龍 潭 寺

 方丈には石田三成の生涯についての説明の額が並んでいる。秀吉が長浜城主の折りに鷹狩りで佐吉(三成の幼名)に出会い、その後官僚派の近江閥として出世するが、慶長五年九月十五日の関ヶ原の戦いで敗れ、同十七日には佐和山城も落城し、父兄妻など一族郎党が自決。伊吹山に逃れていた三成も捕らえられて、大阪・堺を引き回しの上、今日の六条河原で切腹。大徳寺三玄院に葬られている。関ヶ原の戦いは三成が敦賀城主大谷吉継と謀り戦火の火蓋を切ったが、小早川秀秋が寝返って大谷軍を攻めたことから徳川の勝利となったもので、こうして見ると歴史は本当に一つ一つに事件の積み重ねで、結果は大きく変わって行くものなのだということを感じる。

     散り残る 紅葉は殊に いとほしき

            秋の名残りは こればかりとぞ

                     「残紅葉」 石田三成の遺墨

院東庭は鶴亀蓬莱の池泉鑑賞・回遊・借景庭園であり、桃山時代の作庭を偲ぶことが出来る。小さな池の左手に鶴亀の島があり、右手の池のなかに飛び石がある。その右奥に石橋があり風情がある。池の奥は山の斜面を利用し、刈り込みと共に多くの石を配置しているのが特色である。斜面の東隅は石垣としている。井伊直弼がこの池泉庭園を詠じて、

      世間に すむとにごるの あともなく

             この池水の いさぎよきかな

 と詠んでいる。方丈の襖絵は芭蕉門下の十哲の一人、森川許六の筆になるものである。またこのお寺にある有名な楊柳観音像は、毎月十八日にのみ開扉することとなっており、残念ながら見ることは出来なかった。

龍潭寺にて達磨のお守りを買い、タクシーを呼ぶ。隣には石田三成の家老であった島左近の邸宅趾をお寺とした清涼寺があるも、これは訪れるのを止めて、玄宮園へと向かう。

龍潭寺 書院東庭


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