宝 篋 院 リンクを取得 Facebook × Pinterest メール 他のアプリ 12月 04, 2020 苔の上の落ち葉を撮そうと思って、その落ち葉に触っていると、僧侶に注意を受ける。素人カメラマンはマナーに注意しなければ、と反省しきりである。 宝篋院を出て、車を求めて清涼寺の前まで来ると、境内の銀杏の木が見事であった。これもカメラに収める。それからタクシーを捕まえて、鷹ヶ峰光悦寺に向かう。宝 篋 院 リンクを取得 Facebook × Pinterest メール 他のアプリ コメント
大 徳 寺 本 坊 11月 18, 2020 再び大徳寺を訪れる。今秋の特別公開により、大徳寺本坊や興臨院などを拝観できるためである。大徳寺は平安の昔は紫野の茂る野原であったが、ここに臨済宗の大燈国師が大徳庵を営んだのが始まりである。その後大燈国師の徳望が拡がり、まず北朝の花園天皇が勅願所とし、次いで南朝の後醍醐天皇の勅旨も得て、一三二六年に大徳寺創建となった。その後応仁の乱などで衰退したが、十五世紀後半に一休禅師が再興。桃山、江戸時代にかけて興隆し、現在の威容を為した寺である。一休禅師以降も以天、東渓、古岳、春屋、古渓、玉室、沢庵、江月等の名僧を輩出した。大徳寺本坊へは庫裏より入る。庫裏は大竈の炊き口が並ぶ、重要文化財である。それに続くのが食堂(じきどう)、長い食卓が頭上に並べて架けられている。そして方丈前の板の間には、洋風の机と椅子が置かれてあり、その右手には坪庭と井戸がある。方丈庭園は小堀遠州の作と伝えられているが、この庭園は一六三六年に京都の豪商後籐益勝が方丈を寄進した際に、共に作庭されたという。沢庵和尚が紫衣事件で流罪(一六二七年)となり、その波乱の治まった頃である。作庭の作者は天佑和尚であるという説もある。 南庭は長方形の平庭で、方丈の正面に唐門が設けられている。方丈の縁側を歩くとそこはうぐいす張りとなっており、歩を進める度にきゅっ、きゅっと軽快な音を発する。方丈の庭は正面に日光陽明門のモデルとなったひぐらし門の原型である、花鳥の透かし彫りのある唐門がある。これは元聚楽第の正門で桃山時代に建造されたものである。それを村上周防守が拝領し、大徳寺境内山門の西側にあったものを、明治初年に移築したものである。その前には明智光秀寄進の明智門があったが、これは明治初年に金地院に移建されている。庭の手前は瓦敷きの廊下となっており、右手には門主の入る通用門がある。白沙はまっすぐの縦の線と蛇行線が交互に引かれてあり、その文様が面白い。正面やや右に二つの砂盛があり、その右に石が二つある。右の石は高く白沙から出ているが、左の石は平面のみ白沙から出ている石組の島である。鶴島、亀島を表しているものか。唐門の左右の石組みと木の配置、また左手奥には蓬莱山と滝それに滝壺を表している石(平天石 --- 伏せ石)が白沙に埋め込まれており、興趣あり。またその右側の横に長い石二つも面白い。全体としてバランスが取れており、二つの... 続きを読む
青 蓮 院 11月 15, 2020 青蓮院は天台宗総本山比叡山延暦寺の三門跡のひとつであり、天台宗の五つの門跡寺院五ヶ室のひとつでもある。最澄が比叡山を開いた折りに造った僧侶の僧坊の内のひとつが青蓮坊であり、それがこの青蓮院の起源である。鳥羽法皇が十二代座主行玄大僧正に帰依し、平安末期に行玄を第一世として創建。自らの皇子をその弟子としたのが門跡の始まりである。皇子覚快法親王が第二世となりそのあとを嗣いだのが、愚管抄で有名な第三世慈圓である。慈圓は台密の巨匠でありながら法然・親鸞を庇護し、法然の寂後その門弟源智(平重盛の孫)が創建した勢至堂は、慈圓が法然に与えた院内の一坊跡で、これが知恩院の起源となったのである。また親鸞は九歳の時に慈圓に就いて青蓮院で得度しており、その寂後は院内の大谷にて墓と御影堂が営まれたのが、本願寺の起源である。それ故本願寺の法主は、明治まで当院で得度しなければ公に認められなかったという。また当院の脇門跡として、門跡を称することが認められたという。天台宗の祖最澄、そうして天台座主にして当院第三世の慈圓、その庇護を受けた法然の知恩院、親鸞の大谷本願寺と、仏教の大思想の大きな流れが、この地を源流としていることに想いを馳せると、青蓮院の日本仏教の歴史に於ける位置の偉大さがよく判る。慈圓はまた後鳥羽上皇より託された道覚親王を後継とする考えであったが、承久の乱後鎌倉幕府に阻止された。しかし慈圓没後二十年にして、道覚親王は第六世門主となりまた天台座主となったのである。 思 ひでは おなじ ながめ に かえるまで 心 に 残 れ 春のあけぼの 慈圓 見ぬ世まで 思 ひ のこ さぬ ながめ より 昔にかすむ 春のあけぼの 良経 思 ふこと 誰に のこ して ながめ おかむ 心にあまる 春のあけぼの 定家 塚本邦雄著の「世紀末花伝書」によれば、これらの歌は六百番歌合の中で、「春曙」として詠われたものという。大僧正慈圓の兄は藤原兼実でありその日記「玉葉」が著名であるが、その子が新古今の華・摂政太政大臣藤原良経である。良経にとって慈圓は叔父であり、後鳥羽上皇を軸とする新古今の和歌のサロンにおい... 続きを読む
桂 春 院 11月 25, 2020 最初に桂春院を訪れる。当院は織田信長の長男信忠の、そのまた次男である津田秀則により当初見性院として創建された。その後美濃の豪族であった石河(いしこ)貞政により、現在の建物が造られている。石河貞政は幼少より豊臣秀吉に仕えて重臣となり、江州長浜城主となっている。しかし後の関ヶ原の戦いでは徳川家康に従い、爾来直参旗本となった武将である。そしてこの石河貞政の法名が、桂春院と言う。 当院の栞によれば「禅宗とは、坐禅の修行によりて単刀直入内に向かつて自己何者ぞ、人生とは、存在とは畢竟何か、と真っ向に追求し、直下に分別意識の極限を飛び超えて真理を体験し、只仏に直参することを生命とする。人間がその存在の根底より呼び起こす魂の郷愁として(絶対成るもの、永遠なるもの)に全人格を投げ出し、そこに新しい自己を発見し、人生の意義に目覚め、一種の安心性、安住性、千万人といえども我行かんという心の悟りを得るもので、それは多くの宗教中最も根源的な、最も純粋な宗教である」とのことである。言わんとするところは何となく判るが、この文章は相当に読みにくいものであると思う。 庭園に関しての記載は、次の通りである。「庭園には遊楽の場を目的とした相対的な美意識の立場にある山荘池泉回遊式鑑賞庭園と、真実の自己を究明する場を目的とした禅精神の影響による知性を超越した絶対的な美の立場である枯山水庭園がある。枯山水の庭は(三万里程を寸尺に縮む)筆法であり、それは石も樹木も白沙も青苔も無限の広さ大きさを持ち、大自然に帰一する禅精神の極高・静寂・脱落・有限性の表徴であり、高度の芸術である」と書かれている。 まず清浄の庭を見る。これは坪庭に井筒を利用して紀州の奇石を配した枯れ滝の庭で、大仙院と同じく渡ろう・宋風窓あり。次ぎに侘びの庭である。これは青苔と石組のみで、余り風情はない。次いで方丈に廻って真如の庭を見る。方丈南側の崖を躑躅の大刈り込みで覆い、その向こうの一段と低いところに石組みを七・五・三に配して、十五夜の満月を表現している庭であるという。そしてそのまた向こうにある生け垣が、背景との境を為している。庭の向こうに二階建ての日本家屋があるのが、残念である。 桂春院の庭園 続きを読む
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