金 閣 寺

 参道より総門を入ると、鏡湖池の南東に出る。葦原島を手前にして、金閣の秀麗華美な形姿が池面に映えている。この場所にはかつて釣殿があったようであり、瓢箪の形をした池が左手奥にも深く入り込んでいたようである。釣殿があったということは、ここからの景観がそれだけ見所であったということになる。池に沿って紅葉山に至る柴戸のところまで来る。その柴戸の向こうは、立入禁止となっている。ここからは金閣が殆ど正面に見える。本来この庭は舟遊式であり、舟で景観を愉しむべきであるが、それが叶わないのであれば、せめて池の周囲を一巡できるようにすればよいのにと思う。

金閣は三層から成っているが、金箔を張っているのは上二層であり、二層と一層の間には屋根がないため、遠望すると二層のイメージが強くなるようだ。一層は法水院(寝殿造り)、二層目が潮音洞(武家造り)そして三層目が究竟頂(くっきょうちょう)(禅宗仏殿造り)となっており、三つの様式を見事に調和させた室町時代の代表的な建造物である。この正面からの構図もなかなか良いので、何枚かの写真を撮る。

本堂の前庭は枯山水となっている。書院の前には陸舟の松という見事な松がある。舟の舳先のように下から上へと競り上がった枝と、帆のように刈り込まれた垂直の枝とでなる松である。これは義満の盆栽を、帆掛け船の姿に似せて造り上げたものと言われている。書院の前より又島々を見る。鶴島・亀島・出亀島・入亀島・向こうに淡路島とあるようだが、一ヶ所からは全ての島は見えない。ただ各々の島は、案内図で見るよりは大きく見える。各大名から贈られた赤松石・畠山石・そして葦原島には細川石もあるようである。又葦原島(これは豊葦原瑞穂の国、すなわち日本を示すもの)には、西芳寺の三尊石組を模したものもあるようだ。将軍義満が、いかに夢窓国師の造った西芳寺に惹かれていたかという証左であろう。金閣の側には夜泊まり石もある。右手の出島には、灯籠が一基置かれてある。全体としてみるとこの庭には松が多いが、これは金色に対応するものとして、常緑の松をその配色を考慮して多用したのかもしれない。池に舟を浮かべて島々を巡りながら、この蓬莱神仙様式を踏まえた池泉舟遊式庭園を、思う存分愉しんでみたいものである。舟の中からの目線では、又違った角度からの景観が開けるのであろう。金閣の北側に廻る。かつて金閣は池中にあり、その北側に天鏡閣という会所があり、金閣と天鏡閣は空中廊下で結ばれていたという。鏡湖池自体が今の規模よりはもっと南に大きく拡がっていたということでもあり、金閣に対応する天鏡閣が並んでいた当初の景観は、今とは又かなり異なるものであったろう。

銀河泉、巌下水(手洗いの水)を巡って、龍門瀑を見る。斜めに立てた石を鯉魚石とし、滝を登る鯉になぞらえている。この滝の石組みは全てやや右傾させているが、そのことが石組みに躍動感を与えているように思う。坂道を上ると、やや高みから金閣や庭を展望できるところがある。その先には安民沢がある。この池の中島には、白蛇の塚がある。そこから進むと夕佳亭がある。江戸時代に当寺を復興した禅僧鳳林承章が、後水尾天皇を招くために茶道家金森宗和に造築させたという、数寄屋造りの茶室である。夕陽に映える金閣が殊の外良いことから、夕佳亭と名付けられたという。正面に有名な南天の床柱がある。又庭には義政遺愛の富士形の手水鉢もある。当地は金閣の出来る前の平安時代より景勝の園池として有名であり、藤原定家はその「明月記」にも「四十五尺の瀑布滝、碧瑠璃の池水又泉石の清澄、実に比類なし」と記しているほどである。その後金閣は幸いなことに応仁の兵火も免れて昭和の時代まで残っていたが、昭和二十五年修業僧の放火により炎上する。現在の金閣はその後再築されたものである。

いずれの寺を廻ってもいつも思うことは、かつて二十代に寺社仏閣を見て、そのころは何を考えていたのだろうかということである。金閣寺にしても確かに金閣そのものの燦然と輝く形姿ははっきりと記憶しているが、庭全体の構成を考えたこともないし、又安沢民や夕佳亭などは殆ど記憶にも残っていなかった。同じものを観ても、その心構えや予備知識の有無、それと鑑賞したものを後から又思い起こして記憶に焼き付けるか否かで、鑑賞したことの意味合いが全く異なるものだということを、改めて考えさせられる。

金閣寺(鹿苑寺)



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