銀 閣 寺

 方丈も各部屋の戸をはずして開放しており、部屋の畳の中央にある花籠に花を挿したりしている。方丈と東求堂の間の壺庭に、銀閣寺型手水鉢が置かれてある。これは角張った形のもので、なかなかモダンな感じの作りである。そこから池に浮かぶ白鶴島、仙袖島を見ながら、龍背橋を渡る。更に臥雲橋を越えて、月待山に登って行く。銀閣、銀沙灘あたりもライトアップされていて幽玄な雰囲気が漂うが、この月待山もフットライトと共に所々紅葉している楓を照らし上げており、そのライトアップの光が点滅するのが又何とも言えず雅である。石段を上がって行くと、上の方に湧水があり、これを茶の井・相君泉と言う。この辺りはかつて銀閣寺の上部庭園があったところで、斜面には崩れた石組みがあり、枯れ滝石組みの跡と言われている。そうして相君泉の辺りには、禅室西指庵があったと想定されている。

銀閣寺

この銀閣寺は臨済宗相国寺派の別院で、正式には慈照寺という。ここは八代将軍足利義政がもともと東山殿として造営したものである。義政は元来政治向きには興味が薄かったのか、応仁の乱が起こると(一四六七年)将軍職を実子義尚(よしひさ)に譲って、西方寺の庭園を範とした東山殿の造営に着手し(一四八二年)、七年の歳月をかけて造り上げたが、銀閣が上棟した翌年に五十五歳でこの世を去っている。この庭園はもともと池泉舟遊式で池ももっと大きく、銀閣は池に迫り出していたのではないかと言われている。いずれにしても政治の世界を嫌って造園に夢をかけ、夢窓国師を崇拝した義政が、こうして銀閣を造り上げそして東山文化がここから生まれ出たのである。京の町は応仁の乱と言う戦乱の最中にあったにもかかわらず、この東山で一人造園に没頭していた元将軍義政と言う人間がいなくしては、東山文化は存在しえなかったというところに歴史の面白さを感ずる。

相君泉のところから、山の中腹を巡る順路を行く。途中で銀閣のライトアップが見事に見えるところがあり、そこで京の夜景を背景に写真を撮る。園路を下りて、洗月泉を右手に見て、また錦雲池に出てくる。ここから見る銀閣は、その右手にある向月台と共に一番見事である。銀閣の外観そのものは極めてシンプルである。出路に来ると、左手は竹藪となっており、造園の工夫を思わせる。




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