永 観 堂

創建に当たって真紹僧都は「禅林寺清規(しんき)」に「仏法は人によって生かされる。従って我が建てる寺は、人の鏡となり薬となる人づくりの修練場であらしめたい」と願っている。ために当寺は爾来数多くの指導的人材を輩出している。なかでも歌人としても知られる永観(ようかん)律師(一〇三三―一一一一年)が、とりわけ有名である。永観律師は自らを「念仏宗永観」と名乗るほどに彌陀の救いを信じ、念仏の道理の基礎の上に様々な救済活動に尽力したという。当時の禅林寺は、南は粟田口から北は鹿ヶ谷に至る東山沿いの広大な寺域を持っていた。その中に律師は東南院という施療院を建てて窮乏の人達を救い、その人達の薬食の一助にと「悲田梅」と名付けた梅林を設けたりしている。

 

   みな人を 渡さんと思う 心こそ

          極楽にゆく しるべなりけり  

                     永観律師  「千載集」

ある朝永観が一心不乱に念仏行道をしていると、本尊の阿弥陀仏が壇上より降りて、先導するように行道を始められた。永観は夢ではないかと不思議の想いに立ち止まると、それを見とがめられた阿弥陀仏が左に見返りつつ、「永観おそし」と呼び掛けられたという。永観はふと我に返って、目の当たりに顧みておられる尊容を拝して、「奇瑞の相を後世永く留めたまえ」と願うと、その願いが聞き届けられたという。お寺のパンフレットには次のように英文での説明が入っている。

 

In the early morning on February 15, 1082, Eikan was 50 years old and was walking around the platform of the image, praising Nenbutsu (Nam-Amida-butsu) as an ordinary religious service in a temple, where the air was freezing cold. All of a sudden, the image walked down from the platform and begun to lead Eikan. Eikan was so astonished that he could not keep walking. At the moment, the image looked back over its shoulder and said. "Eikan! Follow me." Eikan saw the holy and merciful pose of the image and desired it to keep the merciful pose for future generations. This is a legend why Mikaeri Amida is looking back. 

 

これが「顧如来(みかえりにょらい)」の物語であるが、このお寺の本尊阿弥陀如来像はお顔を左に向けておられるので「みかえり如来」の愛称で呼ばれている。この永観律師の念仏行を当時の大衆が讃仰して、この寺は「聖衆(しゅうじゅ)来迎山無量寿院」とも別称されるが、後世「永観堂」と呼ばれ始めたのも、永観律師の施療活動への報恩の意味をこめてのものという。

 

   忍ぶ寝も 聲なかりけり ほととぎす

           こや禅かなる 林なるらむ

                     永観律師  「新拾遺集」

 

当寺は現在浄土宗西山禅林寺派の総本山となっているが、その経緯は次の通りである。鎌倉時代の初めに源頼朝の帰依を受けた真言宗の学匠静遍僧都(~一二二四年)は、法然上人を批判せんとしてその著「選択本願念仏集」を読んだが、かえって法然の教えに自らの非を悟って、上人をこの寺の一代に推し、高弟西山証空上人(一七七―一二四七年)にこの寺を譲ったことによる。 


永観堂 庭園


コメント

このブログの人気の投稿

県 神 社

天 龍 寺

金 閣 寺