黄 梅 院

 次ぎに黄梅院へ向かう。玄関を迂回して細い露地を通って、園内に入る。本院は一五六一年に春林宗俶禅師が創立した庵居黄梅院が前身で、釈尊三十二代目の法孫・弘忍大満禅師の縁の地である中国黄梅県波頭山東禅寺より命名されたという。春林和尚は信長の帰依を得ており、現在の建物は天正十年(一五八二年)の信長の葬儀後、三年余りの歳月を費やして秀吉が本堂、唐門を造営したものである。その後秀吉は小早川隆景に命じて、表門と庫裏を落慶させている。当院第二世の玉仲和尚の時である。玉仲和尚は秀吉の信を受け、山内に大政所のために天瑞寺を創建したそうである。院内には蒲生氏郷及び小早川隆景の御墓所、毛利家菩提寺の石碑もある。

本堂に上がる手前に直中庭がある。利休六十六歳の時の作庭で、秀吉の所望による旗印・瓢箪の池を手前に置き石橋を架けている。枯山水林泉庭園で、大徳寺第二世の徹翁和尚が叡山より持ち帰ったという不動三尊石を正面奥に構え、左手に清正伝承の朝鮮燈籠を配した苔庭の枯山水林泉庭園である。回廊よりの眺めに、迫力あり。

本堂前庭を波頭庭と言う。手前半分を白川砂で多い、その向こうを桂石で仕切って苔を配し、中央奥に石組みを組んでいる。右の石を観音菩薩、左の石を勢至菩薩と見なして、本尊阿弥陀如来は各自の心の内にあるものを拝せよということであるらしい。実に清浄且つ簡素な庭である。

本堂北側には作仏庭がある。枯れ滝の石組みに橋を架け、海に出たところに舟石を一つ置いている。枯れ滝の二つの立石が仏のようでもあり、雄渾な石組みが見事である。この流れが波頭庭の大海へと流れ込んでいる。「心如大海」である。

三つの庭それぞれに趣がある。そして建物の佇まいも極めて清楚である。作仏庭左には茶室があり、その手前に手水鉢と石組みがある。渡廊の左手にまた庭がある。これは茶室に面しており、楓樹が一本のみ紅葉している。茶室の前は小さな茶庭となっており、長方形と円形の飛び石の置かれた苔庭に、刈り込みと燈籠を配しており、これまた風趣あり。

大燈国師の遺墨「自休」を扁額に掛けている自休軒と呼ばれる部屋がある。この名前より「休」を取って、一休や利休の名前が出来ているそうである。利休の師であった武野紹鴎が造ったという昨夢軒と言う四畳半の茶室もある。書院造りの中にこの自休軒や昨夢軒も組み込まれていることより、囲い込み式と言われており隣りに水屋や丸炉の間もある。これは伏見城の遺構を移築したものだと言われている。秀吉はここを大政所の居所としようと考えたらしいが、やや狭小なので諦めたと言われている。蒲生氏郷は利休切腹後千家断絶を懸念し、千小庵を自らの領地である会津にかくまっている。そして後日徳川家康と謀って、千家再興を成し遂げている。そう言った経緯もあって、蒲生氏郷の墓が当院にあるようである。屋根瓦に、毛利家の三本弓の家紋が入っている。実に見応えのある素晴らしい塔頭で、桃山時代から徳川時代初期にかけての歴史上の著名人に纏わりのあるお寺である。

黄梅院 入口


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