大 徳 寺 本 坊

 再び大徳寺を訪れる。今秋の特別公開により、大徳寺本坊や興臨院などを拝観できるためである。大徳寺は平安の昔は紫野の茂る野原であったが、ここに臨済宗の大燈国師が大徳庵を営んだのが始まりである。その後大燈国師の徳望が拡がり、まず北朝の花園天皇が勅願所とし、次いで南朝の後醍醐天皇の勅旨も得て、一三二六年に大徳寺創建となった。その後応仁の乱などで衰退したが、十五世紀後半に一休禅師が再興。桃山、江戸時代にかけて興隆し、現在の威容を為した寺である。一休禅師以降も以天、東渓、古岳、春屋、古渓、玉室、沢庵、江月等の名僧を輩出した。大徳寺本坊へは庫裏より入る。庫裏は大竈の炊き口が並ぶ、重要文化財である。それに続くのが食堂(じきどう)、長い食卓が頭上に並べて架けられている。そして方丈前の板の間には、洋風の机と椅子が置かれてあり、その右手には坪庭と井戸がある。方丈庭園は小堀遠州の作と伝えられているが、この庭園は一六三六年に京都の豪商後籐益勝が方丈を寄進した際に、共に作庭されたという。沢庵和尚が紫衣事件で流罪(一六二七年)となり、その波乱の治まった頃である。作庭の作者は天佑和尚であるという説もある。

南庭は長方形の平庭で、方丈の正面に唐門が設けられている。方丈の縁側を歩くとそこはうぐいす張りとなっており、歩を進める度にきゅっ、きゅっと軽快な音を発する。方丈の庭は正面に日光陽明門のモデルとなったひぐらし門の原型である、花鳥の透かし彫りのある唐門がある。これは元聚楽第の正門で桃山時代に建造されたものである。それを村上周防守が拝領し、大徳寺境内山門の西側にあったものを、明治初年に移築したものである。その前には明智光秀寄進の明智門があったが、これは明治初年に金地院に移建されている。庭の手前は瓦敷きの廊下となっており、右手には門主の入る通用門がある。白沙はまっすぐの縦の線と蛇行線が交互に引かれてあり、その文様が面白い。正面やや右に二つの砂盛があり、その右に石が二つある。右の石は高く白沙から出ているが、左の石は平面のみ白沙から出ている石組の島である。鶴島、亀島を表しているものか。唐門の左右の石組みと木の配置、また左手奥には蓬莱山と滝それに滝壺を表している石(平天石---伏せ石)が白沙に埋め込まれており、興趣あり。またその右側の横に長い石二つも面白い。全体としてバランスが取れており、二つの砂盛と石組みの島が右側のポイント、そして滝の石組みが左側のポイントとなっている。こうしてこれらがひとつの空間、宇宙を創り上げており、白沙の部分の広いことが清浄感と広がりを高めているように思う。秀逸な庭の構成である。方丈東庭は生け垣に沿って七・五・三の石組みとなっており、世間的な評価はかなり高い庭であるが、私自身としては余り感銘を受けるところがなかった。

大徳寺 入山道


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