酬 恩 庵 一 休 寺

JR大阪駅より京橋に向かう。大阪駅よりはJR奈良線(大和路線)も出ており、今度奈良に行くときは、この線も利用してみようと思う。京橋より学研都市線で田辺へ。この線は大東市、四条畷市と北東に登り、京都府田辺町に入って行く。郊外ののどかな風景の中を走って、田辺に着く。駅は小さく酬恩庵への案内のカンバンも、一つしか出ていない。電車に乗ってこのお寺を訪れる人は、きっと少ないのだろう。表示に従って進むと、旧街道とおぼしき道にでる。その道を右折して、一休寺の入口へ向かう。旧街道よりは徒歩で約十分ほどの山裾に、酬恩庵一休寺がある。

当寺のもともとの名前は妙勝寺で、鎌倉時代に臨済宗の大応国師(南浦紹明なんぽじょうみょう)が創建した由。その後戦火にかかって復興できずにあったものを、一休禅師が一四五〇年代に再興したとのことである。酬恩庵の名前の由来は、大応国師の恩に酬いることから来ている。

総門からの参道はやや登り坂となっており、風情がある。総門を入ったところに一休禅師の墨跡で「諸悪莫作、衆善奉行」の碑が建っている。一休禅師には又「佛界易入、魔界難入」という有名な言葉がある。川端康成がこの一休の言葉にとらわれたのは、一休禅師の仏界への求道と森女との愛欲の二面性を持つ生き様に、康成も又惹かれていたからであろうか。魔界と言えば康成は梅原猛の「地獄の思想」を愛読しており、又一方康成の死後に梅原が川端康成論を書いたことも考え合わすと、一休 --- 川端 --- 梅原と一つの類似した思想、人間性の流れがあり、それに又惹かれている自分を思うと面白いものである。

参道に沿って登り、入館受付を右に曲がると御廟所がある。一休禅師は人皇百代後小松天皇の皇子であるため、この御廟所は宮内庁の管轄となっている。残念ながら廟及びその前庭は見られなかった。方丈に入る。これは前田利常が大阪の陣の折、当寺を訪ねその荒廃ぶりを目にして、一六五〇年に再建したものである。内部の襖絵は狩野探幽斎守信の筆であり、方丈には一休禅師の木像が安置されている。方丈に開山の木像を置くのは如何かとその時は思ったが、禅寺での慣習であるようだ。昔の高僧は自らの肖像画を描かせて残しており、これを頂相(ちんぞう)と呼ぶが、一休も又頂相、木像を造らせている。これが禅宗の習いとしても、かなり自己顕示欲の強い人物であったのではないか、と言う気がする。

方丈庭園は白沙の向こうに皐月の刈り込みを配し、その向こうに生垣を白壁のかわりに並べている造りである。庭の右手の蘇鉄とその手前の大きな刈り込みが、この庭のポイントとなっており、庭全体の構成に安定感を与えているようだ。生垣の向こう側は、右手が一休禅師の居所であった虎丘庵、左手に御廟所が見える。この庭は一休禅師の時代にはなく、江戸時代の初期に松花堂昭乗、佐川田喜六、石川丈山の三人が合作したものと伝えられている。この南庭についで、東庭は十六羅漢を模した石組みの庭、そして北底は右奥に大きな石組みを配し枯れ滝の表現となっている。この東庭、北庭共に有名な庭であるが、写真等で見るのよりは印象が薄いのは不思議である。特に北庭は、全体の構成に落ち着きが無く石組みがやや浮いているような感じを受けた。

一休禅師は後小松天皇の皇子として一三九四年に生まれており、六歳には京都の安国寺で出家をさせられている。二十二歳で江川堅田の華臾(かゆ)和尚に師事、修行して大悟したという。六十歳で当寺を再興し、八十一歳で大徳寺住職を兼務、八十八歳で大往生を遂げている。一休の時代は、室町の四代将軍足利義持の頃であり、南北朝が合体した時代に生まれている。この時代には世阿弥が活躍し、茶道、華道が流行し、太田道灌が江戸城を築城した頃でもある。そうしてその晩年には応仁の乱も経験している。まさに動乱の時代を生き抜いた個性であったと言えよう。 

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