聚 光 院

 大徳寺本坊の隣にある聚光院へ入る。本塔頭は織田信長の台頭迄京の派遣を握っていた三好長慶の菩提を弔うため、養子義継が笑嶺宗訴和尚を請じて一五六六年(信長入京の二年前)に建立したものである。聚光院は三好長慶の法号である。

方丈内の国宝・四季花鳥図は、狩野永徳二十四歳の作である。永徳は狩野元信の孫である狩野松栄直信の長男で、当院では父親の松栄が北の間を描き、息子永徳に中心となる部屋の絵を任せている。これも松栄が息子の器量と天才を把握していたからなのであろう。上間の間(檀那の間)も永徳の描く琴棋書画図である。松栄は下間の間の瀟湘八景図と北の間の豹虎図、遊園図を描いている。

方丈南庭は苔を敷き奥に水平線上に多くの石を配置した蓬莱式枯山水で、真ん中に石橋を架けている。中央左に松、右手に沙羅(夏椿)の樹を植え、庭の構成を整えている。よく見ると、左側の石組みの中で立てた石が効果的であるのが判る。また松の樹の枝振りも面白いと感ずる。三尊石もまた風情あり。夏椿の樹は右手前の中之島にあるが、この夏の水不足のためか枯れている。石組みのあるところは、やや盛り土が施されている。一面の杉苔は室町時代の趣味を表しているのであろうか。また石橋は檀那の間の琴棋書画の図(これも室町時代のものとしては良く保存されており、力強い筆跡で見応えあり)の中の石橋と、呼応しているそうである。百石の庭と呼ばれ、千利休作とも伝えられるが実際はそれよりは古く、作者不詳である由。

 茶室閑隠亭は利休好みで採光を抑えており、三畳台目で客室二畳の上は竿縁天井、点前座一畳の上は蒲天井となっている。これは点前座の天井の材質を低くし、また天井そのものも低くすることで、主人の謙虚さを示すものという。当院開祖・笑嶺和尚は利休の参禅の師であり、利休の墓も当院にある。


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