北側の大珠院には、真田幸村の墓があるそうだ。鏡容池を一周する。大珠院の後ろに、山々がなだらかにうねっており、平安時代より景勝の地であったことがよく判る。この鏡容池は金閣寺の鏡湖池、銀閣寺の錦鏡池と共に、京の三つの鏡と呼ばれている。鏡とは建物や庭や周囲の景観を映すことから、そのように名付けられたようである。

涅槃堂を経て方丈前を通り、庫裏への石段を登る。方丈に登り、石庭を見る。流石に日本一の石庭と言われるだけあって、石の形姿、石組みそして石の配置には実に慥かなものがあると思う。方丈左手の縁側に座して鑑賞。ここよりのみ石組みの全景が全てカメラに収めうる。しかし、十五全ての石を見渡せる位置は無いとのことだ。石組みは左側の中央に五つ、次いで左三分の一の後方に二つ、それから中央よりやや右手かつ前後の中央よりやや後方に三つ、そして四つ目の石組みは三つ目の石組み右手後方に二つ、そして最後の石組みは四つ目の石組のやや右前方に三つという風に置かれている。基本的には正面中央に坐して見るときのバランスを考えて、五つの石組みが配置されているのであろうが、実に絶妙な均衡の上に一つ一つに石組みが置かれている。中国の寓話をモチーフとした「虎の子渡し」とか、大海に浮かぶ島々あるいは雲海に顔を覗かせる高峰の尖頭、または心字の配石であるとか、左五+二で七、中三+二で五、右三となっていることから「七五三の配置」とか解釈されている。解釈の仕方は色々あるにしても、自分なりにこれらの石組みの放射する緊張感と、無機的で簡素な存在感と言ったものを、しっかりと受け止めるだけでよいのだ思う。自らの中の様々な喜怒哀楽も、この世つまり宇宙を石と砂に還元したこの空間の中にあっては如何ほどのものか、と言う想いに自己を沈潜させて行くのがよいのだろう。何か思い悩むことがあっても、この凝縮された空間の無常感の前にあっては、それすらも取るに足りぬことのように思われる。
龍安寺・鏡容池


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