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真 如 堂

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  わらべ歌      ああ真如堂       (ああしんどいな)         飯黒谷さん       (めしくったか)         ここらで一服永観堂   (ここらでいっぷくええだろう)              お茶漬けさらさら南禅寺 (お茶漬け更々何千目) 真如堂 三重塔                                                   

真 如 堂

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  本堂に入る。浄土曼荼羅(当麻観経曼荼羅)が開陳されていた。本坊へ向かう。その途中の庭に本歌「燈明寺石燈籠」(九基名物のうち鎌倉時代)があり、三井家より寄贈されたものである。傍らにシャシャンボウと言う石楠花科の見事な木が植えられてあり、その右には蹲いの面白い形をしたものもある。書院は東山を臨んでおり、そこに涅槃の庭(昭和六三年作)というのがある。枯山水であるがまさに釈迦が涅槃をしているかのごとき石組みが苔の陸地に囲まれており、その手前の白砂の渦巻きのなかに水晶石のようなやや透明な石が置かれているのも興趣あり。右手の島には二本の大きな松があり、後方の生け垣の向こうは叡山が借景として見える。作者は判らなかったが、石組みなどの構成も落ち着いており、なかなかの名庭であった。本堂の回廊より撮した紅葉が、見事であった。 真如堂 涅槃の庭

真 如 堂

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  今日は紅葉を見るために、東山を南下することとした。京都駅より地下鉄で丸太町へ、京都御所の南西よりバスに乗り、丸太町通りを東へ向かい、白川通りを少し北上したところでバスを降りる。真如堂は吉田山の南にあり、急な坂道を登って境内に入る。 当寺の正式名称は鈴声山真正極楽寺といい、天台宗の寺院である。建立は九八四年であり、一条天皇の母藤原詮子(道長の妹)の願により叡山の僧・戒サン(竹+弄)上人を開山として創建された。時はまさに藤原道長全盛の時期で、紫式部が「源氏物語」を書いていた時代である。その後当寺は転々としたが、一七一八年に現在地に再建された。 本尊は阿弥陀如来立像で、藤原時代の慈覚大師円仁の作と言われる。この如来像は日本三如来の一つで、「頭振りの阿弥陀」「うなずきの阿弥陀」と呼ばれている。これは完成後作者円仁が「修行者の本尊にならせ給え」と祈ったところ、頭を三回横に振った。驚いた円仁が数日後「都に出て衆生、分けても女人を救い給うや」と問うたところ、こんどは三回うなずいたと言う伝説によるものである。以来庶民特に女人の間に信仰が篤い。ご本尊に供えるお茶湯は「末期の水」として有名であり、信仰するものは年老いて家人に下の世話をかけずに往生できると言われている。当院は開創以来歴朝皇室や歴代将軍と深い縁があり、北条家・足利家・信長・秀吉・家康などの信仰も篤かった。また三井家・冷泉家・池坊家の菩提寺でもあり、向井去来もここに眠る。三重の塔や本堂付近の紅葉が見事で、三脚を建てたカメラマンがたくさんいる。 真如堂 境内

高 台 寺

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小さな門を潜って、開山堂への道を進む。右手には臥龍池がある。この池の畔には、石組みはまったくない。そして池のまわりは楓樹などが植えられている。この池を跨いで、開山堂と霊屋(おたまや)を結ぶ臥龍廊があり、その廊下は竜骨のように急勾配で撓って一段と高いところにある霊屋へと繋がっている。ライトアップはこの臥龍廊あたりを照らし出しており、その渡廊とまわりの紅葉した楓が池に映じているのが、また何とも言えず風流である。開山堂自体はわりとこぢんまりとしている。開山堂を出て、坂道を登って行くと霊屋がある。秀吉と北政所を祀っており、屋内の厨子も開帳されている。右に秀吉、左に北政所の木像が安置されており、中心に須彌壇と厨子があり、その一面に華麗な蒔絵が施されている。その蒔絵の模様としては、草花や楽器が繊細に描かれており、高台寺蒔絵として重文となっている。光沢のある漆黒の上に描かれた金色の草花や楽器の絵は、実に豪華絢爛である。家康はこうして北政所の歓心を買って、秀吉が籐吉郎と呼ばれていた時代からの家来である加藤清正、福島政則などの北政所と近しい武将を味方に付けた上で、豊臣家を滅ぼしてしまうのである。しかしこうして、一方で禰々を大切にして秀吉の霊屋にこれだけの財政支援をすると言うこと、そうしてまた北政所亡き後もこのお寺を取り壊しもせずにそのまま残したということ、この辺りが家康の懐の深さなのかもしれない。しかしながら、他方加藤家、福島家は後に徳川秀忠によって見事にお家取りつぶしにあっているのだ。 高台寺 臥龍廊 お霊屋を出たところで、臥龍廊の急勾配の階段を見る。それから傘亭、時雨亭のある方へと登って行くが、この著名な茶室は残念ながら拝観できなかった。そこで竹林を通って、また方丈へと戻る。方丈に入って、正面より方丈前庭の光の芸術をゆっくりと鑑賞する。これはまさに庭の中心にある勅使門を主人公とする光の劇とも思われる。方丈内の部屋に、龍の絵が襖に描かれてある。「大宇遊龍」の文字が書き添えられている。唐門の方から出口に向かう途中に、霊山観音のお姿がこれもまたライトアップされているのが垣間見える。帰り道の高台寺の参道も、フットライトで照らされていて、また風情がある。参道の出口近くの白壁に、「高台寺夢あかり」のスライドが映し出されていた。これまたライトアップされている八坂の塔のそばを通り、東大路へと出る

高 台 寺

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銀閣を出て次の目的地である清水寺に向かおうと思ったが、タクシーの運転手さんに高台寺行きを勧められる。今回の夜間拝観は、銀閣寺・高台寺・清水寺の他に、圓光寺もライトアップをやっているそうである。 高台寺の参道を登って、庫裡の左手より入山する。この寺は東山霊山の山麓、八坂法観寺の東北にあり、正しくは鷲峰山(じゅぶざん)高台聖寿禅寺という。この寺は秀吉の菩提を弔うために、北政所(禰々)が慶長十年(一六〇五年)に建仁寺の三江和尚を開山として開創したお寺である。徳川家康は淀君、秀頼と対抗する北政所を政治的配慮より支援し、この高台寺の造営に多大の財政的援助を行ったので、寺観は壮麗を極めたという。一六〇〇年の関ヶ原の戦いの後、一六〇三年には家康は江戸幕府を開いており、一六〇五年に高台寺が完成、それから一六一四年が大阪冬の陣、そして一六一五年の大阪夏の陣で豊臣氏は滅亡している。しかし一方禰々は出家して後陽成天皇より高台院の号を賜って、このお寺にて七十六歳の生涯を終えている。 裏手から廻って山内に入ると、そこに開山堂が見える。ライトアップされている開山堂の前は池となっており、東が臥龍池、西が偃月池と言う。偃月池の真ん中に、方丈と開山堂を結ぶ渡廊、楼船廊が架けられてあり、その中ほどに観月台がある。この観月台は柿葺きであり、秀吉遺愛のものという。偃月池には、北に亀島、南の岬に鶴島を造っており、桃山時代を代表する庭園と言われている。作庭はかの小堀遠州である。開山堂より、方丈庭園へ廻る。こちらも唐門を真ん中に据えた枯山水庭園であり、白沙の部分が極めて広い。壁に沿って左右に楓樹、枝垂れ桜などの樹木を植えている。中央手前には三角錐の砂盛りが二つある。ライトアップは、唐門にまず照明が当てられ、そしてその左右が照らされ、それから白沙の中央に置かれた二つのライトが唐門を中心にして照らし出し、そのあと白沙と苔の陸地に沿って置かれたイルミネーションの小さな光が転じ、それから庭の手前に設置されたライトより、三本のレーザー光線が右手と左手に各々放射される。庭を舞台とした光の芸術とも言えるこのライトアップが、時間の経過と共に一つずつ点滅してゆく様をしばらく眺め入る。 高台寺 ライトアップ

銀 閣 寺

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  方丈も各部屋の戸をはずして開放しており、部屋の畳の中央にある花籠に花を挿したりしている。方丈と東求堂の間の壺庭に、銀閣寺型手水鉢が置かれてある。これは角張った形のもので、なかなかモダンな感じの作りである。そこから池に浮かぶ白鶴島、仙袖島を見ながら、龍背橋を渡る。更に臥雲橋を越えて、月待山に登って行く。銀閣、銀沙灘あたりもライトアップされていて幽玄な雰囲気が漂うが、この月待山もフットライトと共に所々紅葉している楓を照らし上げており、そのライトアップの光が点滅するのが又何とも言えず雅である。石段を上がって行くと、上の方に湧水があり、これを茶の井・相君泉と言う。この辺りはかつて銀閣寺の上部庭園があったところで、斜面には崩れた石組みがあり、枯れ滝石組みの跡と言われている。そうして相君泉の辺りには、禅室西指庵があったと想定されている。 銀閣寺 この銀閣寺は臨済宗相国寺派の別院で、正式には慈照寺という。ここは八代将軍足利義政がもともと東山殿として造営したものである。義政は元来政治向きには興味が薄かったのか、応仁の乱が起こると(一四六七年 ) 将軍職を実子義尚(よしひさ)に譲って、西方寺の庭園を範とした東山殿の造営に着手し(一四八二年)、七年の歳月をかけて造り上げたが、銀閣が上棟した翌年に五十五歳でこの世を去っている。この庭園はもともと池泉舟遊式で池ももっと大きく、銀閣は池に迫り出していたのではないかと言われている。いずれにしても政治の世界を嫌って造園に夢をかけ、夢窓国師を崇拝した義政が、こうして銀閣を造り上げそして東山文化がここから生まれ出たのである。京の町は応仁の乱と言う戦乱の最中にあったにもかかわらず、この東山で一人造園に没頭していた元将軍義政と言う人間がいなくしては、東山文化は存在しえなかったというところに歴史の面白さを感ずる。 相君泉のところから、山の中腹を巡る順路を行く。途中で銀閣のライトアップが見事に見えるところがあり、そこで京の夜景を背景に写真を撮る。園路を下りて、洗月泉を右手に見て、また錦雲池に出てくる。ここから見る銀閣は、その右手にある向月台と共に一番見事である。銀閣の外観そのものは極めてシンプルである。出路に来ると、左手は竹藪となっており、造園の工夫を思わせる。

銀 閣 寺

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仕事の終わった後京阪淀屋橋より、久しぶりに京阪電車に乗り京都に向かう。途中枚方の駅を通過する。昔小学生一年の時に、ここには父と一緒に菊人形を見に来たことがある。京阪終点の出町柳の駅で降りる。そこからタクシーで銀閣寺に向かう。今出川通りの突き当たりが、銀閣寺である。疎水の支流の辺りに来ると、料亭などが並んでおり風情がある。翌日が祭日なので、人出が多い。タクシーを降り銀閣寺橋を渡って進むと、すぐ先に行列の最終列がある。参拝客が多いので、入門を制限しているようである。十五分ぐらい並んで進むと、総門に着く。 入門して右手に曲がると、そこに有名な銀閣寺垣がある。昔二度くらい訪れたことがあるのに、この銀閣寺垣については殆ど記憶がない。「東山水上行」と銘打っての夜間拝観である。銀閣寺垣の先にある中門を入ると、庫裡がある。その前庭は、白沙と松の庭である。足許に明かりが灯されていて、仄かに薫香の匂いが漂う。小門を潜って、庭に入る。まず銀沙灘が前面に広がっているのが目につく。これは当初の作庭にはなかったもので、谷間から流れてきて池にたまる白川砂をすくい上げ、それを利用して後世に作られたものと言われている。いずれにしても斬新なデザインであり、それが巧まずして一つの芸術作品となっているのが面白い。 夜の銀閣寺